第129話 「勇者病」の少年 4 勇者の新しい旅立ち
ユリオは、剣を正眼に構える。
魔法強化剣を使う手練の剣士の気がほとばしり、ゼノに圧し掛かかる。
それは、物語の中で語られる華やかな「勇者の覇気」などではない。幾多の修羅場を潜り、泥に塗れ、生き残るために研ぎ澄まされてきた本物の実戦者、武人鍛錬を積んできた者だけが放つ、無慈悲で濃密な「殺気」だった。
「……っ、う……」
ゼノの喉が鳴る。
蝦蟇の瞳に見据えられただけで、こんなに竦み上がるなんて。自分はそんなに矮小な存在なのか。
本能が警鐘を鳴らしていた。だが、ゼノは震える指で剣の柄を握りしめ、必死に自分を偽り続けた。
(違う……俺は勇者だ! 伝説の第一章で、魔物に屈する勇者がどこにいる! これは試練だ、俺を強くするための……!)
「死にたいなら、一歩来い」
ユリオの冷徹な声が響く。もはや遊びではない。ゼノが踏み込めば、その瞬間に首が飛ぶ。『勇者』の一歩目で全ては終わる。――誰もがそう確信した時、背後から大きな影が二人を遮るように割り込んだ。
「そこまでにいたしましょう。ユリオ殿、剣を収めてください」
「……シュレン?」
ユリオが拍子抜けしたように声を漏らす。シュレンは静かに、だが岩のように揺るぎない足取りでゼノの前に立った。
「ゼノ殿、あなたの相手はこの私……シュレンが務めさせていただきます。ユリオ殿は少し、気負いすぎているようですから」
「……あ、あぁ……? 貴様、女の従者の分際で俺と戦うというのか……!」
ゼノは強がったが、内心では絶望に近い戦慄を覚えていた。
目の前に立つシュレン。ユリオとはまた質の違う圧倒的な圧力を放っている。岩壁を思わせる巨躯。その手には、人の身の丈ほどもある、巨大で厚みのあるずっしりとした大刀が、まるで羽毛のように軽く提げられている。
一振りで牛をも両断するであろうその鉄塊を前に、ゼノの足は完全に竦み、退くことさえできなくなっていた。
「オーホッホッホ! 素晴らしいわ、シュレン! さすがは私の忠実な従者ね!」
事態の急変に、最も歓喜したのはクローリディアだった。16歳の女公爵は扇子を畳んで高く掲げ、優雅な足取りで二人の側方へと進み出た。
「いいわ、この私、クローリディア・リリス・ヴァーリ・リュクセムが、この決闘の立会人を務めてあげましょう! 本来なら私のような高貴な者が立ち会うなど、ゴミ同然のドブネズミ一匹の死には勿体ない名誉だけれど!」
クローリディアは審判としての厳格な立場など微塵も気にする様子はなく、その嗜虐的な瞳をゼノに向け、冷酷に、そして愉しげに言い放った。
「さあ、始めなさい! シュレン、手加減など不要よ。その不敬な小僧の首を、一振りで綺麗に撥ね飛ばしてしまいなさい!」
「……お嬢様。立会人というのは、もう少し中立であるべきなのですが」
シュレンが困ったように呟いたが、その眼光は既に獲物を捕らえる猛禽のそれへと変わっていた。
「構えなさい、勇者殿。あなたの『運命』とやらを、私に見せてください。あなたの描いた未来地図を、見せてください」
夜の森に、処刑の前触れのような静寂が落ちた。
◇
圧倒的な体躯でそびえ立つシュレン。
抜いた大刀をだらりと下げ、穏やかな表情のまま微動だにしない。自分からは動かない――それが、格の違いを見せつける何よりの証左だった。だが、その気は、ゼノを圧倒する。
「……ぁ……あぁ……ッ!!」
極限の緊張に、ゼノの精神が限界を迎えた。退路はない。ならば突き進むしかない。
ゼノは悲鳴に近い叫びを上げ、自らシュレンへと打ちかかった。だが、その太刀筋。ひどく乱れ、重心も定まっていない。物語を読んだだけの、一度も実戦を経験していない者の稚拙な剣。それは、誰の目にも明らかだった。
見守るユリオ。あまりの無謀さに「……あちゃあ」と蝦蟇の大きな手を額に当てた。
シュレンは、ゼノが死に物狂いで振るう刃を、まるで羽虫を払うかのように軽く受け流していく。夢中で斬りつけまくるゼノ。シュレンの余裕は微塵も揺るがない。
「勇者殿、これでおしまいですか?」
シュレンは、戦いの中で静かに語りかけ始めた。ゼノが放った渾身の唐竹割りーーだいぶひょろひょろした唐竹割りだがーーを、シュレンはあろうことか指二本で、ひょいとつまむように受け止めた。
「この剣はあまりに軽い……なぜだか分かりますか? あなたが背負っているのが『空想の命』だけで、誰の生活も背負っていないからです。剣の重みとは、人を殺すためのものではありません。生かすための責任そのものなのです」
「う……るさ……い……ッ!!」
なおも食い下がるゼノを軽くあしらいながら、シュレンは捲り上げた袖の隙間から、自らの腕にある無数の古傷を見せた。
「見なさい。勇者とは称号ではなく、泥に塗れて誰かの盾になり続けた結果の呼び名です。あなたは泥を嫌い、輝きだけを求めている。自分の手をご覧なさい。その手は、剣を振るうためではなく、誰かを守り、幸せにするために与えられたものなのですよ」
穏やかだが力強く響き渡る、シュレンの声。
圧倒的な力量の差。そして、厳しくも温かい眼差し。ゼノの心に、空想では埋められない現実の重みが染み込んでいく。
「物語は、ここで終わりです」
ついにシュレンの大刀が閃いた。本気の一閃だ。
思わず、「ひゃあ」と叫び目をつぶってしまったゼノ。
だが、それはゼノを斬るためのものではなかった。シュレンの鮮やかな太刀筋。ゼノの肩で風に揺れていた、あのボロボロのマントを切り落としたのだ。
ひらり、と舞う勇者の証。襤褸は地に落ちた。
シュレンはそれを優しく見つめ、言葉を継ぐ。
「ここからは『ゼノ』という一人の男の人生を始めなさい。マントを脱ぎ捨てた背中こそが、故郷で待つあなたの両親にとってはどんな勇者よりも誇らしいのです。ゼノ殿、あなたは、自分の価値がわかる男です。私にはわかります」
ついに、ゼノの手から力が抜けた。剣を手にしたまま、ガクリと両膝を地につく。歩み寄るシュレン。ゼノの泥だらけの服の「丁寧な繕い跡」をそっと指差した。
「この縫い目を見なさい。あなたが『宿命』と呼ぶものの正体は、あなたを無事に帰したいと願う親の祈りです。その祈りを魔物の餌食にする権利が、あなたにあるのですか?」
ゼノの手から剣が滑り落ち、乾いた音を立てて土に転がった。もはやゼノの頭の中に、輝かしい勇者物語は存在しなかった。浮かぶのは、朝早くから竈で火を熾し、汗を流してパンを焼く父と母の顔。勝手に飛び出してきた自分を、あの日と同じように待っていてくれるだろうか。
「……帰りたい。俺……家に、帰りたい……」
ただ、それだけの思いが口をついた。泣きじゃくるゼノ。シュレンは温かい手を差し伸べる。
「一人で死ぬのが勇者ではありません。誰かと食卓を囲み、笑うために人は生きるのです。今日、あなたが食べた肉の味を忘れないうちに、その味を故郷へ持ち帰りなさい」
シュレンは厳しい戦士の顔に戻り、ゼノの目をまっすぐに見据えて最後の「命令」を下した。
「勝者として勇者ゼノに命じます。あなたの戦場はここではなく、実家の竈の前です。世界を救う前に、まず、あなた自身の人生を救いなさい。……そして、いつか我々が立ち寄った際には、自分と周りの人を幸せにする、勇者の最高の笑顔を見せるのです」
「……ぅ……あああああぁぁぁッ!!」
ゼノは声を上げて号泣した。自分がいかに独りよがりで、どれほど多くの愛を蔑ろにしてきたか、わかったのだ。シュレンの慈愛に満ちた鉄槌は、少年の肥大化した妄想を粉々に打ち砕き、一人の人間としての心を呼び覚ましたのだった。
◇
翌朝、ルヴォニア大森林の隙間から差し込む朝日は、昨日までの湿った空気を追い払うように眩しかった。
焚き火の跡を片付ける一行の前に、ゼノがやってきた。その顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。昨日までの歪な矜持の影は、もうどこにもない。
「皆、世話になった。俺……自分の家に帰るよ。実家は小さなパン屋なんだ。これからは剣は持たない。親父の跡を継いで生地を捏ねることにする」
そう語る少年の声には、地に足のついた響きがあった。ゼノはふと思い出したように、肩から切り落とされた、あのマントだった襤褸を手に取った。
ゼノはそれを、儀式でも行うかのように丁寧に、恭しく畳むと、ユリオたち一行に差し出した。
「これは俺の『勇者』としての最後の欠片だ。皆のことは絶対に忘れない。どうだ、これを俺の思い出に、受け取ってくれないか? ずっと持っていて欲しいんだ」
差し出されたのは、泥と汗と脂が染み込み、元の色さえ判別不能な、異臭を放つ布の塊だった。
一瞬、その場の空気が凍りついた。ユリオ、ルル、エミナ、シュレン、そしてクローリディアの5人は、差し出された贈り物のあまりの汚さに、揃って半歩後ずさりしてドン引きした。
「……いや、それは君自身の思い出のために持っていてくれ。俺たちが持つより、君が持っている方が絶対いい……それを眺めては、この冒険の事、俺たちのことを、思い出してくれ」
ユリオが蝦蟇の顔を引き攣らせて、精一杯の拒絶を口にする。こいつ、最後までとことん非常識だな、と呆れながら。
「そうなのです! それこそがゼノ様が勇者を目指した証なのです! 私たちが奪っちゃ悪いのです!」
エミナも必死にフォローを入れる。
ゼノは「そうか……。確かにこれは、俺の罪と罰の象徴だもんな」と神妙に頷き、その襤褸を自分の懐へと大切にしまった。5人は密かに安堵の溜息を漏らした。
去り際、シュレンとエミナがゼノを呼び止めた。
「道中、これを。食べ物を粗末にしてはいけませんよ」
シュレンが手渡したのは、ずっしりと重い袋だった。エミナとシュレンが、旅で狩った獲物の食べきれない分を、保存の利く干し肉や燻製肉に加工して携行して来たものだ。
「森を出るまではこの道を真っ直ぐなのです。右側のシダ植物が生えている方には絶対に行っちゃダメなのです!」
エミナは、迷子にならないための注意点を、まるで子供に言い聞かせるように何度も繰り返した。
「ありがとう。……本当にかたじけない」
ゼノは全員に対して深く、丁寧に頭を下げた。そして、朝日を背に受けて歩き出した。今度は物語の英雄の歩幅を真似るのではなく、自分自身の確かな足取りで。ルヴォニア大森林の出口を目指して。
去り行く背中を見送りながら、ユリオは蝦蟇の喉を鳴らした。
「……なぁ、あいつ本当に無事に帰れると思うか? まだ森のど真ん中だぜ」
「大丈夫でしょう。ゼノ殿は、なかなかに運が強いようですから」
シュレンが穏やかに答える。
「運なんて、ここまで生き延びるために使い果たしちまっただろ」
ユリオは、昨夜散々「蝦蟇」だの「卑怯者」だのと罵倒されたことをまだ根に持っており、皮肉げに唇を歪める。
「なに、ゼノ殿は、やっと良い巡り合わせに恵まれたばかりです。彼にとっての『本当の物語』は、これから始まるのですよ」
「……ヤレヤレだぜ」
肩をすくめるユリオ。だが、遠ざかっていく少年の後ろ姿を見ていると、ふと、ある思いが過った。
「でも……勇者なんてのは、みんなに呆れられ、笑われながら、それでも無謀な突撃をしちゃう。そういうもんなんじゃないのかね。あいつはちょっと……いや、相当やり過ぎだったけどな」
ユリオの言葉に、ルルとエミナが小さく微笑んだ。
森のざわめきが、新しい一日の始まりを告げていた。
( 「勇者病」の少年 了 )




