第128話 「勇者病」の少年 3 勇者の挑戦
焚き火の爆ぜる音が、しんと静まり返った森に響く。ユリオ、ルル、エミナの三人は、腹を満たして饒舌になったゼノの「英雄譚」をひとしきり聞いた後、顔を見合わせた。
「……なぁ、ゼノ。お前に一つ、いや、たくさん聞きたいことがあるんだが」
ユリオが蝦蟇の大きな口を動かし、呆れを隠さずに切り出した。
「なんだ、蝦蟇騎士。俺の冒険の続きが気になるのか? 魔王城への最短ルートなら、俺の地図に完璧に記されているぞ」
「……いや、その魔王城ってのがどこにある設定なのか知らないけどさ。そもそも、お前はこの世界の情勢をどれだけ知ってるんだ?」
ルルが溜息をつきながら、優等生らしく、けれど容赦のない事実を突きつけ始めた。
「ゼノ、貴方が憧れている物語の中ではそうかもしれないけれど、現実のこのルヴォニア大森林には、お話に出てくるような『魔王の軍勢』なんていないわよ。ここは確かに険しい土地だけど、生息しているのはほとんどが普通の鳥や獣。魔獣も全くいないわけじゃないけれど、滅多に姿を現さないわ」
「なっ……バカなことを言うな! 勇者が修行する場所には、必ずおぞましき魔軍が蔓延っているはずだ!」
「残念ながら、魔族の支配領域との境界線はヴァルレシア王国の遥か南端、ここからは遠く遠く離れているのです!」
エミナが追い打ちをかける。
「それに、今は一人の『魔王』が世界を統べているなんて事実はどこにもないのです。魔族はいくつもの勢力に分かれて内紛を繰り返しているだけで、人間と戦っているのもその一部に過ぎないのです!」
「そ、そんなはずは……。俺が読んだ『銀光の勇者物語』では、この森の奥には漆黒の古龍が眠っていると……」
「それは三百年前に書かれたお話よ」
ルルの冷徹な一言に、ゼノの顔がみるみるうちに青ざめていく。
さらに詳しく問い詰めて分かった事実は、もはや喜劇を通り越して悲劇だった。ゼノは森に入ってからというもの、まともに狩りもできていなかった。
弓と箙は持っているが、そもそも狩りの修練をこれまで一切したことがないのだ。できるはずがない。
「じゃあお前、どうやってここまで生きてこれたんだよ。3日食ってなかったって言ったけど、その前は?」
「それは……通りかかった親切な木樵の老人が、俺の『勇者の威光』に恐れおののいて、パンとスープを献上してくれたのだ……」
「それ、ただの迷い子だと思って同情されただけじゃないのですかーっ!」
エミナが叫ぶ。実際、ゼノは「心配だから」と村の若い衆に森の入り口まで付き添ってもらったり、行き倒れているところを巡礼者に助けられたりと、周囲の善意のバトンを繋いでここまで辿り着いただけだったのだ。
「……で。結局、お前はこの森で誰か一人でも助けたのか? あるいは、一匹でも魔獣、いや猛獣を倒したのかよ」
ユリオの問いに、ゼノは顔を真っ赤にして絶句した。
「……そ、それは……! これからだ! 俺の剣が真の力を発揮すれば、あそこにいた大猪だって……」
「あの大猪はシュレンさんが一撃で仕留めたのです。今のあなたじゃ、あの猪の突進一発で肉塊になるのがオチなのです!」
「ぐ……っ、だ、黙れ! 俺には……俺には宿命があるんだ! 助けられてばかりに見えるのは、世界が俺という希望を失わないように必死に守っているからで……」
苦し紛れの強がりを並べ立てるゼノの姿に、クローリディアが、これまでにないほど冷ややかな、けれど憐れみに満ちた笑みを浮かべた。
「……救いようがないわね。身の程をわきまえない庶民の妄想ほど、醜悪なものはないわ。シュレン、この小僧に鏡を見せてあげて。自分が勇者どころか、ただの『森の迷いゴミ』であることを自覚させてあげるのよ。オーホッホッホ!」
「お嬢様、それは少しばかり酷というものです」
シュレンは苦笑いしながらも、ゼノの肩にそっと手を置いた。
「ゼノさん。物語と現実は違うものです。ですが、あなたがここまで生きてこれたのは、ある意味、運という名の才能があったのかもしれませんね」
「運じゃなくて……宿命だ……。俺は……勇者なんだ……」
蚊の鳴くような声で呟くゼノ。
全てが勘違い、全てが空想。現実の厳しさを何一つ知らない「勇者病」の少年は、そのボロボロのマントを握りしめたまま、焚き火の光の中で震えていた。
「……ま、とりあえず命があるだけ儲けもんだろ」
ユリオは蝦蟇の顔を上に向かせ、星の見えない森の天蓋を仰いだ。自分も呪われた身だが、この少年の「現実の見えなさ」に比べれば、まだマシなのかもしれない――そんな、微かな、けれど苦い優越感を抱きながら。
◇
焚き火の爆ぜる音が、ゼノの荒い鼻息を際立たせる中、ユリオは、せり出した蝦蟇の目でじっとゼノを見据え、容赦のない言葉を叩きつけた。
「いいか、ゼノ。はっきり言ってやる。お前には冒険も勇者も、絶対に無理だ。それは空想の中だけの話なんだよ。……死にたくなければ、今すぐその汚ねえマントを捨てて家に帰れ。子供は大人しく親の飯でも食ってりゃいいんだ」
その言葉は、ゼノがこれまで必死に守り続けてきた「勇者」としての矜持を、真正面から踏みにじるものだった。
「……貴様、何と言った?」
ゼノの顔が屈辱で真っ赤に沸騰する。
「俺は子供じゃない……勇者だと言っているだろうが! 宿命に選ばれた俺を、その蝦蟇の口で二度と子供と呼ぶな!」
「現実を見ろよ。このままじゃお前は野垂れ死ぬ。これは親切で言ってやってるんだ。どうせお前、そんな格好いいこと言ったって、剣もロクに使えないんだろ? 振った途端に自分の足でも斬るのがオチだ」
「――侮辱するなッ!!」
ついにゼノの怒りが爆発した。小さな自称勇者はガタガタと震える膝に力を込め、物置から持ち出したという長剣の柄に手をかけた。
「俺だって剣は使える! 俺の剣技が、物語の中のまやかしではないことを今ここで証明してやる。……立て、蝦蟇騎士! お前も腰に剣を下げているだろう。さあ、勝負だ! 勇者の名に懸けて、その無礼な口を封じてやる!」
抜き放たれた剣は、手入れ不足で曇ってはいたが、焚き火の光を受けて鈍く光った。ゼノは、昂然とユリオを指差す。
しかし、ユリオは立ち上がるどころか、深く溜息をついて視線を逸らした。
「……ハッ、やってられねーよ。腹いっぱいで元気が出た途端にこれかよ」
ユリオは面倒くさそうに背を向け、焚き火の片付けを始めた。
「おい! 逃げるのか! 背を向けるとは勇者に対する冒涜だぞ!」
後ろでゼノがキャンキャンと吠え立てるが、ユリオは相手にする気もなかった。
「勇者様を相手にするほど、俺も暇じゃないんだ。シュレンさん、こいつどうにかしてくれよ。せっかく助けたのに、恩を仇で返されるのは御免だぜ」
「オーホッホッホ! いいじゃない、ユリオ。その小僧、一回叩きのめされて、自分の無力さをその目に焼き付ければいいのよ! シュレン、見物よ!」
クローリディアが面白そうに囃し立てる中、ユリオはただひたすらに「帰れ」というオーラを出しながら、ゼノを無視し続けた。
ユリオが背を向け、黙々と焚き火の始末を続ける姿を見て、ゼノの脳内では奇妙な変換が行われていた。恐怖、諦め、無視――それら全ての反応が、彼の「勇者病」というフィルターを通すと、全く別の色を帯び始める。
「……ははっ、そうか。ようやく気づいたようだな」
ゼノは剣先を震わせながらも、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「俺から溢れ出すこの『勇者の気』に、貴様の蝦蟇の防衛本能とやらが警鐘を鳴らしているというわけだ。正解だよ、蝦蟇騎士。俺と刃を交えるということは、宿命の濁流に呑み込まれるということだからな!」
「……勝手に言ってろ。お前、本当に幸せな頭してんな」
「黙れ、この卑怯者が! 背を向けて逃げるとは、武人の風上にも置けぬ奴め! 怖いのか? 俺の一撃でその醜い頭が飛ぶのが、そんなに恐ろしいのか! この臆病な蝦蟇め、逃げ回って一生泥を啜っていればいい! お前なんか勇者の物語に登場する値打ちすらない」
ゼノの声はどんどん調子に乗り、その罵倒は次第にユリオの容姿や尊厳を深く抉るものへと変わっていった。優越感に浸りきったゼノの瞳には、今のユリオが自分を輝かせるための「不様な敵役」にしか見えていない。
パキッ、と。
ユリオの指先で、片付けようとしていた枯れ枝が折れた。
「……おい。言っていいことと、悪いことがあるだろ」
ユリオの低い、濁った声が地面を這う。
先ほどまでの「面倒くさい」という空気は一変し、そこには冷たく、鋭い殺気にも似た重圧が宿っていた。
「お? なんだ、まだ吠える余力が――」
「わかったよ。そこまで言うなら、遊んでやる。……立て、勇者様」
ユリオがゆっくりと立ち上がる。
周囲の空気が強張った。手慣れた仕草で、腰に下げた剣を抜き放つ。最高の魔法強化剣。それはゼノの「物置の剣」とは違い、日々使い込まれ、命を奪うための冷徹な輝きを帯びていた。
「えっ……あ、おい、本当にやるのか?」
急変したユリオの迫力に、ゼノの頬が引き攣る。だが、引き下がるにはもう遅すぎた。
「……ルル、エミナ。ちょっと黙らせてくる。すぐ終わるから」
ユリオの金色の眼球が、爛々とゼノを射抜く。
焚き火の残火を挟んで、異形の蝦蟇騎士と、泥だらけの自称勇者が対峙した。




