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第125話 砂地獄のシュレン 4 遅れた帰還



 「し、シュレン……? 本当に、本物のシュレンなの!?」


 ルルが信じられないものを見るような声を上げた。


 思わず駆け寄ったエミナは言葉も出ず、幽霊か確かめるようにシュレンの太い腕に恐る恐る触れる。温かい。生きた人間の温もりだ。


 「ええ。この通り、無事でございますよ」


 シュレンは、いつもの穏やかな口調で語り始めた。


 砂の深淵に飲み込まれた時、シュレンは成す術もなく沈み続けていた。だが、数メートルほど沈んだところで、足の裏に硬い感触を覚えたという。そこは溶岩洞窟の流砂の底、さらに下の階層を隔てる岩盤だった。


 「もがいても浮き上がれぬなら、いっそ弾んでみようと思いまして。底の岩を思い切り蹴り抜いたのです」


 大力無双のシュレンが放った渾身の一蹴りは、運良く岩盤の薄い箇所を直撃した。岩盤は砕け、シュレンは流砂と共にさらに下の空洞へと落下した。そこにあったのは、凄まじい勢いで流れる「地下水脈」だった。


 「あの急流に飲み込まれては、ルル殿の気配探知も届かぬはずです。あっという間に流されてしまいましたから。私はただ、荷物を離さぬよう耐えるしかありませんでした」


 水脈を流されること数分。シュレンは天井にわずかな光と、上方へ向かう強い水流の突き上げを感じた。シュレンは迷わずその噴出口へと潜り込み、激しい水圧と共に地上へと押し上げられた。


 明るい光に出会った。視界が開けた時、そこは森の中の美しい泉だった。


 泉の底が地下水脈と繋がっており、シュレンは天然の間欠泉のように地上へ吐き出されたのだ。


 「奇跡的だったのは、ルル殿が授けてくださった『風魔法のヘルメット』です。これがあったおかげで、砂の中でも、地下の急流の中でも、一度も苦しくなることはありませんでした。……泉から這い上がった瞬間にフッと消えましたから、まさに薄氷の勝利です」


 シュレンはそう言って、深く、長く、森の夜気を吸い込んだ。


 「シュレン……ッ!」


 クローリディアが、今にも飛びつきそうな勢いで身を乗り出した。だが、直前で「大貴族」の仮面を辛うじてつなぎ合わせると、扇子を激しく仰いでそっぽを向いた。


 「……フン、当然よ! 私が、荷物を離すなと命じたのですもの。その命令が貴方を守ったに決まっているわ。荷物は……そう、防水梱包を徹底させておいた私の先見の明のおかげね!」


 声の震えが、クローリディアの強がりがギリギリの虚勢(ハッタリ)だと教えていた。


 「はい、お嬢様。おかげさまで、荷物も中身も全て無事でございます」


 シュレンは、抱えていた大荷物と小荷物をそっと地面に置いた。


 ユリオは地面に寝そべったまま、その光景を見て鼻で笑った。


 「ハッ……。ったく、死にぞ損ないの強靭(タフ)な野郎だぜ。……おかえり、シュレン」


 「ただいま戻りました、ユリオ殿」


 焚き火の光が、再び5人の顔を明るく照らす。



 ◇



 焚き火の周りに、ようやく安堵の空気が戻りつつあった。だが、冷静になるにつれ、ユリオの心には一つの疑問が浮かび上がった。


 「なぁ、シュレン。地下水脈に落ちて流されて泉に噴き出して助かったってのは分かったけどよ……。あの大穴からここまで戻るのに、ずいぶん時間が経ってないか? いくら遠くに流されたって、お前の足ならもっと早く戻れたはずだろ」


 ユリオの問いに、ルルとエミナも頷く。砂地獄に消えてから数刻。太陽はとっくに沈んでいる。


 すると、シュレンは大きな体を少し縮こまらせ、これまでに見たこともないような気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。


 「いいえ……。実は、泉に辿り着いたのは、それほど遅い時間ではなかったのです。本来ならば、一刻も早くお嬢様のもとへ駆けつけるべきだったのですが……」


 言葉を濁すシュレンに、クローリディアが「何よ、さっさと話しなさい!」と扇子を突きつける。シュレンは観念したように、その「空白の時間」の真相を語り始めた。


 泉から顔を出したシュレンの脳裏を支配していたのは、生還の喜びだけではなかった。地下水脈を流されるその刹那、見てしまったのだ。岩壁を流れる透明な急流の中に、銀色の鱗を煌めかせて泳ぐ「幻の魚」の群れを。


 それはルヴォニア大森林の地下深く、清冽な地下水脈にのみ生息すると言われる伝説の名魚であった。一生に一度、目にするのも奇跡とされ、至上の美味といわれる。


 「あの魚群を目にした瞬間、私の体の中で炎がメラメラと燃え上がってしまいました。……お嬢様に、あの最高の美味を献上したい。その一念に、抗えなかったのです」


 泉のほとりで無事を確認するや否や、シュレンはすぐさま服を脱いで木の枝に干した。そして、大きく深呼吸をすると、再び泉の底へと潜り、地下水脈との合流点まで泳ぎ戻ったのである。

 

 そこからは、死線を越えた直後とは思えぬ執念だった。


 シュレンは一心不乱に魚を追った。一匹獲っては泉へ浮上して呼吸を整え、また潜る。あり得ない奇跡の魚群を前に、シュレンは、時の経過も、仲間がどれほど絶望しているかも、すべて忘れて子供のように魚獲りに熱中してしまったのだ。


 「……ようやく正気に戻った頃には、ずいぶん陽が落ちておりまして。幸い、干しておいた服もすっかり乾いておりましたので」


 シュレンは照れ隠しに軽く咳払いをすると、茂みの方へ歩いていき、そこに隠しておいたものを一同の前に差し出した。


 「こちらです、お嬢様。これこそが地下水脈の至宝――ルヴォニア・銀鱗魚(ギルギニス)にございます」

 

 その大きな手には、月明かりを反射して真珠のように輝く、数匹の美しい魚が握られていた。死してなお、その身からは高貴な香りが漂い、焚き火の光の中で幻想的に揺らめいている。


 「……っ、こ、これのために、あんたは……!」


 ユリオの蝦蟇(ガマ)の口が、驚きと呆れでぽっかりと開いた。



 ◇



 ユリオは愕然となった。それは、先ほどの死の恐怖や絶望を遥かに凌駕し、精神の土台を粉々に打ち砕くほどの衝撃だった。


 自分が流砂の中でもがき、文字通り砂を噛み、口内をジャリジャリにして体をボロボロにしていたその時――。この巨漢は、美しく清らかな水の中で、子供のように目を輝かせて魚を追い回していたというのだ。


 「……お前、いい加減にしろよ……」


 ユリオの中で何かがブチリと切れた。怒鳴りつけようとしたが、膝に力が入らず、へなへなとその場で崩れ落ちた。体の傷はルルの魔法で癒えていたが、それゆえに無駄に終わった努力の空虚さと、ルルの引き攣った笑顔という新しい棘が心に深く刺さり直す。砂まみれの不快な記憶だけが、重く体にこびりついていた。


 だが、そのやり場のない感情の波に揺さぶられていたのは、ユリオだけではなかった。


 「……っ、う、ぅ……」


 不意に聞こえた、掠れた嗚咽。ユリオが顔を上げると、そこには信じられない光景があった。


 クローリディアが、ボロボロと大粒の涙を流していたのだ。背筋をぴんと伸ばし、胸を張り、リュクセム女公爵としての完璧な姿勢を保ったまま。


 人前で、ましてや従者の前で涙を見せるなど、この世界の貴族にとっては致命的なマナー違反であり、屈辱のはずだった。しかし、クローリディアの瞳からは、堰を切ったように感情が溢れ出していた。


 「……っ、この……この不心得者が!  よくも、よくも……っ、私の前にツラツラと戻ってこられたものね! ええい、笑うな! その締まりのない顔を今すぐ隠しなさい! 貴方は自分が何をしたか分かっているの!? 主であるこの私を、あんな……あんな薄汚い穴の縁で、どれほど待たせたと思っているのよ! 従者でしょう!? 貴方は私の影であり、足であり、所有物のはずよ! 所有物が主の許可なく砂に飲まれるなど、それ自体が重罪だわ! なのに……それなのに貴方は!  助かっておきながら、泉で魚を追いかけていたですって!? ふざけないで……本当に、ふざけないでちょうだい!  貴方が消えた後、私がどんな思いで……っ、いえ、何でもないわ! ああ、腹立たしい! 貴方のその無事そうな姿を見るだけで、腸が煮えくり返るようだわ!  私の命令は『荷物を持って上がれ』だったはずよ。なのに貴方は、時間を無駄にして、私の……私の、たった一人の……。シュレン、これは厳命よ。二度と、二度と私の視界から消えることは許さない! 貴方の命は私に捧げられたもの。勝手に死ぬことも、勝手に魚を獲ることも、すべて……すべてこの私に対する反逆だと知りなさい!……分かったら、さっさとその薄汚い魚を焼きなさい。貴方の無能な立ち回りのせいで、私はもう、立っていられないほど空腹なのよ。……全く、本当に……本当に、馬鹿な従者。……生きて戻るなんて、当然のことなのに……っ、うう……、オーホッホッホ!……お、遅すぎるのよ、馬鹿っ……!! お前は本当に不心得者よ、不敬よ、従者失格だわ!」


 クローリディアは扇子を突きつけ、激しい叱責を叩きつける。だが、その罵倒の中には、抑え切れない喜びがあった。そして、どんなに声を荒らげても、安堵と嬉しさで頬が緩んでしまうのを、クローリディアは止めることができなかった。


 シュレンは、そんな主の罵声を浴びながら、ただ、申し訳なさそうに、そしてどこか嬉しそうにニコニコと微笑んでいる。


 「……お腹が、空いたわね」


 ルルが優しく場をとりなした。シュレンの無事が確認された瞬間、張り詰めていた緊張が解け、猛烈な空腹が一行を襲ったのだ。


 シュレンは弾かれたように立ち上がると、上機嫌で調理の準備を始めた。

焚き火の炎で焼き上げられるのは、地底の至宝――銀鱗魚(ギルギニス)


 じゅわりと脂が滴り、夜の森に芳醇な香りが広がる。シュレンの手際によって魔法のように仕上げられた料理が、一人一人の前に並べられた。


 「……おいしい」


 誰かが呟いた。


 至上の美味。


 口の中でとろける身の甘みと、清流を思わせる爽やかな香りに、誰もが衝撃を受けた。


 クローリディアはまだボロボロと泣きながら、夢中で魚を口に運んでいる。


 最悪の気分だったユリオも、この一皿の滋味に、案外、今日はいい日だったのではないかとさえ思い始めていた。


 「お前、本当は従者想いなんだな。そんなに泣くなんてさ」


 ユリオがふと口にすると、クローリディアはキッとなって彼を睨みつけた。


 「……無礼者! この私が従者のために泣くなどあり得るか! この名魚が我がもとに届いたのは、すべて我が『徳』の高さゆえ。あまりに徳が高すぎて、感極まってしまっただけですわ! オーホッホッホ!」


 泣き腫らした顔で無理やり高笑いをする16歳の女公爵の姿に、ユリオはただただ呆れ果てた。


 ルルとエミナは、そんな騒がしい主従を温かな眼差しで見守っている。


 蝦蟇(ガマ)顔の少年の腹腔を、温かな魚の滋味が満たしていく。


 大森林の夜は更けていくが、5人の心には、砂地獄の冷たさを消し去るような確かな熱が灯っていた。




 ( 砂地獄のシュレン 了 )



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