第123話 砂地獄のシュレン 2 救出作戦
大穴の底に広がる無機質な砂の海。
その静寂は、一人の尊い命が呆気なく飲み込まれたことへの非情な返答だった。
「……嘘だろ。あんな、あんなことがあってたまるかよ!」
ユリオの濁った声が静寂を切り裂いた。左右に張り出した金色の眼球が、激しい怒りに細まり、クローリディアを射抜く。
「おい、お前! 今の見てたよな!? シュレンは、お前の『荷物を捨てるな』って命令を守ったせいで、縄を掴めなかったんだぞ! 分かってんのか!?」
「ユリオ様の言う通りなのです! エミナたちが必死で投げた命綱を、あなたのワガママのせいでシュレンさんは無視したのです! 今すぐ謝れなのです!」
エミナも涙目で食ってかかる。だが、草地に座り込んだクローリディアは、乱れたドレスの裾を払うと、昂然として二人を見据えた。
「……謝る? なぜ私が謝らなければならないの? 主君の財産を守るのは従者の当然の務め。あの荷物には、私がリュクセム公として再起するための軍資金や宝物が詰まっているのよ。シュレンは最高の従者として、その責務を果たした。ただそれだけのことよ。オーホッホッホ!」
扇子を広げ、いつものように高く、鋭い笑い声を上げる。
だが、その指先は、隠しきれぬほど細かく震えていた。
実際には、クローリディアの心根は恐怖と後悔に塗り潰されようとしていた。自分の軽率な命令が、幼少期から自分を支え、守り続けてくれた唯一の理解者であるシュレンを死なせてしまったのではないか。その事実に、心臓が握りつぶされるような焦燥を感じていた。
(シュレン……死なないで、死なないでちょうだい……!)
叫び出したくなる衝動を、彼女は「大貴族」という重い仮面で押さえつけていた。
クローリディアが受けた過酷な帝王教育において、上の者が下の者のことでうろたえ、オロオロと取り乱すことは、最も忌むべき「はしたない振る舞い」であった。上に立つ者は常に威厳を持ち、弱みを見せてはならない。それが、下の者を導く者の絶対的なルールだったのだ。
たとえ内臓が焼かれるような苦しみの中にいても、クローリディアは傲岸不遜な女公爵として振る舞わねばならなかった。
「あんた、本当に血も涙もねえのかよ! 中身はほとんどお前の宝石とか着替えとか、贅沢品ばっかりだったじゃねえか! そんなもんのために、あんな良い人が死んでいいわけないだろ!」
ユリオが怒鳴るが、クローリディアはあえて冷酷に言い放つ。
「贅沢? 心外ね。あれは私の『尊厳』そのものよ。庶民の小僧には理解できないでしょうね! 高貴な身分には、それに相応しい設えが必要なの。泥に塗れて生き延びるくらいなら、私は誇りと共に死ぬわ。シュレンはそれを分かっていたからこそ、私の命令に従った。彼は最高の従者として本望だったはずよ!」
「本望なわけあるか! この最低の性悪女!」
ユリオが蝦蟇の顔を真っ赤にして叫び、今にも飛びかからんとしたその時だった。
「――2人とも、そこまでになさい。まだ、間に合う」
ルルの、静かだが凛とした声が響いた。
ルルは額に大粒の汗を浮かべ、一点を凝視したまま全神経を集中させていた。その豊かな胸元が、激しい魔力の消費に合わせて波打っている。
「ルル……? 間に合うって、どういうことだよ」
「シュレンが砂に飲み込まれる直前、私は風を操り、風を集めてシュレンの頭部を覆うように『空気の層』を固定したわ。ヘルメットのような酸素の塊をね。……これがある限り、シュレンさんは砂の中でもしばらくは呼吸ができるはずよ」
「ルルさん、本当なのですか!?」
エミナが希望に顔を輝かせる。その瞬間、クローリディアの瞳にも、一筋の光が差し込んだ。
(生きている……? シュレンが、助かるの!?)
爆発しそうな安堵が胸を突いたが、クローリディアは即座にそれを押し殺し、不敵な笑みを浮かべ直した。
「……フン、当然ね。あのシュレンが、たかが砂ごときで果てるはずがないわ。ルル、よくやったわ。貴女のその働き、後でたっぷり褒めて差し上げてよくてよ!」
「褒美なんていらないわ。今は一刻を争うの。私の魔力にも限界がある。砂の圧力で空気の塊が潰される前に、シュレンを引きずり出さないと……本当に窒息してしまうわ。言い争っている暇はないわよ、ユリオ。今すぐ救出作戦を始めるわ!」
「ああ、分かった! ルル、さすがの風魔法、ありがとうな!」
ユリオは自分の蝦蟇の口をギュッと結び、再び命綱を握りしめた。
◇
高慢な女公爵の仮面の下にある真実の顔。
それに気づかぬまま、一行は底なしの砂地獄へと再び挑む。
◇
「――よし、作戦を説明するぞ!」
ユリオは自分の濁った声を張り上げ、穴の縁で拳を握った。
作戦は単純にして過酷。砂潜り役が命綱を腰に固定して砂の海へと飛び込み、手探りでシュレンを探し出す。見つけ次第、予備のベルトや鉤でシュレンの巨躯を固定し、残りのメンバーで一気に引き上げる。まさに潜水夫の要領だ。
「で、だ……」
ユリオは、せり出した眼球をきょろきょろと動かしながら、少し後ずさりした。
「この砂潜り役、俺には無理だ。見てくれよ、この呪われた肌を。蝦蟇の皮膚は常に湿ってなきゃならないんだ。あんな、水気を吸い取るサラサラの砂の中に飛び込んだら……俺の顔、今度こそガビガビの干物みたいになって、完全に崩壊しちまう!」
ユリオは必死に自分の喉を鳴らし、言い訳を並べ立てた。
「だから、この役はお前ら3人のうち、誰かがやってくれ。俺は地上に残って、この力強い腕でしっかり引き上げてやるからな。……な? 適材適所ってやつだろ?」
ユリオの言葉が終わるか終わらないかのうちに、その場に重苦しい沈黙が降りた。
「…………」
ルル、エミナ、そしてクローリディア。3人の女子の視線が、無言のままユリオ一点に、じーっと突き刺さった。
ルルは、いかにも潔癖症の女子高生らしく、想像しただけで自分の肌が砂まみれになることに激しい拒絶反応を示している。魔防戦衣の下にある爆乳が、不快感による溜息で大きく波打った。
エミナは、忠実な家臣でシュレン大好きではあるが、流石にあの無機質な砂の海に潜るのは「まっぴら御免なのです!」という表情を隠しきれていない。
クローリディアに至っては。論外と言わんばかりに顎を上げ、「高貴な私の肌に、あんな汚らわしい砂が触れるなんて天変地異でも起きない限りあり得ないわ」と、瞳で語っていた。
「……え、いや、なんだよ。その目は。俺、本当に無理だってば!」
女子たちの無言の圧力が、逃げ腰のユリオをじわじわと追い詰めていく。
ルルは「ユリオならやってくれるわよね?」という信頼(という名の強要)に満ちた視線を向け、エミナは「ユリオ様は勇者なのです、ですよね?」という期待の眼差し、そしてクローリディアは「さっさと行きなさい、この蝦蟇」という冷徹な命令の視線。
「……っ、分かったよ! 行きゃいいんだろ、行きゃあ!」
キリキリと胃を痛めながら、ついにユリオは折れた。女子の圧力には、勇者の力も蝦蟇の呪いも無力だった。
【財布担当】から、【鍋担ぎ】、そして命懸けの【砂潜り】……
なんか俺、どんどんまずくなってない?
しかし、引き受けざるを得なかったのだ。ハーレム大魔王たるものが、女子の圧力に逆らえないなんて……
「ただし! 引き上げる時は全力で頼むからな! 砂の中で俺が干物になったら、お前ら一生、恨んでやるからな!」
ユリオは捨て台詞を吐きながら、腰に太い縄を二重に巻き、先端の鉤を握りしめた。
目の前に広がるのは、静かに獲物を待つ砂の深淵。




