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第122話 砂地獄のシュレン 1 崩落



 ルヴォニア大森林の旅は、常に死と隣り合わせだ。だが、その脅威は必ずしも凶悪な猛獣毒虫だけではない。


 この森の地表は、太古に起きた大噴火によって流出した溶岩が冷え固まって形成されている。その下には、冷える過程でガスが抜けたり溶岩が流れ去ったりしてできた、巨大な「溶岩洞窟」が網の目のように張り巡らされていた。


 歳月を経て、薄くなった岩盤の上に土が堆積し、巨木が根を張っているが、そのバランスは極めて脆い。



 「……なぁ、ルル。さっきから地面の下で、妙な音が響いてないか?」


 ユリオは、せり出した蝦蟇(ガマ)の眼球をキョロキョロと動かしながら尋ねた。耳まで裂けた口が動くたび、粘膜が擦れる嫌な音がする。


 「音? 気のせいじゃないかしら。私は何も聞こえないけれど……」


 前を行くルルが振り返る。その視線はユリオの顔を捉えた瞬間、わずかに泳いだ。


 ルルは今も、ユリオを唯一無二の旅の仲間として信頼している。だが、かつてのような「美少年ユリオ」を直視する時と、今の、鼻筋が消えてイボだらけになった緑色の怪物を直視する時では、どうしても脳が送る信号が異なっていた。


 ルルは、琴見咲良(ことみさくら)の時から持ち越している強い精神力で「生理的な嫌悪」を必死に押し殺し、努めて平静を装っているのだ。


 「ユリオ様、お疲れなのですか? エミナには何も聞こえないのです。もしかして、蝦蟇(ガマ)の耳は地面の音を拾いやすいのですか?」


 エミナが心配そうに駆け寄る。この忠実な家臣の娘にとってもユリオは命を預けるべき御主君だ。だが、ユリオの顔に近づこうとした瞬間、蝦蟇(ガマ)の頭から噴き出すかすかな粘液の匂いと、ぬらぬらとした質感に、無意識のうちに半歩、距離を置いてしまう。


 その「半歩」が、今のユリオには毒のように突き刺さった。


 「オーホッホッホ!  蝦蟇(ガマ)になったせいで、地底に住む仲間たちが呼んでいるんじゃないかしら?  早くそこへ帰りなさいな!」


 シュレンの肩の上で、クローリディアが扇子を広げて高笑いする。この自分の国から脱出してきた女公爵だけが、ある意味で裏表なく、今のユリオを「怪物」として扱っていた。


 「黙ってろ、この性悪女……! ――っ、いや、マジでやばいぞ! 逃げろ!」


 ユリオの蝦蟇(ガマ)の感覚が、最大級の警鐘を鳴らした。



――ミシリ。



 次の瞬間、世界が音を立てて崩壊した。


 「えっ……?」


 ルルが声を上げる間もなかった。


 一行が歩いていた足元の岩盤が、まるで薄い氷のように砕け散ったのだ。広範囲にわたる大規模な落盤。


 地下に眠っていた巨大な溶岩洞窟の「天井」が、ついに限界を迎えたのである。


 「きゃあああああっ!」


 「うわあああ!」


 5人の体は、重力に引かれて暗黒の空間へと吸い込まれた。


 視界が上下し、浮遊感が全身を包む。


 だが、恐怖はそれだけでは終わらない。


 地表の巨木たちが、根こそぎ剥がれ、重なり合うようにして穴の底へと倒れ込んできたのだ。


 「ルル! エミナ!」


 ユリオは空中で叫んだ。


 巨大な樹木の影が、落ちていく彼女たちの頭上を覆い尽くそうとしている。


 暗い穴の底から吹き上がる冷たい風と、崩落する土砂の轟音が、5人の意識を飲み込んでいった。


 

 「――お嬢様を頼みます!」


 落下が始まった刹那、凄まじい咆哮が響いた。


 真っ先に動いたのは、シュレンだった。この大男は自由落下の最中、自らの巨躯を支点にするようにして、肩に担いでいたクローリディアを、地表の縁目掛けて思い切り放り投げた。その膂力は、少女一人を紙屑のように軽々と宙へ押し上げる。


 「えっ……きゃああああっ!」


 空に投げ出されたクローリディアが悲鳴を上げる。


 その声で、我に返ったのはルルだった。


 「風よ! 風よ! 集え――!」


 ルルは即座に風魔法を発動させた。


 激しい風が周囲に吹き起こり渦巻き、その華奢な体を宙で押し留める。風の翼である。


 同時に、放り投げられたクローリディア、そして横で落下していたユリオとエミナにも、不可視の風の衣、風の翼を纏わせた。


 フワリ、と、重力を無視した浮遊感が一行を包む。


 ルルの巧みな魔力操作により、崩落に巻き込まれた巨木が空を裂いて落ちてくるのを躱しながら、 4人は穴の外、安全な草地へと吸い寄せられるように着地した。


 だが――。


 「シュレン……!? シュレン、どこなの!」


 草地に降り立ったクローリディアが、乱れた髪を振り乱して穴の底を覗き込んだ。


 ルルの風魔法は、重い装備と大荷物を背負った巨漢のシュレンまでを救い出す余力はなかったのだ。4人を浮かせて安全圏に連れて行くので、限界だった。


 「あそこだ……! 底に落ちてる!」


 ユリオは、せり出した蝦蟇(ガマ)の目で暗い穴の底を捉えた。


 そこには、地表から崩れ落ちた岩や土砂が粉々に砕け、気の遠くなるような年月を経て堆積した、恐ろしくキメの細かい「砂の層」が広がっていた。


 「……っ、これはまずい。砂地獄だ!」


 ユリオの叫び通り、底に落ちたシュレンは、その自らの重みと背負った荷物の重みで、ズボッと胸まで砂の中に埋没していた。


 地底に広がるのは、一度踏み込めば2度と出られない、底なしの流砂だった。


 「シュレン! 今助けるのです! ルルさん、土魔法なのです! 土を固めてシュレンさんを救い出すのです!」


 エミナが叫び、ルルに縋り付く。


 だが、ルルは蒼白な顔で唇を強く噛み、首を振った。


 「ダメよ……。私の土魔法は、岩や粘土質の土に干渉して『形を変える』もの。あんなにサラサラした、粒子の細かい乾燥した砂を固めることはできないわ……。力を加えれば加えるほど、砂は流動して、シュレンをさらに深く飲み込んでしまう!」


 「そんな……! 嘘だろ、ルル!」


 ユリオは絶望的な光景を見た。


 穴の底で、シュレンがもがくたびに、周囲の砂がすり鉢状に渦を巻き、大きな体を深淵へと引きずり込んでいく。


 「お嬢様……、皆さん……。私は、どうやらここまでのようですな」


 砂に胸まで埋まったシュレンが、見上げるような高さの地表に向かって、いつもと変わらぬ穏やかな、だが力ない微笑みを向けた。


 「シュレン! ふざけないで、勝手に死ぬなんて許さないわ! 私の荷物は!? 誰が運ぶっていうのよ! 早く上がってきなさい、これは命令よ!」


 クローリディアが必死に叫ぶ。その声は震え、高慢な態度の裏に隠しきれない、幼子のような恐怖が滲んでいた。


 しかし、無情にも流砂は止まらない。


 シュレンの肩までが、ゆっくりと、確実に、死の砂の中に消えていった。

 


 「シュレン、諦めるな! 今助ける!」


 ユリオの濁った声が、大穴の底へと響き渡った。


 焦燥感に突き動かされ、ユリオは背負った大鍋をかなぐり捨てると、エミナと目配せを交わした。2人は熟練の武人らしい超人的な手際で、装備の中から太く頑丈な麻縄を取り出す。


 「エミナ、そっちを頼む!」


 「分かっているのです! 逃がさないのです!」


 2人は大穴の縁に深く根を張った巨木の幹に、迷いのない手つきで縄を固定した。急ごしらえの命綱。ユリオはその先端に、重石代わりの金具をくくりつけると、正確無比なコントロールでシュレンの元へと放り投げた。


 風を切る音と共に、縄の端がシュレンの目の前に着弾する。


 「間に合った……!」


 ユリオは、せり出した蝦蟇(ガマ)の目でその光景を確認し、安堵の息を漏らした。


 だが、次の瞬間、絶望は予期せぬ方向から降ってきた。


 「シュレン! 荷物は絶対に捨ててはなりません! 必ず全部持って上がってくるのです! これは命令よ!」


 地表に立ち尽くすクローリディアの、金切り声だった。


 クローリディアは、砂に沈みゆく従者の命よりも、その背にある「リュクセム公国の財宝」と「自分の贅沢品」を優先したのだ。


 「……っ!?」


 ユリオがハッとして底を見下ろすと、事態は最悪の局面を迎えていた。


 落下の衝撃で、シュレンの荷物を固定していた革紐が切れていたのだ。


 シュレンは、流砂に呑まれながらも、クローリディアの命令に従い、巨大な大小の荷物を両腕で必死に抱え込んでいた。


 右腕に公国伝来の調度品。左腕にお嬢様の着替えと宝飾品。


 両手が塞がったシュレン。目の前に垂れ下がった命綱を、掴むことができない。


 「シュレン、荷物なんてどうでもいい! 縄を掴め!」


 ユリオが叫ぶ。だが、シュレンは悲しいほどに忠実だった。


 シュレンはクローリディアの命令を絶対のものとして、荷物を離さなかった。大力無双の勇者であっても、腕を使わずに砂地獄から這い上がる術はない。


 「お嬢様……お元気、で……」


 シュレンは最後、いつものように穏やかに、そして少しだけ困ったような笑みを浮かべた。


 ズルリ、と砂が流れる。


 荷物を抱きしめたまま、シュレンの頭頂部がさらさらとした無機質な砂の波に飲み込まれ、完全に姿を消した。


 命綱だけが、主を失って虚しく砂の上を滑った。


 大穴の底には、何事もなかったかのように静まり返った流砂の平原が広がるばかりだった。


 「……う、そだろ……」


 ユリオは呆然と、自分の手を見つめた。


 エミナは膝をつき、ルルは絶句して穴の底を見つめ続けている。


 そして、自分の言葉が従者を死に追いやったクローリディアだけが、信じられないものを見るような目で、静寂に包まれた砂地獄を凝視していた。

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