第121話 エミナのお化粧 下
ユリオたちの姿が完全に見えなくなるまで草むらをかき分け、エミナは小さな泉のほとりに辿り着いた。胸に抱いた化粧箱の重みが、今は大きな幸福の重みに感じられた。
エミナの夢。父ヴァイシュから与えられた夢は、エリューシオ子爵家当主となって、家の再興に尽くすことである。エミナは、没落貴族の家系で、ずっと庶民として育ってきた。父ヴァイシュが勲功によってエリューシオ子爵の地位を取り戻し、貴族の列に復帰したのは、ごく最近のことである。今はユリオの謀反人宣告のとばっちりで、エリューシオ子爵の爵位は王国から剥奪されていたが。
最近、貴族になったばかり。エミナの「本物の貴族」への憧れ、貴族たらんとする覚悟は、強烈だったのである。
生まれながらの本物の貴族の所作、立ち振る舞いは、幼少からやってないと、なかなか身に付かないものである。だが、エミナは、少しでも貴族の世界に近づきたかった。
「ふふ、ふふふん。エミナだって、最高級のお姫様になっちゃうのです!」
鼻歌まじりに箱を開け、エミナは並べられた道具を一つ一つ手に取った。どれもが溜息が出るほど美しく、贅沢な細工が施されている。まずはクローリディアがやっていたように、肌を白く整えようと、真珠のような光沢を放つ小さな瓶の蓋を開けた。
「……? これ、どうやって出すのですか?」
傾けても、振っても、中身は出てこない。エミナがこれまで使っていた、指で掬うだけの安価な軟膏とは構造がまるで違ったのだ。ようやく使い方がわかって顔に塗ってみたものの、今度はその伸びの良さに驚かされる。ほんの少しで顔全体が真っ白になってしまい、まるで森に現れる幽霊のようになってしまった。
「あわわ、多すぎたのです! ええと、次は……紅を差すのです!」
焦って手に取ったのは、見たこともない形状の刷毛だった。どの色をどこに、どの程度塗ればいいのか。最高級の品々は、素人であるエミナが扱うにはあまりにも繊細で、高度な技術を要するものばかりだった。
(……クローリディア様に訊きに行く……なんて、絶対無理なのです。あんなに威張っているお姫様……あの人は、性格はもうどうしようもなくダメなのです……。やり方を知らないなんてバレたら、一生『無知な下女』って笑われるのです!)
エミナは必死だった。クローリディアのように、優雅に、完璧に、ユリオが目を剥くような美しさを手に入れなければならない。しかし、水面に映る自分の顔は、お姫様どころか、戦場帰りの返り血を浴びた兵士のように、不自然な赤と白が入り乱れた無惨なものになっていった。
「なんで……なんで上手くいかないのですか! エミナは、ただ綺麗になりたかっただけなのに!」
苛立ちと焦りが、エミナの指先を狂わせる。力任せに、金細工が施された細い筆を蓋に戻そうとした、その時だった。
パキッ――。
静かな森に、取り返しのつかない乾いた音が響いた。
エミナの手の中で、リュクセム公国の至宝とも言える最高級の化粧筆の軸が、無残にも真っ二つに折れていた。
「……え?」
エミナの時間が止まった。
これは、クローリディアが「今回だけ貸してやる」と言った、とてつもなく高価な私物だ。
「……あ……ああああ…………」
折れた筆を見つめたまま、エミナの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
お化粧はめちゃくちゃ、顔はひどい有り様。その上、借りた宝物を壊してしまった。ユリオ様にかっこいいところを見せるどころか、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
「もう……もうおしまいなのです。エミナ、合わせる顔がないのです……。ユリオ様……ルルさん……うわあああん!」
エミナは折れた筆を抱きしめたまま、その場に泣き崩れた。お姫様への憧れは、最悪の絶望へと一瞬で塗りつぶされてしまったのである。
お前は、絶対に本物の貴族にはなれない、お姫様にはなれない、そんな声が、耳をこだまする。
◇
草むらに響くエミナの泣き声。それをかき消すように、静かに、けれど確かな足取りで近づく影があった。
「――おやおや、そんなに泣いては、せっかくの泉が溢れてしまいますよ」
現れたのはシュレンだった。エミナがあまりに戻ってこないため、心配して見に来たのだ。シュレンの穏やかな視線は、すぐにエミナが握りしめている真っ二つに折れた化粧筆へと注がれた。一瞬で全てを察したシュレンは、エミナの前に膝をついた。
「し、シュレンさん……! エミナ、とんでもないことをしちゃったのです! お嬢様の宝物を……!」
「心配いりませんよ、エミナ殿」
シュレンはエミナの手から折れた筆をそっと預かると、懐から小さな小刀と修繕用の糸を取り出した。シュレンは大力無双の戦士でありながら、その巨躯に似合わぬほど手先が器用だった。シュレンは折れた断面を薄く削り、まるで経年劣化で自然に折れたかのように、あるいは最初から継ぎ目があったかのように、見事な細工を施していく。
「……これで大丈夫です。あとは私が、お嬢様にうまいこと説明しておきましょう」
魔法のような手際に、エミナは涙を拭うのも忘れて見入っていた。しかし、すぐに不安が頭をもたげる。
「でも、シュレンさん……こんなことして良いのですか? これじゃ、シュレンさんがお嬢様を裏切ることになっちゃうのです……」
エミナの問いに、シュレンは柔らかな微笑を湛えたまま、静かに首を振った。
「いいえ。これはお嬢様のためでもあるのです。壊れた道具は直せませんが、一度壊れた信頼関係を直すのはそれ以上に難しい。もしこの件であなたとお嬢様が決裂し、お嬢様があなたの料理を食べられなくなってしまったら、それはお嬢様にとって最大の不幸ですから」
シュレンは立ち上がり、エミナの顔を真っ直ぐに見つめた。
「それに、こんな化粧筆よりも、あなたの方がよっぽど輝いています。私にとっても、あのお嬢様にとっても、そして何よりユリオ殿にとっても、エミナ殿のその輝きは必要なのですよ」
その言葉に、エミナの心に立ち込めていた暗雲が、一気に晴れ渡った。彼女は力強く頷くと、泉の水で不自然に塗り固めた化粧を全て洗い流した。水面に映ったのは、いつもの、けれど少しだけ誇らしげな、14歳の少女の顔だった。
2人が皆の所に戻ると、シュレンは極めて自然な動作でクローリディアに報告した。
「お嬢様、申し訳ございません。こちらの化粧筆ですが、長年の使用で少し脆くなっていたようです。エミナ殿が手にした瞬間に折れてしまいました。私の管理不足です」
「あら、そうなの? まあ、あんなもの何本もあるし、構わないわ。公国の職人も、最近は腕が落ちたのかしら。不良品を掴ませるなんて、後でギロチンね!」
クローリディアはいつもの毒舌で切り捨て、それ以上追求することはなかった。
一方、素顔のまま戻ってきたエミナを見て、ユリオは不思議そうに首を傾げた。
「……なんだエミナ、結局お化粧はしなかったのか?」
左右に飛び出したユリオの金色の目が、じっと自分を見つめている。エミナはその視線を真っ向から受け止め、今日一番の、最高の笑顔で答えた。
「そうなのです! エミナは、エミナでいるのが一番なのです!」
大森林の夕陽を浴びて、少女は誰よりも眩しく笑った。その姿は、どんな高価な化粧道具も及ばない、生命力に満ちた輝きを放っていた。
( エミナのお化粧 了 )




