第120話 エミナのお化粧 上
その日の道のりは、これまでの旅路の中でも最悪と言っていい難路だった。
地面は底の見えない泥濘と化し、行く手を阻むのは、鋼のように硬いトゲを持つ鉄条茨の群生。ユリオは、背負った大鍋を枝に引っ掛けないよう細心の注意を払いながら、一歩一歩、粘りつく土を踏みしめていた。
「……はぁ、はぁ。ルル、大丈夫か? 足元、かなり滑るぞ」
ユリオは横に飛び出した蝦蟇の目で見守る。視界が広いおかげで、背後を歩くルルの足元の揺らぎまで手に取るように分かった。
「ええ、平気よ。それよりユリオ、顔に泥が跳ねても拭き取りにくそう……無理しないで」
「……ああ、気遣い感謝するよ」
ルルの言葉は優しいが、その視線はどこか「ヌルヌルしたもの」を避けるような、ビミョーな距離感を保っている。それが今のユリオには、何よりも心に刺さった。
一方で、一行の先頭を行くシュレンは、その巨体に似合わぬ軽やかな足取りで、肩に担いだクローリディアを一切揺らすことなく進んでいた。
「シュレン! もっと慎重に歩きなさい。私のドレスに泥の一滴でも飛んでみなさい、貴方の首をギロチンに懸けても足りなくてよ!」
クローリディアは、担がれながら扇子をパタパタと動かし、身勝手な不満を漏らす。
「はいはい、お嬢様。お召し物は私の命よりも大切に扱っておりますので、ご安心を」
シュレンはいつものようにニコニコと笑いながら、目の前の巨木を大刀の峰で軽く叩いた。すると、樹上から鮮やかな極彩色の羽を持つ虹山鶏が驚いて飛び出してきた。
「――そこです!」
シュレンの手から銀光が走る。投剣が正確に鶏を射抜くと同時に、横からエミナの矢が放たれ、茂みから逃げ出そうとした金縁兎の喉元を貫いた。金縁兎とは、耳の縁と背中の毛先が金色に輝く希少な野兎である。
「やったのです! シュレンさん、今日は大漁なのです!」
「ええ、エミナ殿。今日は早めに切り上げて、この珍しい獲物を最高の馳走に仕上げましょう」
例の毒草事件で、エミナは一時料理をする気力を失くしていたが、こんな事故は本当に稀なことで、エミナのせいじゃないし、心配だったら、ルルが毒見魔法で事前にチェックするからといって、みなでエミナを励ました。またエミナは元気に笑顔で料理をするようになっていた。
まだ日は高かったが、難路で消耗した一行は、見晴らしの良い巨岩の陰で野営することに決めた。この辺は、乾いた草地が広がっている。泥濘にうんざりしていた一行には、格好の避難場所だった。
焚き火が爆ぜ、森の中に食欲をそそる芳醇な香りが立ち込める。
シュレンは手際よく虹山鶏を捌き、大森林で採れた香草と岩塩で包み焼きにした。エミナは金縁兎の肉を細かく叩き、秘蔵の香料と野苺の果汁を煮詰めた特製ソースで仕上げる「大森林風パテ」を作り上げた。
「さあ、お嬢様。できましたよ」
「ルルさん、ユリオ様! 今日のご飯はエミナの自信作なのです!」
差し出された料理を一口食べた瞬間、クローリディアの瞳がアメジストのように輝いた。彼女は扇子で口元を隠しながらも、その頬を幸せそうに緩ませる。
「……ふん、まあまあね。この鶏の焼き加減、皮のパリパリ感と肉汁の調和……。そしてこの野兎のソースの甘酸っぱさ。シュレン、貴方の腕は相変わらずね。そして下女……いえ、エミナ。貴女も少しはシュレンの背中を見て成長したようじゃない。オーホッホッホ!」
クローリディアは満足げに胸を張り、周囲を見渡した。
「見なさい! これほど贅沢な食卓がこの大森林で整うのは、ひとえにこの私、クローリディア・リリス・ヴァーリ・リュクセムの徳が高いからに他ならないわ! 私の高貴な気が、森の恵みを呼び寄せ、優秀な料理人たちを奮い立たせているのよ。感謝なさい、蝦蟇小僧!」
ユリオは、野兎のパテを頬張りながら、裂けた口をへの字に曲げた。
「おい、勘違いするなよ。エミナはお前の料理人じゃねーよ。俺たちの仲間だ。それに、おまえの徳だ気だ関係ない。ただあいつらが腕がいいだけだろ」
「あら、主人が優秀なら、その配下まで輝くのは世の理よ。エミナも、私の側近として料理番に任命してあげてもよくてよ? 光栄に思いなさいな!」
「誰が任命されるかってんだ。……ったく、飯を食ってる時くらい静かにしてろよ、性悪女公爵」
ユリオの毒づきも、クローリディアは高笑いと共に受け流し、また一口、美味しそうにエミナの料理を口に運ぶのだった。その様子は、傲慢でありながら、どこか毒気を抜かれた無邪気な食いしん坊のようでもあった。
なんだかんだ、16歳の少女なのである。それも、超絶美少女。
だからといって、何でも許される訳では無いぞ、とユリオ。貴様はいずれ何があっても蹂躙してやる、と誓う
◇
食事が終わり、贅沢な余韻が漂う中、まだ太陽は高い位置で森を照らしていた。
が、今日はこれ以上進まない。そう決まると、一行は思い思いの休息に入った。
「シュレン、例の箱を。鏡も一番大きなものを用意して頂戴。こんな湿気た場所に長くいては、私の肌が腐ってしまうわ」
クローリディアの言葉に従い、シュレンが荷物の中から重厚な木箱を取り出した。それは、大森林にはおよそ不釣り合いな、白銀の装飾が施された超高級な化粧道具の数々だった。
鏡の前に座ったクローリディアは、慣れた手つきでおめかしを始める。
(……すげえな。あんなものまで公国から持ち出してたのかよ)
ユリオは蝦蟇の目で呆然と眺めている。
(おや?)
隣にいたエミナの様子がいつもと違うことに気づいた。エミナは、獲物を狙う時よりも真剣な、それでいて熱を帯びた瞳で、クローリディアの手元をじっと見つめていた。エミナの顔はピンク色に輝いている。
エミナのまなざしの意味、ユリオにも理解できた。
憧れ。
鏡に映るクローリディアは、確かに性格こそ最悪だが、その立ち居振る舞いは一点の曇りもない「本物」だった。
背筋の伸び方、指先の動かし方、顎を引く際の僅かで絶妙な角度――それらすべてが、幼少期から厳格な王侯貴族の教育を叩き込まれた、最高位のプリンセスだけが持つ気品を放っている。
離宮に監禁されていたとはいえ、クローリディアは公女として最高の教育、最高の立ち居振る舞いを学んできたのである。
深紅のドレスを纏い、最高級の化粧品で自らを磨き上げるその姿は、逆光の中で神々しいまでの輝きを放っていた。
エミナにとって、それは夢、憧れそのものだった。見つめないわけにはいかない。エミナはまだ14歳の少女である。
(……綺麗なのです。御伽話の世界みたいなのです。お人形さんみたいに、キラキラしているのです……)
エミナの頬が、憧憬でさらに赤く染まる。あんな風に、いつか自分も……。
その熱い視線に、クローリディアがふと手を止めて振り返った。
「あら、下女……いえ、エミナ。そんなに私の美しさに見惚れていては、陽が暮れてしまうわよ」
クローリディアは扇子をパッと広げると、エミナの視線が自分の化粧道具に注がれていることを見抜いた。先ほどの料理に満足していたこともあり、女公爵の心には珍しく、大貴族特有の気まぐれな鷹揚さが芽生えていた。
「そんなに気になるのなら、使ってみてもよくてよ」
「……えっ!? い、いいのですか!?」
エミナの顔が、最高に輝く。
「ええ、構わないわ。これは私が普段使っている、最高級の化粧品よ。貴女のような庶民の肌に合うかは知らないけれど、一度くらいは『本物』を経験しておくのも、私の従者としての教育には必要かもしれませんわね。オーホッホッホ! 貸してあげる」
「あ、ありがとうございますなのです! クローリディア様、エミナ、一生の感激なのです!」
クローリディアから手渡された、宝石のように輝く小さな瓶や刷毛を、エミナは壊れ物を扱うように慎重に、けれど、飛び上がらんばかりの勢いで受け取った。
そして、その宝物を胸に抱きしめると、エミナは勢いよく背の高い草むらの向こうへと走り出した。
「ちょっと、どこへ行くんだよエミナ!」
「ユリオ様、見ちゃダメなのです! あとで、びっくりさせてあげるのですー!」
草むらの向こうに消えていくエミナの背中は、いつになく弾んでいた。14歳の少女としての、純粋な「美しくなりたい」という願い。最高のプリンセスから授かった夢の世界の道具。
ユリオは、揺れる草むらを見送りながら、少しだけ胸がざわつくのを感じていた。
「……びっくりさせてやる、か。あいつ、一体どうなるんだ?」




