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第116話 エミナの小さな冒険 下



 無我夢中で歩くエミナ。


 夜のルヴォニア大森林は、昼間とは全く別の顔を見せていた。

 

 見上げれば、巨木の梢の隙間から、冷たく冴えわたる月が、まるで巨大な獣の瞳のようにエミナを監視している。その周囲には、毒々しく輝く無数の星々が、黒い空の深淵に散らばっていた。


 月光は白銀の糸となって降り注ぎ、エミナが進む行く手を、青白く、不気味なほど鮮明に照らし出す。


 「……静かなのです。静かすぎて、自分の心臓の音が爆発しそうなのです」


 エミナは自分の肩を抱き、泥だらけの足を一歩ずつ前へ進めた。


 風が吹くたび、頭上の葉が「ざわり」と重なり合う音を立てる。それはまるで、目に見えない巨大な怪物が、エミナのすぐ耳元で囁き合っているかのようだった。足元の草葉が「サリ、サリ」と鳴る音さえも、誰かが後ろからついてくる足音に聞こえ、エミナは何度も振り返った。


 だが、そこには月光に濡れたシダの葉と、長く伸びた奇妙な形の樹影があるだけだ。


 森の奥からは、時折、聞いたこともない鳥の鋭い鳴き声が、引き裂かれるような悲鳴となって響き渡る。どこか遠くで獣が枝を折る「パキッ」という乾燥した音が響くたび、エミナの背中には冷たい汗が流れた。


 「怖いのです。本当に、本当に怖くてたまらないのです……」


 暗闇から覗く無数の虚ろな(うろ)が、全て自分を狙う獣の口に見える。不安と恐怖が波のように押し寄せ、足が震えて動けなくなりそうになる。


 「でも……ユリオ様は、エミナが頑張るって信じてくれてるのです。ルルさんだって、シュレンさんだって……クローリディアさんだって、エミナのご飯を心待ちにしているのです……!」


 恐怖のどん底で、エミナの胸に灯ったのは小さな「希望」だった。


 自分が月滴草(ムーン・ドロップ)を見つけさえすれば、あのどこか滑稽で、けれど何よりも大切な日常が戻ってくる。その確信だけが、エミナを支えていた。


 月光に照らされた幻想的な霧が、足元を漂う。


 美しくも残酷な夜の静寂の中、エミナは「皆を助ける」という祈りにも似た強い思いを抱き、闇の先へと、か細い一歩を刻み続けた。



 ◇



 どれくらい歩いただろうか。イバラに肌を裂かれ、体力が限界に達しようとしたその時、古びた大樹の(うろ)の中に、ポツンと淡い銀色の光を放つ小さな花を見つけた。


 「……あった! あったのです!」


 まさに奇跡だった。


 それは、たった一株だけ咲き誇る月滴草(ムーン・ドロップ)だった。エミナは震える手でそれを根元から丁寧に摘み取り、宝物のように胸に抱きしめた。


 「これで……これで皆を助けられるのです! 待っていてほしいのです、今すぐ戻るのです!」


 希望の光を手に、エミナは来た道を全力で引き返した。足の痛みも忘れ、ただひたすらに野営地を目指す。


 エミナが胸踊らせて、野営(キャンプ)まであと少し、という深い谷間の細い道を通っていた時のことだ。


「――あっ」


 雨上がりの濡れた落ち葉に、足を取られた。


 エミナの体が宙を舞い、そのまま斜面を転がり落ちる。


 「うわぁぁっ!」


 激しい衝撃と共に地面に叩きつけられ、エミナは呻き声を上げた。幸い大きな怪我はなかったが、ふと、胸元に抱えていたはずの感触がないことに気づき、心臓が凍りついた。


 「月滴草(ムーン・ドロップ)月滴草(ムーン・ドロップ)、……! どこなのです!?」


 必死に周囲を探すと谷底の小川に、銀色の花が落ちていた。流れていき、すぐ沈んだ。エミナは必死に黒い川の中を探す。しかし、いくら探せども月滴草(ムーン・ドロップ)は見つからない。


 エミナはへたりこみ、茫然となった


 「そんな……嘘なのです。これがないと、皆が……」


 一株しかなかった希望。自分の不注意で、それを永遠に失ってしまった。


 「ごめんなさい……ごめんなさい……エミナのせいで、エミナのせいでぇ……!」


 深夜の森に、少女の絶望に満ちた慟哭がいつまでも響き渡っていた。


 エミナにとってこの時間は、まさに世界が終わったかのような、あまりにも残酷な静寂だった。



 その後も、エミナは一晩中、森を彷徨い歩いた。薬草を探し、泉を調べ、時には奇妙な鳥に追いかけられながら。


 だが、月滴草(ムーン・ドロップ)は、もうどこにも見つからなかった。毒を消す術も、助けてくれる賢者もいない。


 朝の光が差し込む頃、エミナはボロボロの姿で、絶望と共に元の野営(キャンプ)へと戻ってきた。


 「……ごめんなさい。みんな……ごめんなさいなのです……」


 うつむき、涙を地面にこぼしながら焚き火の跡へ足を踏み入れた、その時。


 「――お。エミナ、おかえり。どこ行ってたんだよ?」


 聞き慣れた、濁った声。


 顔を上げると、そこには頭を掻きながら欠伸をする蝦蟇(ガマ)顔のユリオがいた。


 「え……? ユ、ユリオ様?」


 「ふう、酷い目に遭ったわ。あのシチューを食べた瞬間、全身が石みたいに動かなくなっちゃって。……あら、エミナ? どうしたの? その泥だらけの格好」


 ルルが服の汚れを払いながら、不思議そうにエミナを見た。


 「エミナ殿! 良かった、ご無事でしたか。どこへ行ってたのです? このシュレン、心配して探そうと思っていたところですよ」


 「全く、勝手にいなくなって……って、ちょっと! 何よその泣き顔は!」


 クローリディアが言い終わる前に、エミナは叫びながら四人に飛びついた。


 「わ、わあああああん!! よかった、生きてたのです! 幽霊じゃないのですか!? 本当に、本当によかったのですぅぅ!!」


 「ちょっ、落ち着けって! 痛い、蝦蟇(ガマ)の皮膚に爪を立てるな!」


 「あはは、あの薬草、すごい痺れ薬だったんですね。意識はあるのに指一本動かせなくて、いやぁ、参りましたよ」


 シュレンが愉快そうに笑う。どうやらあの毒は、一晩経てば自然に抜ける種類のものだったらしい。


 意識を失っていた4人、みんなケロっとしていた。


 エミナがわんわんと泣きじゃくる中、クローリディアが扇子を広げ、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 「……フン。お前、私たちのために夜通し森を彷徨ったっていうの? ったく、庶民の分際で……いえ、お前のそんな勝手な行動のせいで、私の目覚めがどれほど不安だったか分かりなさい。……でも、まあ、その、あんたが戻ってこなかったら、私の食事の楽しみが半分になってしまうわ。……無事で、良かった」


 「クローリディアさん……! ううっ、ありがとうございますなのですぅ!」


 「ちょっと、鼻水を私のドレスで拭かないで頂戴!」


 ようやく泣き止んだエミナを、シュレンが優しく宥めた。


 「あの薬草は、知られてない変異種だったんですね。これは仕方のないことです。誰にも防ぎようがない。エミナさんは、悪くない。さあ、一晩中歩き回って喉が渇いたでしょう。お口直しに、私がさっき摘んできたこの薬草を煮出したお茶を――」


 「ひゃあああああっ!!」


 エミナは真っ青になり、シュレンが差し出した木の椀を弾き飛ばしてひっくり返った。


 「もう薬草はこりごりなのです! 緑色の葉っぱは全部敵なのですぅー!!」


 「あははは! そりゃそうだ!」


 ユリオの蝦蟇(ガマ)の鳴き声のような笑い声が、朝の森林に明るく響き渡った。


 シュレンの薬草茶(ハーブティー)、実にうまかった。




( エミナの小さな冒険 了 )



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