第107話 この生意気令嬢を蹂躙していいですか? 1 それはキスから始まった
ルヴォニア大森林の旅は続く。
樹齢数百年を越える巨木が天を覆い、陽光すら緑色に染まって降り注ぐ、静寂と神秘が支配する世界がずっと、どこまでも。
この光景にも、この世界にも、もう、すっかり慣れた。いきなり穴豹とかは……やばいけど。
ユリオは、背負った大きな鍋をガタガタと鳴らしながら、湿った土を踏みしめていた。
「……今日も結構歩いたな。ルル、少し休憩にするか?」
「大丈夫よ。私、そこまでひ弱じゃないから。無理な時は無理って必ず言うし」
前を歩くルルが、振り返って微笑む。
「そうか? じゃ、もうちょっと踏ん張るか。よし、今度は俺が先頭だ」
カッコつけようと走りだしたユリオ。
「ユリオ様こそ、気をつけて」
エミナが声を上げた途端、地面から蛇のように這い出していた「逆さ蔦」がユリオの足首に絡みついた。
しまった。
視界が急激に傾く。重い大鍋の遠心力も手伝って、ユリオの体は前方へと派手に投げ出された。
「ユリオ様!?」
「ちょっと、ユリオ!」
2人の制止の声が遠ざかる。ユリオは目の前の背の高いシダの茂みを突き破り、その向こう側へと突っ込んだ。
「――っ!?」
茂みを突き抜けた先にいたのは、静かに休息をとる一人の少女だった。
ユリオの目に真っ先に飛び込んできたのは、波打つ亜麻色の髪と、森の深緑を背景にしてなお発光しているかのような、眩いばかりの白い肌だった。
(……綺麗だ……おお……美少女……)
転倒の最中、スローモーションのように景色が流れる。
少女が驚きに目を見開き、こちらを振り返る。
絹のように細い睫毛。宝石のアメジストをそのままはめ込んだような、高貴で鋭い瞳。
そして、微かに開かれた、薄紅色の柔らかそうな唇。
目の前に、突如、美少女が現れたのだ。
だがーー
衝突は避けられなかった。
ユリオは少女を押し倒すような形で、その華奢な体の上に重なった。
ガシャン、と背中の大鍋が鈍い音を立てる。だが、そんな衝撃などユリオの意識からは一瞬で消し飛んだ。
至近距離。
鼻腔を突くのは、森の土の匂いではなく、どこか異国の花を思わせる濃厚で甘い香油の匂い。
そして――
「ん……っ!?」
ユリオの唇に、信じられないほど柔らかく、そして熱い感触が押し当てられた。
自分の唇と、彼女の唇が完全に重なっている。
心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らしたかのように激しく跳ねた。
(嘘だろ……。これ、キスしてるのか!?)
あまりに突然の、そしてあまりに瑞々しい感触。
全身の血が逆流するような熱い衝撃がユリオを貫いた。触れている場所から、電気のような痺れが広がる。
ほんの数秒のことだったかもしれない。だが、ユリオにとっては永遠にも感じられる、甘美で、破滅的な沈黙の抱擁だった。
◇
キス!
女の子と!
それも超絶美少女だ!
前世と今世の32年間で初めてのキス!
バッチリと、唇と唇がくっついた!
本物のキスだ!
いつもの妄想欲望するよりも先に、キスしてしまった!
なんだこりゃ。
妄想よりも、熱い……
……手順とか段取りとかが、違う。
普通なら、女の子を見て、散々妄想欲望しまくって挙句、やっとモノにできる……女の子ってそういうもんじゃないのか?
いや、待てよ?
エ◯ゲー美少女ゲームじゃ、出会い頭のキス、フラグの基本だっけ?
現実でこんなことあるんだ。
世界はまだまだ捨てたもんじゃないーー
ユリオの甘美陶然も、そこまでだった。
「…………っ、この……っ!」
まじまじと至近距離で見つめ合うユリオと少女。次の瞬間、少女の顔が屈辱と怒りで真っ赤に染まった。
彼女はありったけの力でユリオを突き飛ばした。
「無礼者! 万死に値するわ! この私――リュクセム公国の現当主、クローリディア・リリス・ヴァーリ・リュクセムに何という真似を!」
ユリオは地面に転がり、呆然と自分の唇に指を触れた。まだ、あの柔らかい感触の残滓が消えていない。
だが、クローリディアと名乗った少女は、立ち上がるなり手にした扇子を広げ、ユリオを指差した。
「庶民の小僧が、こともあろうに私の清らかな唇を汚すなんて! オーホッホッホ! 鏡を見る勇気があるかしら? 豚に相応しい末路を味わせてあげるわ!」
いきなりユリオを庶民の小僧と決めつけた。この世界では、服装で身分階級がわかるのである。ユリオたちは、まだ商人の服装。結構立派な商人の服装だけど。
それにしても、この美少女、とユリオ。
リュクセム公国? それは知っている。北方の公国だ。で、その後何と言った?
現君主?
はあ?
じゃ、この子がリュクセム公? 女公爵ってこと?
な、わけはない。
ユリオにもヴァルレシア王国周辺の知識はある。現リュクセム公は、男だったはずだ。だから、この子がリュクセム公であるわけがない。ちょっとおかしい子なのかな。
改めて、クローリディア・リリス・ヴァーリ・リュクセムと名乗った少女を見つめる。少女は、扇子をユリオに突きつけ、キッと睨みつけている。
ものすごい超絶美少女。
うん。それはもう間違いない。
でも。
場違い。あらゆる意味で場違い。
クローリディアの装い。最高級の夜会服だ。深紅に、金の刺繍が施されている。明らかに、王侯貴族が着るもの。もちろん、王宮とかでの正式な場でだ。こんな大森林の奥地で来てくるなんて、絶対にありえない!
だが。ありえないことが現実に起きているのである。
クローリディアの深紅のドレス。胸元が深い曲線を描き抉られ、豊満な双丘を露出させている。ユリオの視線が、当たり前のように露出する双丘に吸い付く。惜しげもなく披露された双丘は、まさに完璧な均衡。ルルの圧倒的な「超爆乳」と比較すれば一回り控えめではあるものの、それでも十分に巨乳と呼べる重厚な質量を誇っている。
寄せ上げられた胸の谷間は、白磁の肌に深い陰影を作り出し、どんな一級品の宝石よりも眩い。それは単なる肉の膨らみではなく、大貴族の権威を体現するような、気品に満ちた造形美だ。
なんというか……そう、究極の美……究極の美、眼福すぎる胸が、いきなり大森林に出現したのだ。
夜会服の少女は怒りで顔を真っ赤にし、身を震わせている。
身の震えに従って、その見事な胸もしなやかに揺れ動く。だが、その揺らぎには、一切の下卑た卑俗さがない。ただ、見る者に自身の不徳を恥じさせるような、圧倒的なまでの『高貴な生命力』が宿っていた。
夜会服を着た美少女の立派な胸の露出。
久々に見た。
これ、貴族女性の正装だから、王宮とかではさんざん見てきたんだけど。
やっぱり……
尊い!
尊すぎる!
ルルもエミナも、胸元なんて、全然見せようとしないんだから。
これは眼福すぎる!
大森林の中に現れた強烈な巨乳。それも揺れている。やっぱり揺れた方が良い。揺れるために巨乳ってあるんだし。当然のように、グヘヘ、なユリオ。
ルルより、サイズは小さいが、「見せない超爆乳より見れる巨乳」である。
ヨダレを垂らしそうになる。いや、もう垂らしている。
しかし、眼福に浸っていられる時間は、長くはなかった。
とにかく、態度と口の悪い子。さすがのユリオも、眼福しながらもムカっとしていた。
「な、何言ってるんだよ! 事故だろ!? それに、豚ってなんだよ……」
言い返そうと。が、その瞬間、ユリオの顔に激痛が走った。
熱い!
なんだ、この感覚は!
クローリディアとの甘美なキスの余韻が、最悪の苦痛へと反転する瞬間。
「……な、なんだ、これ……っ!?」
ユリオは、顔面に走った異常な「熱」に絶叫した。
それは、火傷のような痛みではない。顔の皮下一面に、数千匹の毒虫が這い回り、一斉に牙を立てて肉を咀嚼しているような、おぞましい蠢きだった。
「熱い……! 顔が、顔が割れるっ!」
ユリオの悲鳴に応えるように、彼の顔面が異様な音を立てて波打ち始めた。
メキメキ、という骨の軋む音が頭蓋に響く。
高く通っていた鼻筋が、まるで熱した飴細工のようにぐにゃりと潰れ、顔の面と同化していく。それと同時に、顳顬のあたりまで裂けるような衝撃と共に、口の端が左右へと無惨に広がっていった。
変形していく!
俺の顔が、頭が!
「ユリオ! 動いちゃダメ、今すぐ治癒魔法を……っ!」
異変に気づき駆け寄ったルルの手が、ユリオの頬に触れる直前で止まった。彼女の瞳に、隠しようのない戦慄が走る。
「ヒッ……ユリオ様! お肌が、お肌が緑色のドロドロになってるのですーっ!」
エミナの悲鳴が聞こえるが、今のユリオにはそれを聞き取る余裕さえなかった。
視界が急激に歪んでいく。
左右の眼球が、内側からの猛烈な圧力に押し出され、頭蓋の外側へとせり出していく。焦点が合わなくなり、世界が魚の目のように湾曲して映る。
何より耐え難かったのは、皮膚の質感の変化だった。
サラサラとしていたはずの少年の肌は、瞬く間に粘り気のある粘液を噴き出し、どす黒い緑色へと変色していく。その表面には、指の先ほどもある醜悪な「イボ」が次々と盛り上がり、熟した果実のように脈打っていた。
「……ぁ……ぐ、ぅ……」
喉の形まで変わってしまったのか、もはや声さえまともに出ない。
ユリオは震える手で、這うようにして近くの水溜りへと向かった。
泥の混じった水面に、その「怪物」は映っていた。
「…………っ!!」
そこには、もはや15歳の少年の面影など微塵もなかった。
ぬらぬらと湿った緑色の皮膚。耳まで裂けた巨大な口。飛び出した金色の爬虫類のような瞳。そして顔中に広がる毒々しい斑点。
それは、森の湿地に潜む、巨大で醜悪な蝦蟇そのものだった。
「オーホッホッホ! 素晴らしいわ! その醜さ、まさに今の貴方にぴったりね。その顔で一生、私の靴の裏を舐めながら生きなさいな!」
頭上で響く、クローリディアの高笑い。
ついさっき、あんなに柔らかく甘美な感触をくれた唇から発せられているとは信じられない、残酷な言葉。
ユリオは、変わり果てた自分の顔を水面に写したまま、絶望と衝撃のあまり声も出せずに震えていた。
隣でルルが「なんてひどい……」と絶句している気配がする。
世界で1番大事な奴隷の前で、世界で一番醜い生き物へと変えられてしまった。
初キスの甘い記憶は、この瞬間、ユリオにとって生涯消えることのない呪いの悪夢へと塗りつぶされたのである。
「ユ、ユリオ様! お顔が! お顔がガマ蛙みたいになってるのですーっ!」
駆けつけたエミナが悲鳴を上げる。
「ユリオ、動かないで!」
ルルが血相を変えてユリオの顔に手をかざす。魔法で治癒しようというのだ。しかし、ルルは、ハッとして手を引っ込める。
え?
ルルの表情。ルルの魔法じゃ、これは治せない。そう語っていた。
「オーホッホッホ! 見事な出来栄えだわ! それこそが、私に触れた男に課せられる『呪い』。さあ、そのまま一生、湿地で虫でも食べて暮らしなさい!」
またクローリディアは、勝ち誇ったように高笑いする。その姿は「絶世の美少女」という言葉が相応しいほど完璧であったが、その性格の歪みは、吐き気がするほど高慢だった。
何が起きてるんだ! 美少女とか、キスとか、豚とか、呪いとか、蝦蟇とか、公国とか……一度にいろいろありすぎる!
ユリオは、呆然となるしかない。息を呑むルルとエミナ。




