第106話 【ルルの小部屋】 愛の沈む場所
美しく、どこか残酷なまでに静謐な湖。
エルセンさんが沈んでいった場所には、もう小さな波紋さえ残っていない。
手のひらの中で淡く拍動する星核の雫だけが、彼という人が確かにここにいて、その一生を賭けて一人の女性を愛し抜いたことを物語っている。
エルセンさんとラディさん。二人の愛の物語は、私にとってあまりにも眩しく、そして恐ろしいものだった。
私は、これまで「愛」というものを、本の中の知識としてしか知らなかった。この旅で、いろいろな愛の形があるというのも知ったつもりだった。
けれど、エルセンさんが見せてくれたのは、それとは全く違う「愛」の姿だった。
一人の女性を失った悲しみから、自分の名前も、貴族としての地位も、未来さえも全て捨て去って、ただ復讐のためだけに暗い森に潜み続ける。
その執念。
そして、その目的を果たした瞬間に、迷うことなく自らも死を選び、彼女の元へと帰っていく。
そんなことが、人間にできるのだろうか。一人の人間を想う気持ちが、これほどまでに強固で、一生を支配してしまうほどの力を持つなんて。
……私には、まだ分からない。理解するには、今の私はあまりに未熟すぎる。
ふと、隣で神妙な顔をして湖を見つめるユリオの横顔を見る。彼が私に向けてくれる気持ちが、いつかエルセンさんのような、死さえも厭わないほどの激流に変わることがあるのだろうか。
もしそうなったとき、私はそれを受け止めることができるのだろうか。
いいえ。
今はまだ、それを考えてはいけない。
私には、果たさなければならない宿命がある。
その責任の重さを考えれば、私一人の感情で誰かと深く結ばれることなんて、到底許されない。
エルセンさんの物語は、一人の女性への愛が世界を止めてしまった物語だ。けれど私の旅は、世界を動かし続けるための旅。
今の私が誰かを愛してしまったら、その想いが足枷になって、守るべき世界よりもその人を優先してしまうかもしれない。
あるいは、私を失った誰かが、エルセンさんのように孤独な復讐者になってしまうかもしれない。
愛することは、とても強くて、とても危険なことなんだ……
エルセンさんが最期にこの魔法石を私に託したのは、どうしてだろう。
「宿命」に立ち向かう私に、自分たちのような悲劇を繰り返してほしくないという願いだったのか。
それとも、どれほど過酷な旅路であっても、誰かを想う心こそが最後に闇を払う光になるのだと、教えようとしてくれたのか。
まだ答えは出ない。
私に分かるのは、この石に宿るラディさんの魔力が、驚くほど温かくて、深い慈しみに満ちているということだけ。
恋愛なんて、今の私にはまだ早すぎる。私にはやるべきことがある。 けれど、この胸の奥で燻る小さな火種を、完全に消し去ることもできなかった。
いつか。
もしも、この宿命の旅が終わる日が来たら。その時に初めて、私はエルセンさんが見た景色を、隣にいる誰かと一緒に眺めることができるようになるのだろうか。
今はまだ、手のひらの魔法石をぎゅっと握りしめる。
冷たい湖に沈んだ二人の魂に、せめて静かな安らぎがあることを祈りながら、私は再び、終わりの見えない旅路へと歩いて行こう。




