第101話 狩人のエルセン (1) 〜鹿を追って失うものはなんですか?
その機会は、森の静寂を切り裂くように突然訪れた。
ちょうど旅の小休止をしていたところだった。
ユリオとエミナは、荷を背にしたまま地に座り、ルルは巨木の根に腰掛けていた。
前方の茂みが大きく揺れ、姿を現したのは、これまで出会った鳥獣とは比較にならぬほど巨大な、威厳に満ちた深緑鹿だった。
その角は古木の枝のように複雑に分岐し、体躯からは森の主のような圧倒的な気が立ち上っている。
「おいでなすった!」
叫ぶユリオ。
(今度こそ……今度こそ、俺が仕留める!)
ユリオは心臓の鼓動を抑え、全身の筋肉をバネのようにしならせた。 横では、エミナもすでに弓を引き絞っている。練達の狩人である家臣の娘の指先がわずかに動くのを視界の端で捉えた瞬間、ユリオもまた、渾身の力を込めて矢を放った。
ヒュン――!
2筋の風が同時に空を切り、確実に深緑鹿の急所へと吸い込まれていく。
だが。
「――えっ!?」
エミナが驚愕の声を上げた。
あろうことか、深緑鹿は着弾の直前、まるで未来を予見していたかのような超常的な動きで体をひねったのだ。2本の矢は無慈悲にも空を切り、背後の巨木に深く突き刺さる。
「外した……!? あの距離で、私の矢が……!」
エミナが呆然とするのも無理はなかった。百発百中の彼女が獲物を逃すなど、これまで一度もなかったのだ。もちろん、ユリオの矢も届かなかった。深緑鹿は鼻を一つ鳴らすと、こちらを嘲笑うかのように軽やかな跳躍で森の奥へと駆け出した。
「待て! 逃がすもんか!」
ユリオの胸に、かつてない焦燥と高揚が突き上げた。 エミナが外した。これは、機会。ともかく俺は【鍋担ぎ】などではない。女の子の前では、いいところを見せねばならない。
それに、今のエミナの態度。なんだあれは。自分が外したのは驚愕だが、ユリオが外したのは当然とでもいうようだった。ユリオは、断じて狩りが下手なのではないのだ。ただ、これまでの戦績でエミナに負けているに過ぎない。
あの見事な深緑鹿。狩人垂涎の的なのは間違いない。
あれを狩れば、一発逆転。
「エミナ、追うぞ! ルル、危険だから、お前はここで待ってろ。すぐに仕留めてくるぞ!」
「ユリオ様、お待ちください! 私もお供します! この屈辱、必ずや晴らさねば……!」
エミナもまた、自らの失態を取り戻そうと、凄まじい気迫でユリオの後に続いた。
「いいや、エミナ! 俺がやる。俺がこの手で、あいつを狩ってみせるんだ!」
「ユリオ様、狩るのは私です! きっとユリオ様とルルさんに、あの鹿を献上してみせます!」
2人は互いに譲らぬまま、背の大鍋小鍋を放り出すと、飛ぶような速さで森の深淵へと足を踏み入れていった。 背後で小さくなっていくルルの姿。けれど、ユリオの頭の中は、今や目の前を駆ける深緑鹿の背中と、「エミナより先に」という熱い渇望だけで支配されていた。
霧が深くなる。 光の届かぬ迷宮の奥へと誘われているとも知らず、若き勇者と忠実な家臣の娘は、ただひたすらに緑の影を追い続けた。
◇
追跡は困難を極めた。 あの深緑鹿はただ速いだけでなく、大森林を知り尽くし、追手を煙に巻く狡猾さを持っていた。そもそも、ああした大型獣は、兎や鼠と違い、通れる径が決まっている。それだけに狩人猟師を欺く知恵が発達していたのだった。深い森を、駆け去っていく。
突き出た岩場を飛び越え、底の見えない沼地を迂回し、ユリオとエミナは息を切らしながらも必死にその影を追い続けた。
しかし、遂にエミナが、その行跡をとらえた。
「ユリオ様、右です! 樹々の隙間を縫って追い込みます!」
「わかった、俺は左から回り込む! 逃がすなよ、エミナ!」
ユリオも、素直にエミナの指示に従った。力量で指揮官は自然と決まるのだ。
単独では到底及ばない相手なのは、もうはっきりしていた。だが、二人が阿吽の呼吸で連携したとき、機会は訪れる。
エミナが放った威嚇の矢が深緑鹿の進路を塞ぎ、一瞬だけ動きが止まる。その隙を見逃さず、二人は同時に弦を引き絞り、渾身の矢を放った。
2条の光が空を裂き、逃亡者の心臓へと吸い込まれる。 断末魔の叫びとともに、森の主はついにその巨体を苔むした地面へと横たえた。
「やった……仕留めたぞ!」
ユリオは弓を放り出し、獲物へと駆け寄った。そこには2本の矢が、僅かの間隔を置いて並んで突き刺さっていた。
「見事な一射でした、ユリオ様! 私の矢よりも深く、急所を貫いてます!」
エミナは興奮気味に膝をつく。だが、ユリオは納得がいかなかった。
「いや、エミナ。お前の矢が先に当たって動きを止めたからこそ、俺の矢が当たったんだ。これはお前の獲物だよ。ち、また、やられたな」
ユリオは、不要な手柄争いを好まない。が、エミナは、
「そんなことないです! 私のはただの小細工。最後の一撃こそが武人の誉れです!」
御主君を立ててくる。
エミナが言ってくれるんだから、ユリオは受け入れようと思いもしたが、鹿射ちの栄誉で貸しをつくってもと、結局2人は「2人の共同の勝利」ということで決着をつけ、手早く鹿の肉を削いで肩に担いだ。
深緑鹿の角は高価で狩人にとって至上の栄誉となるものだが、重くてかさばりすぎて持っていけないので、泣く泣く置いていく。
「さあ、急いで戻ろう。ルルは心配して待っているはずだ。俺たちの手柄を見せてやろうぜ」
「はい、ユリオ様。最高のご馳走に仕立てて差し上げましょう!」
意気揚々と、来た道を引き返す二人。 しかし、歩くほどにユリオの胸の中には、言葉にできない不穏な予感が広がっていった。行きとは違い、森が異様に静まり返っている。風の音さえも、何かを隠しているかのように不自然だった。
「……あそこです。ルルさんを待たせておいた場所は」
エミナが指差す。 だが、そこにあるはずの漆黒の髪をなびかせた少女の姿はなかった。
「……ルル?」
ユリオの声が、虚しく木々の間に吸い込まれていく。 そこには、ルルが座っていたはずの巨木の根、そして、放り出された大小の鍋だけが残されていた。
「ルル! どこだ、ルル!」
ユリオは肩の肉を投げ出し、狂ったように周囲を探しまわった。 エミナも顔色を変え、鋭い目で地面を這うように調べる。
「ユリオ様……見てください。この足跡」
「これは……深緑鹿……」
顔を見合わせるユリオとエミナ。
「あ、これ!」
巨鹿の足跡を追うエミナ、草叢から、短剣を拾い上げる。
ルルの短剣だ。
「嘘だろ……」
ユリオの指先が、冷たく震える。 ルル。俺の大事な、絶対に守りたかった奴隷。いいところを見せたいと、子供のように獲物を追っている間に、一番大切なものを失ってしまったのではないか。 大森林の深い霧が、まるで嘲笑うかのように、二人の周囲を重く包み込んでいった。




