61.我が子の幼児教育
「メーがやってよぉ!!」
持っていたペンを、レオくんは私に向かって投げ出した。
ペンは机の上をコロコロ転がって、床に落ちた。
今日は文字を書く前段階として、運筆の練習をしていたわけなんだけれど……
溜め息を吐きたくなるのを堪えて、淡々と言う。
「レオくん、ペンが落ちたよ。拾ってね」
「メーがひろう!!」
「拾えないよ。メーはお腹に赤ちゃんがいるの。しゃがむのはしんどいよ」
「い、や! ひろわない!」
勉強を嫌がるレオくんは、ずっとこの調子。
──少し前、レオくんには家庭教師がついた。
まだ4歳、早いんじゃないかと思ったけれど、良家の子どもとしてはなんなら遅いくらいだそうだ。と手配してくれたリヴィが言っていた。
リヴィが幼い頃に付けられた家庭教師は、かなり厳しい人だった。当時の幼いリヴィに向けられた体罰含む激しい叱責は、今でもリヴィの心に暗い影を落としている。そんな自身の経験から、レオくんの家庭教師は厳選に厳選を重ねられ、──結果、とある子爵家の女性が雇い入れられた。穏やかで優しくて、子ども相手にも丁寧に話す様子が印象的だった。素敵な先生が来てくださったな、と私もほっと胸をなでおろした。のだったけど……
「レーくんはおべんきょうしない、あそぶのぉ!!!」
結果、全然ダメだった。
机の前に座ってることすら嫌がるようになってしまった。
最初は良かったのだ。
簡単にできる課題ばかりで、ニコニコと過ごしていた。
だけど段々、課題のレベルが上がって難しくなってくると、レオくんは癇癪を起こすようになった。
家庭教師の先生は、癇癪を起こすレオくんへ困り果ててしまって、優しくて叱らない先生へレオくんの癇癪もひどくなる一方で、──結局1ヶ月も待たずに、力不足で申し訳ありません、と職を辞してしまった。
……振り返ると、泣いて癇癪を起こせば先生がオロオロ困って勉強の手が止まる、イコール勉強しなくて済んだ、という間違った成功体験を積んでしまったのだろう。
敷地内の幼稚園では、行きしぶりはまだしてるものの、ある程度集団の中で過ごせるようになってきたレオくん。
成長したなぁ、なんて思っていたところだったのに、この結果には私もリヴィもガックリきてしまった。
とりあえず次の家庭教師の先生が見つかるまでの間、少しでも私が教えよう、という方針になったわけなんだけど……
「うわぁぁぁん、しなぁぁぁい!!!」
「…………」
ついに大声で泣き叫び始めたレオくん。
……こんなに全力で泣かせてまで、勉強なんてしなくて良いんじゃない? まだ4歳だし。でも、勉強はできたほうがいいだろう。他の同世代の子供たちは、すでに家庭教師について学んでいる。将来のことを考えたら。勉強はできたほうが、選択肢が広がる。いま勉強させたほうが、レオくんの為になるのでは?
世の中の教育ママと呼ばれる人たち、こんな気持ちだったんだろうな。
我が子が可愛いからこそ、将来困ってほしくないからこそ、少しでも良い人生を歩んで欲しいからこそ、──自分の子どもには、他の子どもよりも劣っていてほしくない。せめて平均、なんなら優秀であってほしい。
私の中でもいろんな気持ちがあって、うまく方針を整理しきれていない。
そんな自分の中の迷いもあって、レオくんの勉強を見ながらイラついてしまうこともしばしばある。
他にしなきゃいけないことだってたくさんある。レオくんのことも大切だけど、癇癪に付き合っているこの時間で、どれくらいの仕事ができただろう。
自分の中の苛立ちを自覚して、それが態度に出てしまわないように、密かに細く息を吐いた。
「……ここまで終わったら、遊ぼう?」
「なんでよぉぉお!」
泣いて癇癪を起こしたからおしまい、にすると、それは癇癪を起こすことを増長するような間違った成功体験になってしまう。事実、家庭教師の先生とのやりとりを通して強化されてしまった。
いまのレオくんの癇癪は、間違った成功体験からくるものだ。以前はこれくらい泣いたら勉強しなくてもよくなった、でも今回はまだ勉強しなくてよくならない、じゃあもっと泣いたほうがいいのかな? というような意識が働いて、一時的に増悪している癇癪だ。
淡々と、ただひたすらに淡々と取り扱っていくのが正解。
……のはずだけど。
でも、いま無理やり勉強に向かわせることは、勉強を嫌いにさせてしまわないだろうか? でも、でも……
同じようなことばかりグルグルと、答えが出ないままに考え込んでしまう。
本当は私がもっと楽しませて、遊びを通してうまく教えることができると良いんだけど、……私もスキルが足りない。
あぁ、さっきレオくんが課題を私にやって欲しがってたな。レオくんがやらないと意味がないからと思ったけど、でも私がいかにも楽しそうにやって見せることは大切だったかもしれない。
外来みたいに、一歩引いたところからなら見える景色も多いのに。
自分のことになると、こうも難しい。
例えば文字。
日本では、文部科学省が定めている教育課程の指針によると、ひらがなは小学校に入学してから習うことになっている。
だから外来では、ひらがなは書けなくても焦らなくてOK、本人が興味を持ってるなら興味を持ってる時期が一番伸びるから早めに始めてもいいけれど、興味なさそうなら小学校に入ってからで良いと伝えていた。ただ、ひらがなを教える教科書がひらがなで書かれているから、ひらがなを読むくらいは入学前にできたほうが困らないでしょう、とも。
その一方で、早期教育が流行していて、ひらがなを早いうちから取り組ませている園も多い。
もし私が日本で子どもを産んでいたら、……どうしていただろう。
他人の子どもには入学してからで良いなんて言いつつも、自分の子には早めに教育したかもしれない。
外科の先生曰く、自分の家族を自分で執刀するのはご法度だそうだ。
当時は、ふぅんそんなものか、くらいの感想だったけど、今ではよくわかる気がする。
──家族には、冷静を欠いてしまう。
さて、どうしようかなぁ……
とりあえず余計な刺激を入れないように、私はレオくんに話しかけるのを諦めて黙り込むことにする。
「気持ちが落ち着いたらまた話そうね」
「なんでよぉぉ!!!」
こういう時、スマホが欲しい……
レオくんに注目してないよというアピールのために本に目を落とすけど、文字が滑って全然頭に入ってこない。
心の中で、何度目かになる盛大な溜め息を漏らした。
更新ペースが遅くて本当に申し訳ありません……
細々ですが、よろしくお願いいたします。
貴重なお時間を使って読んでいただき、ありがとうございました。
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