第2話:ラグがあるなら先読み(バッファ)するだけだ
「……っ、づ……!」
湿った腐葉土の匂いと、生臭い風が鼻腔を突く。
俺──切磋拓磨は、ズキズキと割れるように痛む頭を片手で押さえ、泥まみれの地面から這い上がった。
上を見上げれば、禍々しい紫色の霧が立ち込める、不気味な巨木の森。
天界のクソジジイ神に落とされたスタート地点、『見捨てられた毒蜘蛛の骸森』だ。
状況を把握しようと周囲を見回した、その瞬間──強烈な吐き気が俺を襲った。
「おえっ……くそ、なんだこれ……!?」
視界がぐにゃりと歪む。
いや、歪んでいるんじゃない。視覚と聴覚の『同期』が完全に壊れているんだ。
風で木々が揺れる。その映像が見えてから、丸々1秒遅れて、ザザァ……という葉の擦れる音が耳に届く。
自分の右手を目の前で握り込んでみる。グッと拳を作った映像の1秒後、衣類が擦れる微かな音が追いついてくる。
これが、神罰第001号──【五感のミスマッチ】。
常に画面と音声が1秒ズレる、オンラインゲームの最悪な『クソラグ状態』が、リアルな肉体に適用されている。一歩歩こうとするだけで三半規管が悲鳴を上げ、盛大に足がもつれて泥に顔を突っ込んだ。
「あはは、ハハハハ! 傑作だな下等生物! まともに歩くことすらできんか!」
脳裏に、あのクソ神の勝ち誇った高笑いが響く。デバフ『神の監視眼』のせいで、俺の無様な姿が天界に生配信されているらしい。
「チッ……うるせえよ、クソ運営が……」
泥をペッと吐き捨て、俺は冷徹に思考を回す。
普段なら発狂モノの絶望だ。だが、俺は3日連続徹夜明けの限界状態で、難解な仕様書を処理してきた元社畜だ。そして、海外サーバーのピン(ping)値300超えの鬼畜クソラグゲーを、根性で完全攻略したゲーマーだ。
「1秒の固定ラグ……。グラフィックと音源のズレが常に一定(ジャスト1秒)なら、ただの『先読み(バッファ)ゲーム』だわ」
騒ぐ魔物を脳内でミュートし、俺は落ちている太い木の枝を拾い、それを杖にして立ち上がった。
目を瞑る。視覚を捨て、耳から入る音だけで『1秒前の世界の残像』を脳内にマッピングする。次に目を開け、視覚情報に『プラス1秒』の補正を脳内で強引にかける。
社畜時代、無能な上司の『1秒後に手のひらを返すクソ指示』を先読みして動いていた経験に比べれば、物理の法則が一定なだけ、このラグの方が何百倍も有情。
数分間、その場で足踏みを繰り返し、脳内の処理速度を異世界のクソ仕様に無理やり最適化させて幸う。
その時、前方の茂みがガサリと揺れた。
──いや、違う。
音が聴こえたということは、それは『1秒前』に茂みが揺れたということだ。
直後、紫色の霧を切り裂いて、巨大な影が飛び出してきた。
人間の胴体ほどもある巨大な赤黒い蜘蛛──この森の最弱モンスター『骸蜘蛛』だ。
カチカチと不気味に顎を鳴らし、鋭い脚を突き立てて迫ってくる。
普通の人間なら、あまりの恐怖と五感の狂いで身動き一つ取れずに食い殺されるだろう。天界のモニターの向こうで、クソジジイが「終わりだ」とニヤついている気配が伝わってくる。
「……なるほど、モーション(予備動作)は分かりやすいな」
俺は動じない。
骸蜘蛛が跳躍する。だが、俺の目に映っているその姿は、すでに1秒前の過去だ。本物は、すでに俺の鼻先まで迫っている。
俺は見た目の映像を完全に無視し、音が鳴った瞬間の『位置』から逆算して、体を真横に投げ出した。
ビュッ! と頭上をかすめていく質量。
ジャスト回避。見た目の映像では、蜘蛛の体が俺の体をすり抜けてように見え、その1秒後に、真横の地面に着地した蜘蛛のグラフィックが追いついてきた。
「ハッ、捉えたぞ」
着地した蜘蛛は、方向転換のために必ず一瞬の硬直(隙)が生まれる。その仕様は、今の一撃で完全に把握した。
五感が狂ってまともに戦えないなら、戦わなければいい。
ゲーマーにはゲーマーの、最も泥臭く、最も確実な戦い方がある。
「クソ運営。お前が作ったこのステージ(初期マップ)、オブジェクトの配置が甘すぎるんだよ」
俺は不敵に笑い、ヨロつく足で、太い木の根が複雑に絡み合った『天然の隙間』へと向かって、わざと音を立てて走り出した。




