3. 雨に祈りを (前編)
降りしきる雨の中、サナは歩いていた。
煉瓦造りの建物が並ぶ、舗装された道。
彼女は歩いているつもりだったが、傍から見たら斜めに進んだりよろめいたり、酔っ払いみたいな動きだったかもしれない。
(さっき瞬間移動をしたから、出血がひどくなった……。)
脇腹を押さえた手、自分の指に、生暖かい血が伝っていくのがわかる。六月とはいえ夜間の雨は冷たく、それは薄いワンピース一枚のサナの身体から少しずつ体温を奪っていた。
サナは数ヶ月前から、聖域と呼ばれる異能力者保護施設に入れられていた。
そこから逃げ出したのは小一時間くらい前のことだ。脱出する間際、銃弾がサナの脇腹をかすめた。
傷のことはあまり考えず、〝聖域〟の門を抜けてすぐ、サナは自分の異能のひとつである瞬間移動を使った。能力を使うと、身体に負荷がかかる。結果、撃たれた傷が酷くなり、かすり傷だったが血が止まらなくなっていた。
遠くにサイレンの音。ここは〝聖域〟から、たぶん一キロか二キロくらい離れた町だろうか。
サナは煉瓦造りのアパートが建ち並ぶ通りをよろよろと歩いていた。
雨は止みそうにないから、血の跡や匂いは消してくれるだろうけれど。
きっと探されてる。
物陰に隠れていても、犬を使っていたらすぐに見つかるかもしれない。
(どうしよう。)
自分の息が荒いことがわかる。
目がかすんできたなと思いながら視線を向けたその先、一棟の建物の玄関前に、作り付けの階段が見えた。その横には植え込みがあり、サナの小さな身体が隠れるくらいの隙間が空いていた。
服は雨でびしょ濡れ、血も流れ続けている。
でもここなら、階段横の壁と、ほんの少しヒサシみたいになった屋根が雨粒をしのいでくれそうだった。サナはなんとか植え込みを掻き分けて奥に座り込んだ。座った拍子に傷がズキンと傷んだが、もう声を上げる気力もなかった。煉瓦造りの壁にもたれたまま意識が遠くなる。
(寒い……。)
意識が途切れる間際、聖域を出るとき助けてくれたアンドロイド猫のことを、サナは思い出す。
『行け!』
最後に叫ぶように、その機械仕掛けの猫はそう言った。
門に向かって走るサナの耳に、銃声と、がしゃんという金属音が聞こえた。その後ジジジ……と鈍く響いた、何か機械が壊れたような音。
一瞬振り向いたサナは、遠くに、床に倒れたまま動かないアンドロイド猫の姿を見た。
(アンちゃんは、撃たれて壊れてしまった。)
アンドロイドの最初二文字からとって、サナは猫のことを愛称で呼んでいた。
自分はあの猫すら、不幸に導いてしまったのだろうか――?
◇
どれくらいの時間が経ったのだろう?
ふと、身体が持ち上げられた感じがした。
『大丈夫だからね』
そして誰かの声が聞こえた?
夢うつつで、サナはじぶんの身体がゆらゆらと揺れているのを感じていた。
うまく抱きかかえられているのか、傷の痛みは感じなかった。
私は天国に行くのかな。
でも入れてもらえないかもしれない。
『化け物』
今まで散々言われ続けた冷たい言葉が頭の中でこだました。
(ちがう。)
私は人間です。
『おまえは人間じゃない』
(ちがうの。信じて)
もうしません。こんな力使わないから。
夢の中で、お金と引き換えにサナを施設に売った両親の背中が遠くに見えた。
『おまえは私たちを不幸にしたからね。最後に金くらいもらってもいいだろう?』
繰り返される呪いの言葉。
あの人たちのところにはもう、帰れない。帰ってはいけない。だって私が不幸にしてしまったから。
「……う……ん……」
「うなされてるな……」
額に何か冷たい感触。そして、少し低い誰かの声にはっと気がついたサナは重いまぶたを開けた。
薄茶色の天井……?
冷たい灰色の樹脂パネルで覆われた〝聖域〟の天井とは違う、温かみのある色。
(どこ、ここ)
視線を彷徨わせたサナの目の前に、茶色のふわりとした短い髪にメガネをかけた男がいた。白い清潔そうなシャツを腕まくりして、心配そうにサナを見ている。
見知らぬ男に驚いたサナが勢いよく起き上がった瞬間、ずくんと脇腹が痛んだ。
「……ううーっ……」
「ああ、急に起きちゃ駄目だよ、怪我してるんだ」
優しい声だと思って、でも。
(だれ?)
身体を硬くするサナに、男は微笑んで。
「気がついてよかった。ヤバそうな弾傷だったからね。僕が手当てしたんだ」
それがサナと太郎との出会いだった。
◇
その少し頼りなさげなメガネの男は、太郎と名乗った。自分のアパートの入り口、階段脇に倒れていたサナを拾ったと言う。寝ていろと言われて、サナは寝転んだまま太郎といくつか言葉を交わす。
よく見たら、大きめのミントグリーンのパジャマを着せられていた。さらさらした生地が気持ちよかった。この男のものなんだろうか?
「君の名前は?」
「……サナ」
やさしい口調に促されるように、サナはするりと名乗っていた。言った後でまずいと気付く。もしかしたら自分がここにいることで、この人にも何か困ったことが起こるかもしれない。
「この町の子?」
「…………」
サナは沈黙して、太郎を見つめた。
二十代だろうか? つやつやした肌。メガネの奥の瞳が頼りなさそうに見えるのは、彼が優しい性格ということかもしれなかった。サナは、目覚めたばかりのかすれた声で、ゆっくりと呟く。
「わからない。……どこから来たのか、覚えてない」
聖域の名前を出したらすぐに通報されてしまうかもしれないとサナは思っていた。
今度は沈黙するのは太郎の方だった。彼は少し首を傾げて。
「怪我してたし、一時的に記憶が混乱してるのかな? 頭は痛くない?」
問われて、サナはゆっくり首を振る。太郎は頷いて。
「じゃあ、ひとまずここは雨にも濡れないし、しばらく寝て行けばいいよ」
太郎がゆっくりした口調でそう言ったとき、扉の向こうから何か良い匂いが漂ってきたことにサナは気付いた。ぐうう、とお腹が鳴る。その音が聞こえたのか、太郎はやわらかく笑って。
「お腹空いてるよね? ちょっと待ってて。沙羅、もうそろそろ出来る頃かい?」
誰かの名前を呼びながら、扉を開けて向こうに消えた。ジーンズを履いていてゆっくりした歩き方。お医者さんだからだろうか、その態度と優しい口調に、サナはほんの少し安心していた。
五分後。
「おかゆができたよ~」
扉が開いて、急に現れた長い髪の女性に、サナは身体をこわばらせた。茶色のゆるいウェーブの長い髪に、大きな瞳がきらきらと光っている。太郎と同世代くらいの、一瞬言葉を失うような綺麗な人だった。
「だいじょうぶ、何もしないよ? ごはん食べさせてあげるだけ♪」
ふふっと微笑んでそう言う。サナが傷に響かないようにゆっくり起き上がろうとしていると、その女性は、驚くほどてきぱきとサナを介助してくれた。
「あ、ありがと……」
「どういたしまして。まずはお水飲むかな?」
コップを手渡され、サナは一口水を飲む。それを見た彼女はもう一度微笑んで。
「さっき、太郎ちゃんからお名前聞いちゃった。サナっていうんだよね? 私は沙羅。看護師なんだ」
「沙羅、さん」
「私のことは沙羅ちゃんでいいよ。名前似てるね」
親近感! と言って笑う沙羅を呆然とサナは見つめた。固まってしまった心の奥が少し緩むような、不思議な気持ちになったのだ。その後、沙羅が手伝ってくれて、サナはおかゆを少しずつ食べた。
大きな梅干しと少し青菜が入ったそれは驚くほどおいしく、サナの細い身体にしみわたるようだった。
ほとんど食べ終えたその時、隣の部屋からバタンとドアが激しく開く音がした。
サナの身体が再びこわばる。
それを見た沙羅、やさしくサナの背中を撫でようとして、急に触れられたサナの身体は、もう一度びくんと震えた。沙羅は一呼吸置いて、静かなやさしい声でサナに囁く。
「大丈夫よ。たぶん、私の恋人が来たんだと思うわ」
(こいびと。)
ぽかんと見つめるサナに微笑み返し、沙羅はもう一度サナの背中を撫でてくれた。
「……竜、いらっしゃい」
隣の部屋から、太郎の穏やかな声が聞こえてくる。
「ひでえ雨だな。外はなんか騒がしいぜ? 聖域の能力者が逃げたとかなんとかでよ」
かすかに聞こえる、男性の低い声。
「そうなんだ」
なんでもないことのように返事を返す太郎の声が続けて聞こえた。竜と呼ばれた男は続けた。
「なんでも、アルビノで見たらすぐわかるらしい。沙羅は?」
向こうの部屋、と太郎が言った。
(まずい、来ちゃう。)
咄嗟にベッドに潜り込もうとしたサナ、傷がびりっと痺れるように痛む。サナの髪は色素の薄い茶色で、目はグレーに近かった。肌の色も真っ白で、日本人と言うより外国の子のようだということも、両親に疎まれたもうひとつの理由だった。そして、そういった色素がひどく薄いもののことをアルビノと言うのだと、聖域で教わっていた。
うずくまったサナの肩に沙羅の優しい手が置かれたそのとき、さっき竜と呼ばれていた男の低い声が部屋に響いた。
「なに、こいつ」
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後編は6月10日朝7時10分に更新予定です。




