4. 雨に祈りを(後編)
サナは痛みで頬に汗が伝うのを感じながら、どうにか必死で起き上がり、竜を見つめた。
無造作に伸ばした黒髪を後ろでしばっている、太郎や沙羅と同じ年頃の若い男。鋭い視線でサナを凝視していた。
「名前しか覚えてないって」
竜の後ろから部屋に入ってきた太郎がそれだけを言う。
サナは恐怖でひゅっと息ができなくなるような錯覚を感じて、ゆっくり胸を押さえた。
今はまだ駄目だ。身体が重くて動けない。そして、今外に出ても必ず捕まるだろう。
(明日。朝になったら瞬間移動で消えよう。)
竜と太郎を見つめたまま、ぐるぐると頭の中だけで思考をめぐらせるサナは限界だった。息ができなくなってくる。苦しい。そのとき、隣から、やわらかい沙羅の声が聞こえた。
「だいじょうぶよ、サナ。私たち、聖域は敵認識してるから。守ってあげる。能力者だからってお金と引き換えに人間を買ったり、閉じ込めたり。聖域のやってることは、いくら国の施設だっていっても、相当おかしいと思っているの」
「え……」
サナは信じられないものを見るように、沙羅を見つめて。
そのまま力尽き、サナはもう一度意識を手放した――。
◇
夢の中でサナは考え続けていた。
聖域は敵認識? 甘えて良いのだろうか。
でも、ここに捜索隊が来たら? 迷惑をかけてしまう。どこかに逃げなきゃ。
一体どこに逃げる?
いま瞬間移動で外に出たら、すぐに見つかって連れ戻されてしまうだろう。
心に鍵をかけることも、聖域で習ったことのひとつだった。それをやっていたら気配を消せるから、私のESP反応みたいなものは検出されない。かえってその方がいいかも。そしてやりすごして、朝になってからどこかに行けばいい。
不意に、ドアチャイムの音が響いた。
はっと目覚めたサナ、痛みも構わず起き上がる。聖域の職員たちだろうか。
痛みに顔をしかめながら、黙って起き上がったサナの身体は震えている。ベッドサイドにいてくれた沙羅が、サナの肩をそっと抱いた。
「あっ、沙羅……さん、ごめ……なさい」
「大丈夫。私のことは沙羅ちゃんでいいよ。ゆっくり息をして。そして、少し黙っていようね」
沙羅がやさしく囁いた。
「サナ、横になって、ここから出たらだめだよ」
太郎と竜は外に出て行く。パタンと扉を閉められて、沙羅とサナだけが部屋に残った。沙羅は笑った。
「もし聖域の職員たちが来ても、太郎ちゃんは外科医、竜は精神科医なの。ふたりは国家資格を持ったお医者さんで、捜査令状がないのに勝手に家の中を誰も捜索できない。絶対に渡さないから、しばらく静かにしていようね」
サナは何も考えられないような気持ちで頷いた。隣の部屋に続くドアはぴたりと閉まっている。
数人の男性が話す声が聞こえて、しばらくして。
先に部屋に戻ってきたのは竜だった。
「一件一件、聞いてまわってるんだと。インターホン越しだったから、特に勘づかれたりはしなかったと思うぜ?」
「さすがに踏み込んで来たりはしないよね。もともと聖域のやってることは人身売買系で微妙に違法だし」
竜に続けて入ってきた太郎の姿に、サナは無意識にほっとしている。
太郎は続けた。
「そして、僕は外科医だからね。なんにしてもサナの傷が治るまで、僕が絶対に面倒を見てあげる」
「めずらしいな! 太郎は何にも執着しないって有名なのによ」
竜がふざけたようにヒュウと口笛を吹く。
それを聞いたサナ、呆然としたまま太郎を見つめた。
「太郎ちゃんは誇り高き外科医だからね! 竜みたいな適当人間とは違うのよ」と沙羅。
「おお~言ったな、おまえ!」竜も軽く返している。
「あははっ! 竜、晩ごはんまだでしょ? 私たち先に食べちゃったんだ」
「遅くなっちまったからな~まだ何か残ってる?」
「もちろん!」
仲良く隣の部屋に行く二人を見送って、太郎がサナに囁いた。
「サナはおかゆ完食したね。痛み止めの薬を持ってくるから、それを飲んで、何にも心配しないで、今夜はゆっくり寝たらいい」
サナは信じられないものを見るような気持ちで、太郎を見つめていた。
◇
寝る前に、太郎が痛み止めと言って薬を飲ませてくれて、サナはその影響なのか夢も見ないで眠っていた。ふと目覚めると時計は六時半。外はまだ雨が降っていて暗いようだが、朝になっていた。
太郎はやさしい。沙羅もやさしかった。そして口は悪いけれど、沙羅の恋人の竜という人も、サナを追い出そうとはせずに太郎と一緒に捜索隊を断ってくれていた。
私はここにいていいだろうか?
外はまだうす暗く、雨が降り続いていた。窓ガラスを濡らしている雨粒を見つめながらサナは祈った。
今まで、お祈りなんてしたことがなかった。あきらめてたから。でも。
何日かだけでいいです。
神さま、ほんの少しだけ。
どうか、少し動けるようになるまで、ここにいさせて。
そう心の中で言い終えた瞬間、扉をこんこんとノックする音が聞こえた。
サナは窓から視線を戻し、扉の方を見遣る。
そこにはトレーに何か湯気が出るものを乗せた太郎が、やわらかく微笑んで立っていた。
「僕、料理は結構好きなんだ。フレンチトースト食べない?」
甘い香りが漂ってきて、サナは初めて聞く料理名だと思って、聞いてみた。
「ふれんちとーすとって、なに?」
その言葉に太郎は驚いたようにメガネの奥の瞳を見開いて。
「うそ、食べたこと無い? おいしいよ。ちょっとだけでも食べてみな」
ベッドに座っているサナの前にトレーを置くと、そこにはふわふわな見た目の黄色に少し焦げ目がついたパンらしきものが、湯気を立てていた。あと、何か飲み物……オレンジジュースかな。
「……いただきます」
丁寧に手を合わせて食べ始めるサナを、太郎は優しく見守っている。小さく切ったそれを一口食べたサナ、ふんわりとした甘さとほんの少しバターの塩気が口の中で広がって、ぽかんとして太郎を見た。
「なにこれ、なにこれ、おいしい……」
「おいしい? よかった」
にこにこ笑う。
水色のよれよれのダンガリーシャツにジーンズ姿の太郎はひどく頼りなくも見え、でも医者だと言うだけあって、そのメガネの奥の瞳は知的とも言えた。彼は最初に会ったときから、静かにやさしくサナを見ていた。その太郎の笑顔を見つめながら、サナは思った。
こんな得体の知れない私をかくまってくれて、傷の手当てをしてくれて、追っ手に知らないと言ってくれた。以前、聖域にまだいたころ、あの場所は国が関わっている施設だと職員たちが話していた。昨日、沙羅も似たことを言っていた。そんな所から追われていて、いつまでも隠せるものではないだろう。でも。
心の奥でサナは決意していた。
いつか、私、絶対にこの人に恩返しするんだ。
そんなサナを覗き込むように見て、太郎は微笑んだ。サナは驚いて太郎を見つめる。今まで、誰からもそんな優しい笑顔を向けられたことはなかった気がした。
太郎は言った。
「あのさ、サナ。ひとまず、傷を治すことが先決なんだ。この部屋は空き部屋だったし、しばらくはこの部屋で生活したらいいよ」
「……でも、あの、めいわくじゃ」
小さく小さく言ったサナに、太郎は微笑む。
「僕はロリコンではないし、でも、外科医だから怪我人はほっとけない。治るまではここにいること。約束できる?」
何日かして、傷が少しふさがってきたら瞬間移動して出て行こうと思ってた。でも、そうしたらそのままお別れになってしまって、恩返しできないかもしれない。
私は身勝手なことを考えているだろうか?
でも、それでも。
ふと、雨音が止まったことにサナは気付いて、窓の方に視線を流した。
ちょうど金色の朝日が窓から差してきていた。淡い日光は、空き部屋だったというこの部屋に少し舞っていた埃をきらきらと輝かせていた。そしてそれはサナにとって、見たことのない光が舞い踊るような光景だった。
サナは夜明けの光にほんの少し安堵を感じながら、決意した。
アンドロイド猫のアンは、動かなくなった。
この人はそんなことにはさせない。
私は絶対に何か、恩返しするんだ。あの猫の次に、自分を助けてくれたこの人に。
そう決めたとき、サナは太郎に告げていた。
「約束、する。治るまで、ここにいさせてください」
そして、その言葉を聞いた太郎は、とても嬉しそうに微笑み、頷いたのだ。




