ただ天井の隅っこを眺めるだけにする。
半ば強引にシャワーを浴びに行った先輩のせいで、人の家で一人待つという状況が生まれた。
一人にしてもいいんだろうかと思うが、まあそこは私のことを信用してくれているのだろう。
テレビをつけようにも勝手につけてもいいのか分からないから、ただ天井の隅っこを眺めるだけにする。
いつもならなんとも思わない生活音がやたらと響くこの時間。鼓動までもが私に聞こえる。ん? ドキドキしている訳ないはずなのになんで聞こえる? って感じ。
それぐらい静かで、やることの無い時間。
考えごとをしようにも先輩の様子が気になるし、かといってそのことを考えようにもなあ……。先輩は自分の匂いが気になっているみたいだけど、それの答えはもう分るだろうし。
ただ分かっているのは、先輩の悩みは人魚の血のことに関係しているということだけ。だって私だけ呼んだってことはそういうことだから。
麦茶の味わって飲む。芳ばしくて麦の奥深い香りが感じられる。
うーん……暇だ。まだかなまだかなってソファーの上でもぞもぞしていると、ようやく扉の開く音がした。まあシャワーだけだろうし早いのは分かっていた。うん、分かっていた。…………良かったあ。
これ以上一人にされるとなんとなく不安になるところだったから良かった。
控え目な足音が近づいて、リビングの扉が開かれた。
服装は変わってないけど、少し湿り気を帯びた髪の毛が、本当にシャワーを浴びてたんだなって。いや、良い匂いがしない……? そりゃあまあシャワーで流したんだから消えるよね。
「お待たせ」
「あ、はい」
少し俯きがちな先輩が、さっきと同じ場所に座る。
「えーっと……」
どうしたらいいんだろうか。
先輩はソファの上で三角座りをして、膝の上に顎を乗せている。なんかちょっと可愛いんだけど早くなにか言ってほしい。
再び訪れる静寂、時計の音が凄く耳に入る。こうして隣にいるのになにも喋らないという時間が続く。でも流石に先輩がシャワーを浴びている時間よりかは短かった。
「鳴月」
「あ、はい」
やけに大きく聞こえる衣擦れの音がして、先輩が私に身体を寄せる。
半袖だから触れないけど、もう服と服が触れ合ってもいい距離。いつもなら先輩の良い匂いに包まれるんだけど、やっぱりシャワーを浴びたからか、良い匂いは変わらずするけど、いつも嗅いでいる良い匂いとは種類が違う。
なんか、先輩の生の匂いって感じがして緊張してきた。
「どう……?」
「どうって……なにがです……?」
先輩と目は合わないけど、力強く握られている手は見える。耐えるように、先輩の声が、絞り出される。
「私の……。私の……匂い……」
「普通に良い匂いですけど」
やっぱり良い匂いには変わりない。なんでここまで過剰に匂いを気にするのか。理由はもうある程度分かるけど、やっぱり分からない。
私が答えると先輩と目が合った。
震える瞳で見つめてくる先輩は、いつもより小さく、自然と支えてあげなくてはという気持ちにさせられた。
「本当に……?」
「本当です」
とりあえず先輩の髪の毛を上げて、さっきと同じでうなじの匂いを嗅ぐ。
「はい、良い匂いです。香水と匂いは違いますけど、普通に良い匂いです」
だから、私は思い切って踏み込むことにした。
「先輩は、なんでそこまで自分の匂いを気にするんですか?」
もうその質問をされるのだと分かっていたであろう先輩は固く目を閉じて、開いた。それでも視線は自信無さげに揺れていた。
深呼吸を一回、二回。繰り返して、浅い呼吸にならないように、息を大きく吸い込んで、言葉と共に、吐き出した。
「魚臭い」
「はぇ?」
いやいや、いやいやいやいや。ちょっと待って。誰が? なんて馬鹿みたいな質問は返さない。当然これは先輩が過去に言われた言葉なのだろう。どこの誰かは知らないけど、どうせ昔先輩のことが好きだったしょぉぉぉぉぉぉぉっもない男が言ったんだろう。……いや、そこに繋がるには、先輩が人魚の血を引いていることを知らないとできない。可能性を考慮すれば、生魚を触った先輩を見て言ったっていうのがあるけど、先輩程の人ならそこは大丈夫のはず。
多分、この先輩の様子からだと、それを言った相手は先輩の血のことを知っている。はず……。どこまでが知っているかは分からない。結局体育祭のあの時全部聞けてなかったし。
「全然臭くないですよ‼」
でも先輩は魚臭くないし、それを全力で否定する。
先輩の表情はいつも通り――だったのが――徐々に崩れて――大粒の涙が――流れた。
誰に言われたかは分からないし、なんでそんないい加減なことを言ったのか知らない。でも、先輩はその言葉でここまで傷ついて、気にして、香水までつけて隠そうとして。ただの言葉でも、言葉は私達が想像だにしない力を持っている。
魚臭い、そんなくだらない言葉で先輩が傷ついた。私はその相手が許せないし、それに傷ついてる先輩を見過ごすことはできない。
だから優しく先輩に触れて、抱き寄せる。
でも体勢が悪くて、そのまま仰向けに倒れてしまった……。
それでも、先輩を離せない。もういい、大丈夫だって言えるまで。絶対に離さない。
言葉で傷つけられたのなら、私は言葉で先輩を救いたい。
「全然臭くないです。誰ですか、そんないい加減なことをいったのは」
別に答えなくてもいい。ただ、この言葉が少しでも先輩を楽にできるのならそれでいい。




