第73話「絶望への挑戦(中編)」
百二十万人の大撤退が、ついに動き始めました!
けれど、これほど大勢の人々を安全に送り届けるのは、決して簡単なことではありません。
道を知る人、技術を持つ人、誰かを助けたいと願う人。
それぞれの小さな力が集まったとき、何が生まれるのでしょうか。
第73話「絶望への挑戦(中編)」、どうぞ!
最初の避難隊が出発してから、三日が経った。
竜人国の街道には、長い人の列が続いていた。
荷車を引く者、子どもの手を握る者、負傷した家族を背負う者。誰もが少しずつ荷物を減らし、代わりに、どうしても手放せないものだけを抱えて歩いている。
家族の写真を映す魔道具。使い込まれた鍋。子どもの玩具。小さな袋に入れた故郷の土。
持ち出せるものには限りがあった。
それでも、人々は歩いていた。
生きて、いつか帰ってくるために。
◇
「おい、そっちじゃない! 荷車は右の道を通せ!」
街道の分岐点で、年老いた竜人が声を張り上げた。
「左は見た目こそ平らじゃが、少し進むと地面が柔らかくなる! 車輪が沈んで動けなくなるぞ!」
「しかし、地図ではこちらが……」
「地図より、わしの方が長くここに住んどるわい!」
若い兵士が困ったように地図を見下ろした。
その隣で、荷車を引いていた男が口を開く。
「じいさんの言うとおりだ。去年の雨でも、あそこに荷車が三台はまった」
「……そうなのか?」
「ああ。右の道なら少し遠回りになるが、車輪は沈まん」
兵士は頷き、地図へ視線を戻した。
「分かりました。ただ、右の道は幅が狭い。これだけの荷車を通せるでしょうか」
「一度に通そうとするから、狭いんじゃ」
「……え?」
老人は、杖の先で地面に線を引いた。
「右の道は、この先で少し坂になっとる。荷を積んだ車は速度が落ちるが、歩ける者なら先に進める」
そして、線の先へ小さな丸を描く。
「坂を下ったところに古い井戸がある。そこで合流すればええ」
「歩ける者を先に通し、荷車は順番に……」
「そうじゃ。ただし、夕方になると谷風が強くなる。日が落ちる前に坂を越えんと、荷車は危ないぞ」
兵士の表情が変わった。
「……待ってください。それなら、通行順序と休憩地点も変える必要がありますね」
「おう。ちゃんと考えとるじゃないか!」
老人は得意げに笑った。
「では、右の道を確認させます。歩ける方と荷車の合流地点も、先に確保しましょう」
「それがええ。あと、井戸の水はちゃんと確かめるんじゃぞ。昔の話じゃからな」
「はい!」
兵士は周囲へ声を張った。
「右の道を通ったことがある者は、ほかにもいるか! 地面の状態を確認したい!」
何人もの手が上がった。
先行した二人の兵士が道の状態を確かめ、しばらくして安全を報告する。井戸についても、別の住民が使えることを確認してくれた。
荷車の列は、少しずつ右の道へと向きを変え始めた。
「助かった、じいさん!」
「ふん。礼なら、あの魔女のお嬢ちゃんに言うんじゃな」
「青銀の魔女か?」
「ああ。わしに、帰ってくる場所を覚えておいてくれと言った娘じゃ」
老人は胸元の小さな袋を叩いた。
中には、妻が植えた花の種が入っている。
「わしらが帰ってくるとき、道が分からんでは困るじゃろう?」
兵士は、少しだけ笑った。
「……そうですね」
「それに、わしだけが覚えておっても仕方あるまい。若いもんにも教えておかんとな」
「では、もう少し先まで案内をお願いできますか?」
「おうとも!」
老人は杖を持ち直した。
「まだまだ、若いもんには負けんぞ!」
その声に、周囲から笑いが起こった。
やがて、列の後方から別の声が上がった。
「おい! この先の村なら、井戸の場所を知ってるぞ!」
「俺は西の山道に詳しい! 昔、狩りでよく通ったんだ!」
「うちの親父は橋の修理をしていた! 道具があれば手伝える!」
次々に声が重なっていく。
兵士たちは慌てて記録を取り始めた。
昨日までは、避難民を安全に運ぶことばかり考えていた。
けれど今は違う。
道を知る者がいる。
壊れたものを直せる者がいる。
荷車を押せる者がいて、歩けない人へ肩を貸せる者がいる。
兵士たちも、そうした人々へ次々と相談を持ちかけていた。
「じいさん! 次の分岐も、知っていますか?」
「知っとるとも! じゃが、今の道がどうなっとるかは、また確かめんとな!」
「はい! では一緒に確認しましょう!」
老人は、満足そうに頷いた。
「そうじゃ! わしらの国のことは、わしらが一番よく知っとるんじゃ!」
疲れ切っていた人々の顔に、ほんの少し明るさが戻った。
そして、荷車の列は再び動き始めた。
◇
一方、負傷者を運ぶ荷車の列でも、小さな変化が起きていた。
「……おい、少し待ってくれ」
荷台に横たわっていた竜人の男性が、御者に声をかけた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「いや、俺じゃない。後ろの荷車だ」
男性は、隣の荷車に乗る若い竜人を指さした。
「あの人、さっきからずっと左腕を押さえている。顔色も悪い」
御者が振り返る。
「……本当だ。おい! 医療班に伝えてくれ!」
ほどなくして治癒術師が駆けつけ、若い竜人の状態を確かめた。
腕には、黒い筋が広がっていた。
「……いつからだ?」
「昨日からです。でも、まだ歩けると思って……」
「無理をするな。今は診察を優先しよう」
治癒術師が慎重に状態を調べ始める。
それを見守りながら、最初に声を上げた男性は、自分の左手を見つめた。
同じように、黒い筋が広がっている。
昨日よりも、指が動かしにくくなっていた。
荷車が揺れるたび、腕の奥に鈍い違和感が走る。枕元に置いた小さな木彫りを持ち上げるにも、右手を添えなければならなかった。
まだ、よくなってはいない。
青銀の魔女が何度も調べてくれたが、治し方は分かっていなかった。
それでも、彼はここにいた。
昨日まで、ここに残るつもりだった。
自分が影になるかもしれない。
娘を危険に晒すかもしれない。
だから、置いていってくれと頼んだ。
けれど、青銀の魔女は言った。
『一緒に、生きる方法を探してほしいんです』
その言葉が、今も胸に残っている。
「……なあ」
男性は、治癒術師に声をかけた。
「俺たちみたいな症状の者は、何人くらいいる?」
「正確には分からない。各隊列に分かれているからな」
「……そうか」
男性は少し考えた。
「だったら、症状がある者同士で、変化を伝え合うことはできないか?」
「……変化?」
「ああ。いつ痛むのか、どんなときに黒い筋が広がるのか。俺たち自身が気づいたことを、あんたらに伝えるんだ」
治癒術師は、目を見開いた。
「……なるほど」
「同じ荷車に乗っていても、症状が違うかもしれない。逆に、別の道を通っていても、同じことが起きてるかもしれないだろ?」
「……確かに」
「もちろん、俺たちに分かることなんて限られている。でも……」
男性は、自分の左手を見た。
「何もしないで待っているよりは、いいと思うんだ」
治癒術師は、しばらく考えていた。
「ありがたい。だが、記録のために無理をする必要はないぞ。具合が悪くなったら、まず診察を受けてくれ」
「ああ。分かってる」
「それから、ほかの人へ協力を求めるときも、本人の意思を確かめよう。症状を知られたくない者もいるだろうからな」
「……そうだな」
男性は頷いた。
「怖がって、隠してしまう人もいるかもしれない」
「そのためにも、話しやすい相手がいると助かる」
治癒術師は、男性を見た。
「手伝ってもらえるか?」
「……俺が?」
「ああ。無理のない範囲でな」
男性は、少し驚いたようだった。
それから、小さく笑った。
「……あの魔女のお嬢ちゃんにも、同じことを言われたよ」
「青銀の魔女か」
「ああ」
男性は、枕元の木彫りの竜を右手で持ち上げた。
まだ片方の翼がない。
「……あの子は、俺を置いていかなかった」
治癒術師は、何も言わずに聞いていた。
「治せるなんて、一言も言わなかった。助かるかどうかも、分からないって言った」
男性は、木彫りを見つめた。
「それでも、一緒に考えようって言ってくれたんだ」
左手に、また鈍い痛みが走った。
顔をしかめると、治癒術師が身を乗り出した。
「大丈夫か?」
「……少し痛んだ。今みたいなことも、記録した方がいいんだろ?」
「そうだな。だが、今は休んでくれ」
「分かった」
男性は、素直に頷いた。
「……俺も、帰りたいからな」
そして、木彫りの竜を胸元へ寄せた。
「娘との約束も、まだ残ってるし」
治癒術師は、静かに頷いた。
しばらくして、荷車の列が休憩地点へ着いた。
治癒術師は周囲を回り、症状のある人たちへ、一人ずつ声をかけ始めた。
協力できるかどうか。
どんなことを記録すればよいか。
無理をせず、診察を優先してほしいこと。
最初は、誰も手を上げなかった。
やがて、一人の女性が小さく声をかけた。
「……私も、左足に黒い筋があります」
続いて、別の男性が口を開く。
「俺は、昨日から指先が冷たい」
「母にも似た症状があります。本人に聞いてもらえますか?」
治癒術師は、一人ひとりに頷いた。
荷車の男性は、その様子を静かに見つめていた。
自分だけではなかった。
怖いのは、みんな同じだった。
そして、分からないのも。
だからこそ、互いに伝えられることがある。
男性は、木彫りの竜をそっと抱き寄せた。
「……待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「まだ、諦めてないからな」
◇
各地から届く報告は、日を追うごとに変わっていった。
最初は、食料が足りない、荷車が足りない、道が通れないという知らせばかりだった。
けれど今は、そこに別の言葉が混ざり始めている。
『北部第三避難隊。住民の協力により、補給候補地点を一か所追加』
『西部街道。地元住民の案内で迂回路を確認。荷車の通行順序を変更』
『南部輸送隊。避難民の職人たちが荷車の修理班を結成』
『負傷者搬送隊。希望する患者による症状記録の協力が開始』
私は、臨時司令所の地図を見つめていた。
光の線が、少しずつ増えていく。
「……わあ」
『セリス。住民からの情報提供が増加しています。確認済み情報を反映した結果、複数の経路で移動効率の改善が見込まれます』
「すごいですね!」
『YES。ただし、未確認情報も増加しています。現地確認が必要です』
「はい! そこは各隊の皆さんにお願いしましょう!」
私は、地図の上に新しく現れた補給候補地点を指さした。
「ここの村、食料の備蓄が少ないと思ってたんですけど……」
『住民の申し出により、共同倉庫の存在が判明しました。ただし、実際の保管量は確認中です』
「なるほど! じゃあ、ここはまだ計画に入れずに、確認できたら使えるようにしておきましょう!」
私は条件を組み直した。
人口、移動速度、補給量、街道の状態。
それに、実際にその土地を知る人たちの話。
新しい情報が加わるたび、計画が少しずつ変わっていく。
最初に作った計画は、決して間違っていなかった。
でも、今の計画の方がずっといい。
だって、私たちだけでは知らなかったことが、たくさん加わっているから。
「……ミライ」
『YES、セリス』
「やっぱり、みんなで考えるっていいですね!」
『肯定します。情報の網羅性が向上し、現地条件への適応性も改善しています』
「えへへ!」
私は嬉しくなって、もう一度地図を眺めた。
青白い光の線が、竜人国の各地を結んでいる。
それは、まるで。
……ううん。
何でもない。
でも、ちょっとだけ、魔術の共鳴に似ている気がした。
一つの小さな振動が、別の振動と重なり、広がっていく。
誰かの気づきが、別の誰かの行動を生む。
その行動が、また新しい情報を届けてくれる。
そして、昨日まで知らなかった道が、今日には誰かを助ける道になっている。
……面白いなあ。
魔術じゃなくても、こんなことが起きるんだ。
『セリス。何か新しい仮説を思いつきましたか?』
「えっ!? あ、いえ! 今は避難計画です!」
『YES。研究計画への追加は保留します』
「……まだ何も言ってませんよ!?」
『セリスの表情から推定しました』
「もうっ!」
ミライには、何でもお見通しらしい。
そのとき、通信魔道具が光った。
『青銀の魔女殿! 西部街道より追加報告です!』
「はい!」
『住民の案内によって変更した経路ですが、当初の見込みより荷車の通行に時間がかかっています! ただし、軟弱地盤による立ち往生は回避できました!』
「ありがとうございます! それなら、後続の出発時刻も変えましょう!」
私は、ミライへ指示を出した。
新しい条件が加わり、地図の上の線が動いていく。
……うん。
予定どおりじゃなくてもいい。
確かめて、直して、また進めばいいんだ。
◇
竜人国王アルゼインは、王都の高台から、南へ続く街道を見つめていた。
遠くまで続く人の流れ。
かつて賑わっていた街から、少しずつ人がいなくなっていく。
王として、それは胸の痛む光景だった。
国を守るはずの自分が、民に故郷を離れさせている。
その事実が消えることはない。
「……陛下」
傍らの近衛兵が、静かに声をかけた。
「各地から、避難状況の報告が届いております」
「……そうか」
差し出された書類へ、アルゼインは目を落とした。
西部街道の経路変更。
住民の協力による補給地点の発見。
避難民による荷車の修理班。
そして、症状のある患者たち自身による観測への協力。
「……これらは、軍の指示か?」
「いえ。現地の住民たちから、申し出があったとのことです」
アルゼインは、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
王は、再び街道へ目を向けた。
そこには、荷車を押す男たちがいた。
負傷者に水を分ける女性がいた。
泣いている子どもを、見知らぬ老人があやしていた。
誰もが疲れている。
誰もが不安を抱えている。
それでも、人々は互いに声をかけ、支え合いながら歩いていた。
「……見えるか」
「は?」
「民の顔じゃ」
近衛兵は、街道へ目を向けた。
荷車の車輪が緩んだらしく、若い兵士が立ち止まっている。
そこへ、避難民の男が近づいた。
何かを話し、工具を取り出す。
兵士が荷車を支え、男が車輪を確かめる。
しばらくして、車輪が再び回り始めた。
兵士と男は、互いに頭を下げた。
「……あれは、逃げ惑う民の姿ではない」
アルゼインが、静かに呟いた。
「生き延びようとする者たちの姿じゃ」
王は、報告書へ視線を戻した。
そこには、西部街道で道案内を申し出た老人の話も記されていた。
亡き妻の花の種を持って避難していること。
故郷の道を若い兵士へ教え、通行順序の変更に協力したこと。
そして、その話を聞いたほかの住民たちも、次々に知恵を寄せ始めたこと。
「……帰ってくる場所を、覚えておくためか」
王は、小さく呟いた。
あの青銀の魔女が、老人へ伝えた言葉だという。
自分は、民を守る王でありたいと思ってきた。
強い軍を作り、堅固な砦を築き、豊かな国を保つ。
それが王の務めだと、信じてきた。
だが。
民は、ただ守られるだけの存在ではなかった。
この国で生まれ、育ち、笑い、泣き、働き、家族を愛してきた者たち。
その一人ひとりが、竜人国そのものだった。
「……ドグルよ」
アルゼインは、遠い空へ向かって呟いた。
「お主が守ろうとしたものは、これだったのだな」
かつて、この国には一人の英雄がいた。
誰よりも戦いを好み、誰よりも豪快に笑い、どんな強敵を前にしても退かなかった竜人の戦士。
その男は、もういない。
けれど、彼が守ろうとしたものは、確かにここにあった。
アルゼインは、ゆっくりと目を開いた。
「……青銀の魔女、か」
不思議な娘だった。
魔術のこととなれば目を輝かせ、時には年相応の少女のように笑う。
だが、その小さな身体に宿る知性は、歴戦の将軍たちすら驚かせるほどだった。
そして何より。
あの娘は、民を数字として扱わなかった。
百二十万人という数字の向こうに、一人ひとりの人生を見ていた。
「……陛下」
近衛兵が、静かに尋ねた。
「何か、ご命令を?」
「ああ」
アルゼインは、報告書を閉じた。
「各地の指揮官に伝えよ」
「はっ」
「今後、避難民から寄せられた情報は、軍の報告とは別に埋もれさせず、必ず記録するのじゃ」
「……住民からの情報を、でございますか?」
「そうじゃ。道を知る者、土地の変化を知る者、物資の所在を知る者。その知恵を、計画へ取り込め」
王は、言葉を続けた。
「ただし、聞いた話をそのまま命令にしてはならぬ。確かめられることは確かめよ。危険があれば記せ。採用した理由も、採用しなかった理由も残すのじゃ」
「……承知しました」
「そして、現地で判断できることは、現地の指揮官に任せよ。王都の返答を待つ間に、命を失わせてはならぬ」
近衛兵は、姿勢を正した。
「直ちに各部隊へ伝達いたします!」
「もう一つ」
「はっ!」
「協力を申し出た者へ、無理を強いるな。民は軍の道具ではない。自らできることを持ち寄ってくれておるのじゃ」
アルゼインは、街道を見つめた。
「その力を、決して無駄にするな」
「……はっ!」
近衛兵が駆け出していく。
王は、再び人々の列へ目を向けた。
荷車を直した男が、兵士と並んで歩いている。
先ほど泣いていた子どもは、老人に手を引かれ、何かを話していた。
民は歩いている。
自分たちの足で。
自分たちの未来へ向かって。
「……強いのう」
王は、目を細めた。
「……儂の民は、こんなにも強かったか」
◇
その夜。
避難民たちが休息を取る野営地には、幾つもの焚き火が灯っていた。
人々は火を囲み、温かい食事を分け合っている。
疲れ切った身体を休めながら、明日の道を確かめ、互いの家族の無事を祈っていた。
その中で、誰かが言った。
「……なあ。本当に、帰ってこられると思うか?」
しばらく、誰も答えなかった。
遠くで、薪の爆ぜる音がした。
「……分からんな」
年老いた竜人が、静かに答えた。
男は、顔を上げた。
「……じいさんでも、分からないか」
「ああ。いつになるかも、どんな姿になっとるかも分からん」
老人は、焚き火へ小枝を一本くべた。
「じゃが、帰りたいとは思っとる」
「……ああ」
「そのために、今は生きておかんとな」
男は、しばらく炎を見つめていた。
「……帰ったら、まず家を直さなきゃな」
「わしは畑じゃ。放っておいたら草だらけになっとるじゃろうなあ」
隣にいた女性が、小さく笑った。
「私は、また店を開きたいわ」
「何の店だ?」
「食堂よ。小さいけど、昼になると近所の人が集まってくれたの」
「そりゃいい。じゃあ、俺が最初の客になる!」
「ふふっ。ちゃんとお金は払ってね?」
「おいおい、帰還祝いくらいまけてくれよ!」
笑い声が広がった。
少し離れた焚き火では、幼い子どもが母親へ尋ねていた。
「ねえ、おうちに帰ったら、またみんなでご飯食べられる?」
「……ええ」
母親は、子どもの髪を撫でた。
「帰れたら、あなたの好きなものを作りましょうね」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「じゃあ、ぼくもお手伝いする!」
「ふふっ。約束ね」
その隣で、年配の女性が小さく歌い始めた。
竜人国に古くから伝わる、故郷の歌だった。
子どもが顔を上げる。
「……その歌、知ってる」
「お母さんに教わったのかい?」
「うん。でも、途中までしか分かんない」
「なら、続きを教えてあげよう」
女性は、もう一度歌い始めた。
子どもが、たどたどしく声を重ねる。
途中で歌詞を間違えると、女性が笑って教え直した。
子どもは頷き、また歌った。
その声を聞いた隣の焚き火から、別の誰かが歌い始める。
さらに、その向こうからも。
火を囲む人々の間に、少しずつ歌声が広がっていった。
離れた場所では、夜番の兵士が耳を傾けていた。
隣に立つ若い兵が、小さく呟く。
「……懐かしい歌ですね」
「ああ。俺も子どもの頃、母親に歌ってもらった」
「……自分もです」
二人は、しばらく黙って聞いていた。
やがて、若い兵士が小さく口ずさみ始めた。
年配の兵士も、それに声を重ねる。
少し調子が外れた。
互いに顔を見合わせ、小さく笑った。
明日も、歩かなければならない。
越えなければならない山があり、渡らなければならない川がある。
道の先に何が待っているのかも、まだ分からない。
それでも、今夜は誰かが歌っていた。
故郷の山を思い浮かべながら。
帰りを待つ家族の顔を思い出しながら。
まだ見ぬ明日のことを、隣にいる誰かと話しながら。
やがて、子どもたちが一人、また一人と眠り始めた。
母親が毛布を掛ける。
老人が火に薪を足す。
明日の道を確かめていた兵士が、地図を畳む。
歌声は、少しずつ小さくなっていった。
それでも、隣の焚き火では、まだ誰かが歌っている。
そのまた向こうでも。
今夜、歌詞を教わった子どもは、眠る直前まで小さく口を動かしていた。
忘れないように。
いつか、帰ってきたときにも歌えるように。
夜風が、野営地を抜けていく。
遠くの山々は、闇の中に沈んでいた。
明日も歩く。
いつ帰れるのかは、まだ分からない。
それでも今夜、故郷の歌は途切れなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、セリスがいない場所でも広がっていく、小さな変化のお話でした。
誰かに守ってもらうだけじゃなく、自分たちにもできることがある。
そんな人々の姿を描きたかった回です。
そして、最後の故郷の歌。
いつ帰れるか分からなくても、歌を覚えている人がいて、次に歌い継ぐ人がいる。
故郷って、土地だけじゃないんですよね。
さて、百二十万人の大撤退はまだ道半ば!
次回「絶望への挑戦(後編)」もお楽しみに!




