第74話「絶望への挑戦(後編)」
百二十万人の大撤退が始まって、五日目。
人々の知恵と協力によって、避難計画は少しずつ進化しています。
けれど、影の侵攻も、絶望の汚染も、まだ終わってはいません。
一人では越えられない困難を前に、セリスたちの挑戦は、さらに大きな広がりを見せ始めます。
第74話「絶望への挑戦(後編)」、どうぞ!
大撤退が始まって、五日目。
竜人国の街道には、今日も長い人の列が続いていた。
荷車を引く人。子どもの手を握る人。疲れた老人に肩を貸す人。
足取りは重い。故郷を振り返る顔には、まだ不安が残っている。
それでも、出発した頃とは違う光景が増えていた。
車輪が溝にはまれば、声をかけられる前に誰かが押しに来る。
荷車が壊れれば、避難民の中から職人が出てくる。
自分の荷物を少し詰め直して、歩けなくなった子どもを乗せる人もいた。
その変化は、中央指揮天幕へ届く報告にも表れていた。
「……これ、全部、今日の分ですか?」
私は、机に置かれた紙の束を見つめた。
『YES、セリス。避難経路に関する改善提案が三十七件。補給方法について二十一件。搬送方法について十四件です』
「すごいですねえ……!」
街道に詳しい兵士さん。
花の種を持って避難してきたおじいさん。
荷車の修理を引き受けてくれた職人さんたち。
みんなの話を聞き始めてから、地図にも報告書にも載っていなかったことが、次々と集まってくるようになった。
そのおかげで、最初に作った避難計画は、もうあちこちが書き直されている。
私は、一枚の報告書を手に取った。
「車輪の補強方法……?」
添えられた絵には、金具の留め方が描かれていた。
傷んだ車輪でも、これなら次の修理拠点まで持たせられたらしい。
「これ、ほかの隊にも教えてあげたいですね」
『現在、改善内容は指揮所で取りまとめた後、各隊へ伝達しています。ただし、緊急の報告が優先されるため、共有に遅れが生じています』
「……もったいない」
この紙が机の上にある間にも、どこかで車輪が壊れているかもしれない。
直し方を知っている人が、すぐ隣の隊にいるかもしれないのに。
私は地図を引き寄せた。
「ミライ。近くの隊同士でも、教え合えませんか?」
『情報を直接共有する仕組みですね』
「はい! うまくいった直し方とか、危なかった道とか。ここに報告するだけじゃなくて、隣の隊にも知らせるんです!」
指で、地図上の隊列を繋いでいく。
一つ先へ。
その隣へ。
必要なら、後ろの隊にも。
『未確認の情報が、そのまま広まる可能性があります』
「だったら、誰が、いつ確かめたのかも一緒に伝えましょう。まだ確かめてないことは、そう分かるように!」
『通信魔道具の数には制約があります』
「近くなら、伝令さんにお願いできませんか? 補給の荷車に、知らせを預けることもできそうです!」
『……実施方法を整理します』
「お願いします!」
私は、隣の机で報告を聞いていた将軍さんへ顔を向けた。
「あのっ、少し相談してもいいですか!」
◇
「……隊同士で、情報を回すか」
説明を聞き終えた将軍さんは、地図を覗き込んだ。
「だが、隣の隊の成功を聞いて、勝手に経路まで変えられては困るぞ。橋へ集まる時刻が重なれば、また詰まる」
「あっ、そこは今までどおりでお願いします!」
私は、慌てて手を振った。
「道を変えるとか、出発時刻を動かすとか、ほかの隊にも関わることは指揮所で調整します。でも、車輪の直し方まで、ここからの返事を待たなくてもいいと思うんです」
「なるほど。現場で使える知恵を、先に届けるわけだな」
「はい!」
将軍さんは、車輪の絵を手に取った。
紙の端には、煤けた指の跡が残っている。
「これは、西の隊のものか。あそこは昨日、修理のために足を止めておったな」
「そのときに考えたそうです」
「……難儀した者が、次の者を助けるか」
将軍さんは紙を置き、今度は私を見た。
「しかし、貴殿は構わんのか?」
「何がですか?」
「自分の立てた計画が、次々と他人に書き換えられているのだぞ」
私は、首を傾げた。
「……だって、良くなってるんですよね?」
「……ああ」
「じゃあ、嬉しいに決まってるじゃないですか!」
将軍さんが、目を瞬かせた。
「私の計画が正しいことより、みんなが無事に逃げられることの方が大事ですから!」
せっかく教えてもらったのに、使わない方がもったいない。
私もミライも、知らないことはいっぱいあるんだから。
しばらくして、将軍さんは声を上げて笑った。
「はっはっは! そうか。ならば、遠慮なく書き直させてもらおう!」
「はいっ! どんどんお願いします!」
将軍さんが伝令さんを呼ぶ。
私はミライと、知らせに書き添える項目をまとめた。
どこで試したのか。
何に使えたのか。
使えなかった場合は、何が違ったのか。
難しい書式にはしない。
忙しい道の途中で、読めて、伝えられなきゃ意味がない。
そうして、車輪の補強方法は、最初の知らせとして隣の隊へ送られた。
◇
昼過ぎ、その返事が届いた。
「……金具が合わなかった?」
『YES。隣隊の荷車は、車輪の構造が異なっていたようです』
「そっかあ……」
私は、報告の続きを読んだ。
でも、そこで終わってはいなかった。
留める位置を変え、間に木片を挟んだところ、別の車輪にも使えたらしい。
新しい絵の横には、短い注意書きまで添えられていた。
――締めすぎると割れる。古い木は特に注意。
「……おおっ!」
思わず、紙を持ち上げた。
「直し方まで、直してくれたんですね!」
『改良内容は、最初に提案した隊にも返送されています』
誰かが困って、工夫する。
それを受け取った誰かが、また考える。
最初の一人では思いつかなかったことが、次の人の手で加わっていく。
「ふふっ……いいですねえ、こういうの!」
その間にも、知らせは増えていった。
雨が降ると、水が溜まる曲がり角。
荷車の揺れを減らす、藁の詰め方。
炊き出しの列を短くする、食事の渡し方。
どれも、一つだけなら小さな工夫だ。
けれど、その工夫で休める時間ができる。
歩き出せる人が増える。
後ろの隊が、追いつけるようになる。
『セリス。複数の区間で、予定より早く次の拠点へ到着したとの報告がありました』
「本当ですか!」
『YES。荷車の故障による停滞と、補給時の待ち時間が減少しています』
私は、地図を見つめた。
動かずにいた印が、一つ、南へ進んでいた。
計算だけでは縮められなかった時間。
それを、道の上にいる人たちが縮めてくれたのだ。
「……すごいなあ」
嬉しくて、頬が緩んだ。
まだ行かなきゃいけない場所は遠い。
それでも、この地図は、私たちが最初に作ったときより、ずっと頼もしく見えた。
◇
その日の午後。
指揮所での仕事が一段落したところで、私は天幕の片隅に置いた記録を開いた。
「……今度は、変える幅を小さくしてみましょう」
『YES、セリス。前回の試行条件を表示します』
ここ数日、合間を見つけて続けている実験だ。
指先に、ごく少量の魔力を集める。
いつものように、火や風へ変えるためではない。
気になっているのは、その前。
術式へ流し込む、魔力そのものだった。
同じ術式なのに、使う魔力の状態によって、返ってくる反応がわずかに違う。
だったら、その違いをこちらで調整できたら?
「魔力を増やさずに、応答だけ変えられるかもしれませんよね……」
『その可能性を検証中です』
「はいはい。まだ、でしたね!」
私は小さく笑い、式の条件を書き換えた。
指先の光が揺れる。
青。
銀。
二つの色が、ほどけるように重なった。
「……おお?」
『位相条件の変化を検出しました』
「今の、記録してください!」
『記録済みです』
「さっすが!」
もう一度、同じ条件を作る。
今度は、光が途中でばらけた。
「……あれえ?」
『魔力供給に変動がありました』
「ううっ。細かいなあ……!」
でも、さっきはできた。
たまたまなのか、それとも、揃えればいい条件があるのか。
そこを確かめたい。
私は息を整え、もう一度だけ魔力を集めた。
青銀の光が、指先に留まる。
その縁から、ごく淡い輝きが広がった。
ふと、周囲の空気が澄んだように感じた。
「……今、何か変わりました?」
『周辺の魔力に微弱な変動を確認。ただし、体感との関係は不明です』
「ふむふむ……」
光を収め、すぐに書き留める。
面白い。
もっと試したい。
けれど、次の条件を組もうとしたところで、ミライが私を呼んだ。
『セリス。医療班から届いた継続観測の記録に、確認すべき変化があります』
ペンが止まった。
「……患者さんたちに、何か?」
『一部の患者で、症状の進行速度が低下しています』
「……え?」
◇
私は椅子を引き寄せ、表示を覗き込んだ。
黒い筋の広がり。
指先の温度。
魔力への応答。
昨日までの記録に、新しく届いた数値が重なっていく。
「……本当だ」
止まったわけじゃない。
黒い筋が消えたわけでもない。
それでも、前の測定からほとんど広がっていない人がいる。
異常な応答が強まる速さも、いくらか緩やかになっていた。
「この人たち、今、どこにいるんですか?」
『中央指揮天幕に近い救護区画です。なお、離れた避難隊でも、同様の変化が複数報告されています』
私は、地図と記録を並べた。
どの隊も、少しずつ南へ進んでいる。
影が多く現れた地域から、距離を取っていた。
「汚染の強い場所から離れたから……?」
『考えられる要因の一つです。ただし、休息や治療、患者ごとの状態にも差があります』
「……ですよね」
すぐに答えへ飛びつきたくなる。
でも、今までだって、似ていると思った記録が、比べ直すと違っていた。
私は、中央の救護区画の記録を拡大した。
こちらは、ほかの隊より変化が大きいようにも見える。
時刻を目で追って、ふと手を止めた。
「……待って。この時間、私、何をしてました?」
『魔力変調の試行中です』
胸が、どくんと鳴った。
「その前の日は?」
『同じ時間帯に、試行記録があります』
私は、実験の記録を隣へ並べた。
近い。
でも、ぴったり重なっているわけじゃない。
私が実験をしていない時間にも、進行が緩やかになった人はいる。
それに、遠くの隊でも同じことが起きているのだ。
「……私の魔術だけじゃ、説明できませんね」
『肯定。ただし、比較すべき条件の一つです』
私は、指先を見た。
さっきまで浮かんでいた青銀の光は、もうない。
あれが、何かの役に立っているのかもしれない。
まったく関係ないのかもしれない。
今は、まだ分からない。
でも。
「……遅くなってるんですよね」
『YES。観測された範囲では、進行速度の低下を確認しています』
肩から、少しだけ力が抜けた。
あの冷たい手。
昨日より広がった黒い筋を、隠すように握り込んでいた指。
記録を開くたびに、悪くなっているのが怖かった。
私が考えている間にも、間に合わなくなるんじゃないかと思っていた。
「……よかった」
机に手をついて、息を吐く。
「少しでも……遅くなってくれて」
治せたわけじゃない。
喜ぶには、まだ早いのかもしれない。
それでも、その少しの時間が欲しかった。
娘さんに会うための時間。
次の場所へ進むための時間。
私たちが、別の方法を探すための時間が。
私は顔を上げた。
「ミライ。実験の時間と場所も、医療班へ伝えましょう。移動した距離や休んだ時間と、一緒に比べたいです」
『了解しました』
「今の観測を続けてください。患者さんたちの負担は、増やさないように」
『YES、セリス』
天幕の外で、子どもが笑った。
誰かに名前を呼ばれ、ぱたぱたと走っていく音がする。
私は、新しい紙を引き寄せた。
もっと調べよう。
ただ待つしかないなんて、まだ決まっていないのだから。
◇
同じ頃。
ヴァルゼリア魔導国の王宮では、避難民の受け入れを巡る協議が続いていた。
机に並んでいるのは、宿営地の配置図と食料の帳簿。
その横には、今後必要となる種籾や、冬まで残すべき備蓄量も記されている。
女王ヴェルシア・ヴァルゼリアは、最後の一枚まで目を通した。
「受け入れ人数は、提示された上限を維持します」
臣下の一人が、わずかに唇を引き結んだ。
「……追加の要請には、どう返答いたしましょう」
「今、約束だけを増やしても、後で食事を出せなくなれば、受け入れた方々まで苦しめることになります」
静かな声だった。
女王は、卓上の通信魔道具へ視線を向けた。
「カナメ。現地の状況は?」
『教国と獣人国の国境へ、人が集まりつつあるでござる。到着した者を、さらに奥の受け入れ先へ移す必要がござるな』
「我が国へ向かう道の確保にも、時間が要りますね」
『左様でござる』
通信の向こうで、カナメが頷いた。
『ゆえに、我が国へ来る者の人数だけで、支援を考えるべきではござらぬ』
女王は、帳簿へ目を戻した。
住まいを用意できる数には限りがある。
だが、人を迎え入れる国で不足するものを、こちらから届けることはできる。
「医療班の交代要員は?」
「編成できます。魔道具の修理技師も、同行させられるかと」
「では、そちらを優先してください。食料は、輸送中の損失を減らせる保存設備と合わせて再検討を。教国側で必要としている品目も、直接確認なさい」
臣下たちが書類を引き寄せた。
カナメは、その動きを見守ってから口を開いた。
『陛下。竜人国の民が暮らせる土地は、今も失われているでござる』
「……ええ」
『受け入れ先が疲弊すれば、次に逃げる者の行き先もなくなる。今ある土地で、人が暮らし続けられるよう支えることも、我らの務めでござる』
ヴェルシアは、ゆっくりと頷いた。
遠い国の窮状として眺めていられる段階は、過ぎている。
だからこそ、一度きりの援助で終わらせるわけにはいかなかった。
「来月も、その次も、続けられる支援を組みましょう」
『……御意でござる』
カナメが深く頭を下げる。
女王は、人数の記された紙の隣に、新しい帳簿を開かせた。
◇
アルセリア王国、王都アストリア。
飛行魔道具の発着場には、木箱を運ぶ掛け声が響いていた。
「医療物資は、こちらへ!」
「毛布は濡らすな! 覆いをかけろ!」
その脇を、レオニス・アルセリア三世が歩いていた。
一隻の船は、船底に展開する魔法陣の調整中だった。
別の船では、降ろしたばかりの空箱と入れ替わりに、次の荷が積まれている。
「この船は、いつ出せる?」
「昼には。ただ、次便を回すと、国内輸送の予定に遅れが出ます」
責任者が、運航予定の書かれた板を差し出す。
王は、それを確かめた。
「薬と食料を運ぶ便は残せ。延期できる荷を選び直すのだ。整備の時間も削るな」
「はっ」
「飛ばして戻らぬ船を増やしては、支援も続かぬ」
王の手元には、竜人国政府を通じて届いた報告があった。
セリスたちの観測結果と、避難の進行状況をまとめたものだ。
敵を退けても、土地の異常は残る。
逃れた人々を迎える場所にも、いずれ同じ脅威が及ぶ可能性がある。
確かなことと、まだ分からぬこと。
その両方が、書き分けられていた。
レオニスは、積み込みを待つ天幕の束へ目を向けた。
「教国では、仮住まいの不足が続いているのだな」
「はい。到着する人数に、設営が追いついておりません」
「ならば、この便は天幕と寝具を増やせ。救護用の品も先に降ろせるよう積むのだ」
そこへ、通信を受けた文官が駆け寄ってきた。
「陛下。エルフ国より、食料と薬草の輸送について相談が」
王が顔を上げる。
「量は?」
「先に一覧を送るとのことです。受け取り場所も、合わせて」
レオニスは、運航予定をもう一度広げた。
帰還する船。
整備に入る船。
次に、どこへ向かわせるか。
「……空で戻すより、よいな」
王は文官へ頷いた。
「積載量と日程を伝えよ。運べる分を、確実に受け取りに行くと」
ほどなく、積み込みを終えた船の周囲に魔法陣が灯った。
地上の作業員たちが下がる。
ゆっくりと浮かび上がった船体を、王は見送った。
あの荷が届く先で、今夜、地面に寝ずに済む者がいる。
そして、あの船は戻ってくる。
次の荷を、運ぶために。
◇
教国の国境では、大鍋から白い湯気が上がっていた。
「次の方、どうぞ。熱いので、気をつけてくださいね」
神官が差し出した椀を、竜人の男性が両手で受け取った。
一口、飲む。
それから、椀の中を見つめたまま動かなくなった。
「……温かい」
掠れた声だった。
「おかわりもありますよ。食べ終わったら、あちらで休めます」
神官が示した先には、敷物の並んだ天幕があった。
男性は何度も頷き、もう一度、椀へ口をつけた。
食事を終え、しばらく休んだ後。
彼は、近くで組み立てられている仮住まいを見ていた。
柱を支える若い神官が、苦労して継ぎ目を合わせている。
「……そっちを先に打つと、傾くぞ」
「えっ?」
「下を合わせてからだ。少し、見せてくれないか」
男性が立ち上がりかけると、神官は慌てて手を出した。
「まだ、お疲れでしょう」
「腕は動く。……大工なんだ、俺」
そう言って、男性は自分の手を見た。
道中では、荷車を押すことしかできなかった。
家も、仕事場も、置いてきた。
それでも、木の組み方まで失ったわけではない。
「あれ、後から来る連中の家だろう?」
「はい」
「なら、少し手伝わせてくれ」
神官は男性の顔を見て、頷いた。
「では、組み方を教えてください。重いものは、私たちが運びますから」
「……それじゃ、まず、あの柱からだ」
男性が歩き出す。
少し離れたところで様子を見ていた竜人も、腰を上げた。
「俺も、木なら扱える」
「料理の手が足りないなら、私が入るわ」
「子どもたちはこっちで見てるよ。鍋のそばへ行くと危ないからね」
言葉の通じにくい相手には、身振りで伝える。
分からない道具の名前は、指さして尋ねる。
柱が一本、まっすぐに立った。
神官と竜人の大工が、それを見上げる。
どちらからともなく、笑みがこぼれた。
◇
獣人国では、各部族の代表が地図を囲んでいた。
「我が集落は、三千までなら。ただ、それ以上は水場が足りません」
「こちらは土地があります。ですが、住まいを建てる木材が……」
「木は出せる。運ぶ人手が足りぬのだ」
獣王ガルディオン・レオガルドは、三人の顔を順に見た。
黄金色の鬣が、ゆっくりと揺れる。
「今、答えが出たではないか」
代表たちが口を閉じた。
獣王は、地図の二か所を指した。
「土地のある集落へ、木材を運べ。荷運びは、街道沿いの部族に頼めるか?」
「空の荷車が戻る便なら、使えます」
「よし。水の足りぬ場所へ、無理に人を増やすな。受け入れる数に合わせて、食料の送り先も変える」
一人の代表が、渋い顔をした。
「ですが、それでは、木材を出す側の負担が大きくなります」
「だから、記録を残せ」
ガルディオンは、その男を見た。
「どこが何を出し、何が不足したか。後で国が補うにも、それが要る」
「……承知しました」
「自分の民の冬支度まで削るなよ。余裕がないなら、そう言え。他に出せるものを考える」
言い終えると、獣王は腕を組んだ。
「一つの群れで、全部を揃えようとするから足りんのだ。隣を見ろ。足りぬものを、持っている者がおる」
代表たちが、互いの地図を寄せ始める。
木材の出る森。
使われていない放牧地。
水を引ける場所。
食料を運ぶ荷車。
話が具体的になるにつれ、沈黙していた者も口を開くようになった。
ガルディオンは、それを確かめてから、国境の配置図を手元へ引き寄せた。
迎える場所を作る。
そこまでの道を守る。
竜人国と国境を接する獣人国には、その両方が必要だった。
◇
エルフ国の王宮には、薬草の香りが満ちていた。
女王エルシェリア・シルヴァリスの前に、物資の一覧が並ぶ。
乾燥させた果実。
保存の利く食料。
治療に使う薬草。
森から集められた品は多かった。
だが、積み上げて眺めているだけでは、遠い国の誰一人救えない。
「アルセリア王国から、返答が届きました」
側近が通信の記録を差し出した。
「受け取り可能な量と、飛行魔道具の到着予定です」
エルシェリアは、静かに息をついた。
「間に合いますね。では、薬草を先に。乾燥が済んだものから箱へ詰めてください」
「果実はいかがいたしましょう」
「傷みやすいものは、保存できる形にして次便へ回しましょう。急いで積んで、途中で駄目にしては惜しいですから」
側近が頷く。
女王は、採取予定の記された地図へ目を移した。
「この一帯は、採る量を減らしてください」
「まだ余裕があるようですが」
「今年だけの話ではありません。次にも、その次にも、届けられるように残しましょう」
窓の向こうには、深い緑が広がっていた。
この森には、まだ影が来ていない。
遠くで故郷を離れる人々の姿も、ここからは見えない。
けれど、見えないからといって、差し出せるものまでないわけではなかった。
「届ける手段は、人間国が用意してくれます」
女王は、働く者たちへ微笑んだ。
「私たちは、その船を空で待たせないようにしましょう」
◇
その日の夕刻。
六つの国を結ぶ通信魔道具が起動した。
呼びかけたのは、教国の最高統治者、大神官ドーン。
通信の向こうには、レオニス、ヴェルシア、エルシェリア、ガルディオン、そしてアルゼインの姿があった。
国境では、既に人を迎えている。
物資を積んだ船は飛び、住まいを建てる槌の音も響いている。
その動きを、各国の善意だけに任せて終わらせない。
続けるための約束を結ぶ場だった。
『……皆、聞こえておるな』
ドーンの声に、五人が応じた。
『かつて、我らは邪龍を前に手を取り合った』
いつもの豪快な笑い声はなかった。
『共に戦い、共に傷ついた。帰ってこられなんだ者もおる』
アルゼインが、静かに目を伏せる。
『あのとき守った土地から、今また、人が逃げておる』
ドーンは、一人ひとりの顔を見た。
『わしらは既に動き始めた。じゃが、この先は長くなる。誰か一国が力尽きるまで背負うような支援では、続かぬ』
『同感です』
ヴェルシアが口を開いた。
『受け入れられる人数も、送り出せる物資も、国ごとに異なります。不足を早く共有し、分担を変えられるようにするべきです』
『輸送については、我が国が調整を引き受けよう』
レオニスが続ける。
『ただし、船も魔石も無尽蔵ではない。必要な品と届け先を、各国でまとめてもらいたい』
『エルフ国からも、継続して食料と薬草を提供します』
エルシェリアが頷いた。
『到着先で余らせることなく、必要な方へ届くように』
『国境の道はこちらで守る』
ガルディオンの声が響いた。
『受け入れ先も増やしておる。だが、到着する人数と時刻は早めに知らせてくれ。寝る場所を作って待たせたい』
その言葉を、アルゼインは黙って聞いていた。
どの王も、自国の難しさを隠していない。
余裕があるから、手を差し伸べているのではないのだ。
それでも、迎えると言ってくれている。
『……皆の者』
アルゼインは、深く頭を下げた。
『礼を申す』
短い言葉だった。
顔を上げるまでに、少し時間がかかった。
『我が国からも、人手と技術を出せる。受け入れ先で必要な仕事を知らせてほしい。民が暮らしていくために、できることを共にさせてくれ』
ドーンが、ゆっくりと頷いた。
『無論じゃ』
『儂らは、生き延びる』
アルゼインの声に、力が戻った。
『そして、いつか必ず、この国を取り戻す。その日まで、力を貸してほしい』
六人の手元には、同じ文面の宣言書が置かれていた。
ドーンが、それを読み上げる。
『絶望の汚染と影の侵攻を、六種族共通の危機と認める』
誰も、異を唱えなかった。
『各国は、民の命と暮らしを守りながら、支援を分担し、情報を共有する』
ドーンは、一度だけ言葉を切った。
最後の一文へ、目を落とす。
『我らは、いかなる種族の滅亡も、黙って見送らぬ』
各国の印章が、宣言書へ押された。
その記録が、通信魔道具を通じて互いに確かめられていく。
六種族共同危機宣言。
邪龍戦争以来、初めて。
六つの国が、再び共通の危機に立ち向かうと約束した。
◇
会議が終わり、通信の光が一つずつ消えていった。
最後に残ったのは、現地から会議を見届けていたカナメとの回線だった。
『……ドーン殿』
「なんじゃ」
『ドグル殿にも、見せたかったでござるな』
ドーンは、印章の並ぶ記録を見つめた。
白い鱗。
大きな槍。
人の話を聞き終える前に、笑って立ち上がる男。
「……ああ」
太い指で、書面の端を押さえる。
「あいつなら、こんな約束を結ぶ前に、もう走り出しとるじゃろうがな」
『違いないでござる』
「わしらが後ろから来ると、疑いもせずにな」
通信の向こうで、カナメが小さく笑った。
ドーンも笑おうとして、一度、唇を引き結んだ。
「……遅くなったが」
紙の上の印章を、もう一度見る。
「今度は、国ごと連れてきてやったぞ」
しばらく、どちらも口を開かなかった。
やがて、カナメが静かに言った。
『あの男なら、また大声で笑うでござろうな』
「おう。槍を担いでな」
二人の口から、同じ言葉がこぼれた。
「『かかってこんか!』」
一瞬の間。
それから、二人は笑った。
今も、その声の主が背中を押してくるようだった。
◇
夜。
中央指揮天幕では、届いたばかりの支援情報が、次々と地図へ加えられていた。
『アルセリア王国から、追加の輸送便が出発しました。エルフ国の物資を受け取る日程も確定しています』
「薬草も、届くんですね!」
『YES。教国では受け入れ施設の増設が進行中。獣人国からは、新たな受け入れ先の一覧が届いています』
地図に、光が増える。
ここには食料がある。
ここでは休める。
こちらへは、負傷した人を運べる。
『魔族国からは、医療班と魔道具の修理技師が派遣される予定です』
「……助かりますねえ」
声に出してから、私は地図を見つめた。
数日前まで、その先へ人を送っていいのかさえ分からなかった。
道を開いても、着いた先で食べるものがなかったら。
眠る場所がなかったら。
そんなことばかり考えていた場所に、今は迎える準備がある。
『さらに、六か国による共同危機宣言が発出されました』
「……共同?」
ミライが、宣言の内容を表示した。
私は、最後の一文で目を止めた。
――いかなる種族の滅亡も、黙って見送らぬ。
何度か、読み返した。
国を離れなければならない人たちに。
自分たちは、もうどこにも行けないんじゃないかと思っている人たちに。
世界の方から、見捨てないと言ってくれている。
「……これ、みんなにも伝えてください」
『伝達範囲を指定してください』
「各隊へ。できれば、休憩のときに読み上げてもらいたいです」
私は、少しだけ息を詰まらせた。
「迎えてくれる人たちがいるって……ちゃんと、知ってほしいので」
『YES、セリス』
天幕の外へ出ると、夜風が頬に触れた。
街道の先に、明かりが続いていた。
夜を過ごす天幕の灯り。鍋を囲む人たちの火。
交代で見張りに立つ兵士さんの、揺れる灯りもある。
その一つひとつのそばに、人がいる。
今日は進めた人。
疲れて、もう眠っている人。
まだ故郷が恋しくて、眠れずにいる人。
みんなを、国の外へ連れていく。
言ったときは、あまりにも遠かった。
「……ここまで、できたんですね」
地図に引いただけだった道を、人が歩いている。
その先では、食事を作って待ってくれている人がいる。
私が顔も名前も知らない人たちが、今、この道を支えてくれていた。
『セリス。医療班からも、続報があります』
私は、ミライへ顔を向けた。
『複数の観測群で、症状の進行が緩やかな状態が続いています。現時点で、原因は特定できていません』
「……はい」
今度は、すぐに記録を開かなかった。
まず一度、ゆっくりと息を吐いた。
まだ、時間がある。
その時間を、無駄にはしたくない。
「だったら……まだ、できることがありますよね」
『YES、セリス』
汚染を治す方法は、見つかっていない。
影の侵攻だって、止められていない。
それでも、昨日まで届かなかった知らせが届いた。
動かなかった荷車が動いた。
悪くなるばかりだと思っていた症状に、違う変化が見つかった。
どれも、私一人では手に入らなかったものだ。
私はミライを抱え直し、天幕へ振り返った。
「明日の観測、条件をもう少し整理しましょう。あと、今日届いた工夫も、ほかの隊で使えたか知りたいです!」
『記録を用意します』
「お願いします!」
入口の布を持ち上げる。
机の上には、まだ読み終えていない報告書があった。
誰かが困って、考えて、ここまで届けてくれたもの。
明日、別の誰かを助けるかもしれないもの。
私は椅子を引いた。
「……明日も頑張りましょう、ミライ」
『YES、セリス』
少しだけ、間があった。
『明日も、共に考えましょう』
私は笑って、いちばん上の報告書を手に取った。
長い避難の道は、まだ終わっていない。
失われた故郷も、取り戻せていない。
それでも、道の先には待っている人がいる。
隣には、考えてくれる人がいる。
絶望への挑戦は、続いていく。
その道を歩く人々の手は、今、国境の向こうへ繋がっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに六種族が手を取り合いました! 邪龍戦争以来の共同危機宣言です!
第72話では、一人ひとりの願いから。
第73話では、人々の知恵と行動へ。
そして第74話では、その力が国境を越えて世界へ!
誰か一人が世界を救うのではなく、みんなが自分にできることを持ち寄る。
そんな希望の連鎖を描きたかった三話でした。
そして、セリスの魔術研究にも小さな変化が……?
まだ答えは出ていませんが、我らが魔法オタクはもちろん見逃しません!( *´艸`)
さて、百二十万人の大撤退はまだ道半ば。
次回もお楽しみに!




