第72話「絶望への挑戦(前編)」
百二十万人。
数字にしてしまえば、たったそれだけだ。
けれど、その一人ひとりに名前があって、家族がいて、帰りたい家がある。
そして今、私たちは、その全員を国の外へ逃がそうとしていた。
「……で、どうしてこうなったんでしょう?」
私は、目の前に積み上がった報告書を見つめて呟いた。
ここは竜人国の臨時軍司令所。大きな天幕の中央には国土全体を描いた地図が広げられ、その周囲を軍の指揮官たちが取り囲んでいる。
王都から届いた退避命令を受け、各地の軍や領主たちが動き始めていた。
それはいい。
問題は、その先だった。
「西部街道は避難民が集中しており、すでに荷車の通行が困難になっています!」
「北部の集落から連絡が途絶えました! 現在、偵察隊を派遣中です!」
「食料の備蓄は地域によって偏りがあります。全員を一度に移動させれば、途中で補給が追いつかなくなる恐れが……!」
「待て! 負傷者の搬送はどうなっている!」
「それが、馬車が不足しておりまして……!」
次々と飛び交う報告。
地図の上には赤い駒が増え、指揮官たちの顔色はどんどん悪くなっていく。
……うん。
これは大変そうだ。
『YES、セリス。現在、各地域から届く情報の形式が統一されていません。また、避難計画が個別に立案されているため、経路と輸送資源の競合が発生しています』
「なるほど。みんな、それぞれ頑張ってるんですね」
『肯定します。ただし、全体としての効率は低下しています』
私は地図を覗き込んだ。
そこには幾つもの街道が描かれている。山脈を避け、川を渡り、都市と都市を結ぶ道だ。
竜人国は広い。
そして、百二十万人は多い。
だけど……。
「……あれ?」
何だろう。
これ、どこかで見たことがある。
複数の経路。限られた資源。時間によって変化する条件。そして、互いに影響し合う膨大な要素。
……あ。
「魔術の多重制御と似てる……」
『YES。数学的には、複数の制約条件を持つ動的最適化問題として扱えます』
「ですよね!」
私は思わず顔を上げた。
「あのっ! ちょっといいですか!」
天幕の中が静かになった。
指揮官たちの視線が、一斉にこちらへ向く。
「……青銀の魔女殿?」
白い髭を蓄えた竜人の将軍が、困惑したように私を見た。
「何かお気づきになられたか」
「はい! この地図、もう少し詳しくしてもいいですか?」
「……詳しく?」
「はい。人口と食料と輸送手段、それから移動速度と敵の位置を、全部一緒に見たいんです!」
将軍は目を瞬かせた。
「それらは別々の報告書に……」
「大丈夫です! ミライ!」
『YES、セリス』
「確認済みの情報を統合してください。未確認の場所はそのまま分かるように。あと、時間による変化も!」
『了解しました。多層情報投影を開始します』
私が魔力を流すと、地図の上に青白い光が広がった。
最初に浮かび上がったのは、各都市と集落の人口分布。
次に、食料の備蓄量。
輸送に使える馬車の数、街道の幅、橋の位置、負傷者の分布。そして、確認されている影の出現地点。
幾重もの光が重なり、立体的な地図が天幕の中央に浮かび上がった。
「なっ……!」
「こ、これは……!」
指揮官たちが息を呑む。
私は表示を少し回転させ、全体を眺めた。
「うーん……やっぱり」
『セリス。主要街道への集中により、複数の地点で輸送能力を超過する見込みです』
「ですよね。じゃあ、分散させましょう」
「……分散?」
将軍が聞き返した。
「はい! 全員を同じ道に集めると、途中で詰まっちゃいます。だから、移動できる人たちと、輸送が必要な人たちで経路や出発時刻を調整します」
私は地図の一点を指さした。
「例えばここ。西部街道に人が集中してますけど、南側の道はまだ余裕がありますよね?」
「しかし、その道は山間部を通る。大人数の移動には向かん」
「そうですね。だから全員は通しません。歩ける人たちの一部だけです。荷車は広い街道に残して、搬送が必要な人を優先します」
『YES。現時点の条件では、輸送資源の再配分によって主要街道の混雑緩和が見込まれます』
「それから、この橋!」
私は別の場所を示した。
「ここを通る隊列が重なると危ないので、出発時間をずらします。補給も一か所に集めず、途中の拠点に分けて……」
話しながら、頭の中で条件を整理する。
街道の通行能力。
隊列の速度差。
補給地点までの距離。
影に襲われた場合の退避経路。
それぞれの条件を式に落とし込み、互いの影響を計算する。
もちろん、分からないことも多い。
特に、影の動きは予測が難しい。汚染がどこまで広がるかも、まだ分かっていない。
だからこそ、一つの計画だけに頼るわけにはいかない。
「ミライ。主要経路が一つ使えなくなった場合も計算してください。あと、二つ同時に塞がれた場合も」
『YES。代替経路と必要な輸送資源を再評価します』
「うん。これなら、途中で状況が変わっても対応できますね!」
顔を上げると、なぜか指揮官たちが全員黙っていた。
……あれ?
「どうしました?」
「……青銀の魔女殿」
「はい?」
「貴殿は、今……何をされたのだ?」
「え?」
私は首を傾げた。
「えっと……条件を整理して、影響を計算しただけですけど?」
「……だけ?」
「はい!」
将軍は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……儂らが数日かけても整理しきれなかったものを……」
「えっ!? そんなに難しかったですか?」
『セリス。一般的な軍事参謀の情報処理能力を基準とした場合、今回の演算は極めて高度です』
「……そうなんですか?」
『YES』
へえ。
でも、魔術だって同じようなものだと思うんだけどなあ。
例えば《ファイアボール》一つにしたって、燃焼範囲や熱量、周囲の空気の流れ、必要な魔力量、現象を安定させるための共鳴位相まで考えなきゃいけない。
それに比べたら、今回は条件が多いだけで……。
「……あの、セリス殿」
「はい?」
「もしや貴殿は、魔術を使う際にも、このような計算を?」
「もちろんです!」
私は笑顔で答えた。
「魔術って、すっごく複雑なんですよ! でも、ちゃんと計算すると、無駄な魔力を減らせるし、狙った現象を正確に起こせるんです!」
「…………」
「万物方程式で現象の影響を計算して、必要な魔力を最適化して、それから共鳴顕現方程式で現実化させるんですけど……」
「……待ってくれ」
「はい?」
「……それを、毎回?」
「はいっ!」
将軍が天を仰いだ。
……何で?
『セリス。説明の前提となる知識に、大きな差があります』
「あっ」
そうか。
普通の魔術師さんは、イメージと詠唱で魔術を使うんだった。
「す、すみません! つい!」
慌てて頭を下げると、将軍はなぜか笑い始めた。
「……は、はははっ! いや、謝る必要はない!」
そして、立ち上がった。
「青銀の魔女殿。どうか、この計画の立案に力を貸していただきたい!」
「えっ? もちろんですよ!」
私は即答した。
「だって、みんなで生きて逃げるための計画ですもん!」
将軍は、深く頷いた。
けれど、そのときだった。
「……恐れながら!」
天幕の入口近くから、若い兵士の声が上がった。
将軍が振り向く。
「何だ!」
「その……南側の山道ですが……」
兵士は言い淀みながら、地図を指さした。
「雨が降ると、荷車どころか徒歩でも危険になります。地図には載っていませんが、崩れやすい斜面がありまして……」
私は、ぱっと顔を上げた。
「えっ!? 本当ですか!?」
「は、はい!」
「ありがとうございます!」
「……え?」
兵士が目を丸くする。
「すっごく助かります! ミライ、その情報を反映してください!」
『YES。南側山道の通行条件を更新します。降雨時の危険度が上昇しました』
「なるほど……。じゃあ、ここは天候次第で切り替える経路にしましょう!」
私は兵士に向き直った。
「あの辺りに詳しいんですか?」
「はい。自分の故郷が近くなので……」
「じゃあ、他にも教えてもらえませんか? 地図だけじゃ分からないこと、きっといっぱいありますよね!」
「……自分の知っていることなど、大したものでは……」
「そんなことないですよ!」
私は思わず身を乗り出した。
「だって、今のこと、私もミライも知りませんでしたから!」
兵士は、しばらく呆然としていた。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「……はい。分かることなら、何でも」
「ありがとうございます!」
嬉しいなあ。
やっぱり、実際に住んでいる人に聞くのが一番だ。
どれだけ計算ができても、知らないことは計算できない。
だったら、知っている人に教えてもらえばいい。
……うん。
簡単なことだよね!
それから、天幕の空気が変わった。
指揮官たちが部下を呼び、街道に詳しい兵士や、各地から避難してきた住民の話を集め始めたのだ。
ミライが情報を整理し、私は条件を組み直す。
新しい情報が入るたび、地図の上の光が変化していく。
最初は一本しかなかった避難経路が、二本になり、三本になった。
補給地点が増え、輸送隊の配置が変わり、負傷者の搬送計画も少しずつ現実的なものになっていく。
もちろん、すべてが解決したわけじゃない。
影の出現地点には不明な場所が残っているし、食料の不足する地域もある。
でも。
「……これなら」
将軍が、地図を見つめながら呟いた。
「これなら、本当に……」
私は頷いた。
「はい!」
そして、笑った。
「みんなで、帰ってこられるようにしましょう!」
その言葉に、将軍は一瞬だけ目を見開いた。
「……帰って、くる?」
「もちろんです!」
私は地図の上に広がる竜人国を見つめた。
「今は逃げなきゃいけません。でも、ずっと逃げたままでいるつもりはありませんから!」
アルゼイン王も、言っていた。
いつか必ず、この国を取り戻すと。
だったら、私たちが今やるべきことは、ただ国の外へ人を運ぶことじゃない。
帰ってくるために、生き延びること。
将軍は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……感謝する。青銀の魔女殿」
「えっ!? い、いえ! まだ何も終わってませんよ!?」
「そうだな」
将軍は顔を上げた。
その目には、さっきまでなかった光が宿っていた。
「では、始めよう。儂らの国を、儂らの手で取り戻すためにな」
私は大きく頷いた。
「はいっ!」
こうして、百二十万人の大撤退計画は、ようやく一つの形になり始めた。
けれど。
計画ができたからといって、すべての人がすぐに動けるわけじゃない。
それを知ったのは、翌朝のことだった。
◇
「……避難しない、ですか?」
「ああ。わしは、ここを離れん」
目の前のおじいさんは、腕を組んで頑として動こうとしなかった。
小さな家の前。
すでに周囲の住民は避難準備を始めていて、通りには荷車が行き交っている。
けれど、この家だけは、何も変わっていなかった。
庭には花が咲き、窓辺には古びた木の椅子が置かれている。
「王様の命令だろうが、英雄様の頼みだろうが、同じことじゃ」
おじいさんは、私を睨んだ。
「ここは、わしの家じゃ。生まれてからずっと暮らしてきた。今さら、どこへ行けと言うんじゃ」
同行していた兵士が、困ったように口を開いた。
「ですが、このままでは危険です。どうか……」
「危険なのは分かっとる!」
おじいさんの声が響いた。
「分かったうえで、残ると言っとるんじゃ!」
兵士が言葉を失う。
私は、少し考えた。
確かに危険だ。
ここに残れば、影に襲われるかもしれない。
でも。
どうして、この人はそこまでして残りたいんだろう。
「……あの、おじいさん」
「何じゃ」
「このお家、好きなんですか?」
「……は?」
「いえ、すごく大切そうにされているので」
おじいさんは、眉をひそめた。
「……当たり前じゃ」
そして、庭へ目を向けた。
「ここには、わしの人生がある」
その声は、さっきよりもずっと静かだった。
「妻と暮らし、子を育て、孫が遊びに来て……。あいつが死んでからも、ずっとここにおった」
私は、庭の花を見た。
「……このお花も?」
「……ああ」
おじいさんは、ゆっくりと頷いた。
「妻が植えた花じゃ。毎年、春になると咲く。もうあいつはおらんのに、花だけは律儀に咲きよる」
「……そうなんですね」
私は、しゃがみ込んで花を眺めた。
小さな花だった。
でも、きれいだった。
「……素敵ですね」
「……そうじゃろ」
おじいさんの声が、ほんの少し柔らかくなった。
私は顔を上げた。
「おじいさん。一つ、お願いしてもいいですか?」
「……何じゃ」
「このお花のこと、教えてもらえませんか?」
「……花?」
「はい! それから、この町のことも。昔のことも!」
おじいさんは、怪訝そうに私を見た。
「……そんなことを聞いて、どうする」
「覚えておきたいんです」
私は、まっすぐ答えた。
「いつか、この国を取り戻したときに、ちゃんと帰ってこられるように」
「…………」
「でも、私たちはこの国のことを、まだ全然知らないんです。どこにどんな家があって、誰がどんな暮らしをしていて、何を大切にしていたのか」
私は、庭の花に目を向けた。
「だから、教えてほしいんです」
おじいさんは、黙っていた。
「おじいさんが覚えていることを、次の人たちにも伝えてほしいんです」
「……わしの、覚えていることを?」
「はい!」
私は頷いた。
「帰ってくる場所を覚えている人が、必要なんです!」
長い沈黙があった。
風が吹き、庭の花が小さく揺れる。
やがて、おじいさんは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……そうか」
その目は、遠い昔を見ているようだった。
「……帰ってくるため、か」
私は、何も言わずに待った。
おじいさんは、しばらく庭を眺めていた。
そして。
「……娘がな」
「はい?」
「隣町におる。孫も二人おる」
おじいさんは、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……あいつらにも、この花のことを教えてやらんとな」
私は、思わず笑顔になった。
「はいっ!」
おじいさんは、ゆっくりと立ち上がった。
「……少し、荷物をまとめる時間をくれ」
「もちろんです!」
「それと……」
「はい?」
「……この花、種を持っていってもいいかの」
私は、思わず目を見開いた。
そして、大きく頷いた。
「もちろんです!!」
おじいさんは、初めて笑った。
その笑顔は、どこか少年みたいだった。
◇
おじいさんの家を出たあと、私は救護所へ向かった。
そこには、昨日まで観測を続けていた竜人の男性がいた。
左手に広がる黒い筋。
娘さんと一緒に、木彫りの竜の続きを作る約束をしている人だ。
けれど。
「……俺は、ここに残る」
男性は、静かに言った。
「……え?」
「他の人たちを先に逃がしてくれ」
私は、男性の顔を見た。
その表情は、驚くほど落ち着いていた。
「俺みたいな状態の者が一緒に行けば、迷惑になる」
「……迷惑?」
「ああ。いつ影になるかも分からん。もし途中でそうなれば……」
男性は、言葉を切った。
そして、枕元の小さな木彫りの竜を見つめた。
「……娘まで危険に晒すかもしれない」
私は、胸の奥が少し痛くなった。
この人は、怖いんだ。
自分が死ぬことだけじゃない。
自分のせいで、大切な人が傷つくことが。
私は、寝台の横に椅子を引き寄せた。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「……何だ」
「娘さんは、お父さんにどうしてほしいと思いますか?」
男性は、すぐには答えなかった。
やがて、小さく笑った。
「……生きて帰ってきてほしいだろうな」
「……はい」
「だが、できるかどうか分からん」
「……そうですね」
私は、頷いた。
「私にも、まだ分からないんです」
治せるとは言えない。
影化を止められるかどうかも、分からない。
だから、約束できないことは約束しない。
でも。
「……じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「……何をだ?」
「一緒に、生きる方法を探してほしいんです」
男性が、私を見た。
「……俺が?」
「はい」
私は頷いた。
「同じ症状の人たちが、他にもいます。どんなときにつらいのか、何が怖いのか、どうしたら少しでも楽になるのか……。私たちだけじゃ、分からないことがいっぱいあるんです」
「…………」
「だから、よければ教えてほしいんです。ほかの人たちの声も、聞かせてもらえたら嬉しいです」
男性は、自分の左手を見つめた。
「……こんな身体でも、役に立つのか」
「もちろんです!」
私は即答した。
「でも、無理はしないでくださいね。身体がつらいときは、ちゃんと休んでください」
男性が、少しだけ笑った。
「……注文が多いな」
「えへへ……すみません」
「……いや」
彼は、木彫りの竜を手に取った。
まだ、片方の翼が彫られていない。
「……俺はな」
「はい」
「この続きを、娘と一緒に作る約束をしたんだ」
「……はい」
「……まだ、約束を破りたくない」
その声が、わずかに震えた。
私は、静かに頷いた。
「……じゃあ、一緒に頑張りましょう」
「ああ」
男性は、木彫りの竜を胸に抱いた。
「……頼む」
私は、笑顔で答えた。
「はいっ!」
◇
その日の夕方。
臨時軍司令所へ戻ると、将軍たちが慌ただしく動き回っていた。
けれど、朝とは少し様子が違っていた。
「南部の集落から、古い街道の情報が届きました!」
「避難民の中に、荷車の修理ができる職人がいるそうです!」
「負傷者の搬送について、住民側から協力の申し出がありました!」
「北部の村々でも、避難経路の確認が進んでいます!」
報告が増えている。
それも、軍からだけじゃない。
住民たちから、次々と情報が集まっていた。
『セリス。住民から提供された情報により、複数の経路評価が更新されました』
「……すごいですね」
『YES。計画の精度が向上しています』
「ううん」
私は、地図の上に増えていく光の印を見つめた。
「みんな、すごいんです!」
将軍が、こちらを見た。
「……青銀の魔女殿」
「はい?」
「貴殿は、何をしたのだ?」
「え?」
「今朝まで、避難を拒んでいた者たちまで協力を申し出ている。兵士たちも、自分から情報を集め始めた」
私は、少し考えた。
……何をしたんだろう。
「……お話を聞いただけですよ?」
「……話を?」
「はい!」
私は笑った。
「みんな、守りたいものがあるんです。だったら、それを守るために何ができるか、一緒に考えればいいんじゃないかなって!」
将軍は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
そして、小さく笑った。
「……恐ろしい御仁だな、貴殿は」
「えっ!?」
な、何で!?
『セリス。将軍の発言は、貴女の能力に対する高い評価と推定されます』
「そ、そうなんですか!?」
『YES』
……もう。
この世界の人たち、褒め方が難しいなあ。
そんなことを考えていると、天幕の外から大きな声が響いた。
「第一避難隊、出発準備完了!」
私は、顔を上げた。
いよいよだ。
百二十万人の大撤退。
その最初の一歩が、始まろうとしている。
天幕を出ると、夕暮れの空の下に、長い長い隊列ができていた。
荷車を引く人。
子どもの手を握る人。
何度も故郷を振り返る人。
泣いている人もいる。
それでも、みんな前を向こうとしていた。
その列の中に、見覚えのある姿があった。
「おじいさん!」
「おお、魔女のお嬢ちゃんか!」
あのおじいさんだった。
背中には小さな荷物。
そして、手には布に包んだ花の種。
「ちゃんと持ってきたぞ」
「はい!」
「帰ったら、また植えるんじゃ」
おじいさんは、そう言って笑った。
少し離れた荷車には、あの竜人の男性がいた。
寝台に横たわったままだったけれど、手には木彫りの竜を握っている。
彼は私に気づくと、静かに頷いた。
私は、笑顔で手を振った。
……よかった。
まだ、何も解決していない。
この先に何が待っているのかも、分からない。
でも。
みんな、生きようとしている。
自分たちの未来を、諦めていない。
それが、何より嬉しかった。
『セリス。第一避難隊、移動を開始しました』
「……はい」
私は、ゆっくりと頷いた。
長い隊列が、夕暮れの街道を進み始める。
誰かが、故郷に向かって手を振った。
誰かが、涙を拭った。
そして、誰かが言った。
「……必ず、帰ってこような」
その言葉が、静かに広がっていく。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
絶望は、まだそこにある。
影は消えていない。
汚染も止まっていない。
それでも。
私たちは、絶望に挑むことを選んだ。
私は、遠ざかっていく隊列を見つめながら、小さく呟いた。
「……さあ、始めましょう」
『YES、セリス』
「百二十万人、全員で生き延びるための大作戦です!」
青銀の魔女と呼ばれる私の、これまでで一番大きな挑戦が始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに始まりました、120万人の大撤退!
膨大な情報を一瞬で整理するセリスとミライ。相変わらず、とんでもないコンビです
でも今回、本当にすごいのは、みんなの「守りたいもの」を見つけたことかもしれません。
亡き妻が残した花の種。娘と完成させる約束をした、小さな木彫りの竜。
逃げることは、諦めることじゃない。
大切なものを未来へ繋ぐために、一歩を踏み出すことなんですよね。
そして、ついに動き始めた第一避難隊!
セリスの人生最大の大作戦は、まだ始まったばかりです。
次回もお楽しみに!




