第71話「青銀の魔女、断つ!」
救われたはずの命を蝕む、正体不明の異常。
夜を徹して観測を続けるセリスですが、治療の糸口は未だ見つかりません。
迫り来る影、広がるかもしれない汚染。そして、残された時間。
強大な魔術でも解決できない現実を前に、青銀の魔女が下す決断とは――。
第71話「青銀の魔女、断つ!」、どうぞ!
夜が明けようとしていた。
臨時救護所の天幕には、まだ灯りがともっている。
私は、寝台に横たわる竜人の男性の左手を、そっと持ち上げた。
指先は冷たい。昨日よりも黒い筋が広がり、手の甲にまで達している。
「……もう一度、お願いします」
『YES、セリス。第百二十七測定。刺激強度を前回の半分に設定します』
ミライの声に合わせ、私は男性の手へ、ごく微弱な魔力を流した。
治癒術ではない。身体を傷つけない程度の刺激を与え、その応答を観測するための術式だ。
魔力が指先に触れた瞬間、微かな反応が返ってくる。
私はその波形を記録し、これまでの測定結果と重ね合わせた。
「……やっぱり」
『生体情報の応答位相に、前回と同様の偏差を確認しました』
黒い筋が広がっている部分だけではない。
見た目には何の異常もない腕の上部にも、同じような応答の乱れが現れている。
しかも、その乱れは黒い筋の境界とは一致していなかった。
「外見上の変化より、ずっと広い……」
『YES。ただし、この応答異常が黒い筋の拡大に先行するかどうかは、現時点では確定できません』
「……ですよね」
私は小さく息を吐いた。
昨日から、何度も同じことを繰り返している。
症状のある人。
症状のない人。
長く汚染地域にいた人。
比較的短い時間しか滞在していない人。
その全員に同じ反応が出るわけではなかった。けれど、外見上は健康な兵士からも、似たような位相のずれが観測されている。
さらに、周囲の魔力の揺らぎが強くなったとき、身体の応答にも変化が生じる例があった。
もちろん、いつも一致するわけじゃない。
だから、まだ断定はできない。
でも。
「……ミライ」
『YES、セリス』
「私たち、ずっと身体に何が起きているかを調べていましたよね」
『YES』
「もし……身体だけじゃなかったら?」
私は、自分の指先に小さな魔力の球を浮かべた。
青銀色の光が、静かに揺れる。
「普通の魔術は、もともと存在する魔力を操作して、現象を起こします。でも、もし今回の異常が……魔力そのものの状態にも関係していたら?」
『仮説として成立します。ただし、魔力自体の変化と生体への影響を結びつける証拠は不足しています』
「分かってます」
私は光を消した。
「……だから、もっと調べたいんです」
寝台の男性が、微かに身じろぎした。
私は慌てて顔を上げる。
「すみません。起こしちゃいましたか?」
「……いや」
男性は弱々しく首を振った。
「まだ、やってくれていたのか」
「はい。もう少しだけ調べさせてください」
「……治りそうか?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
寝台の脇には、小さな木彫りの竜が置かれている。
娘さんが作ってくれたものだと、昨日聞いた。
男性はそれを見つめていた。
「娘がな……帰ったら、一緒に続きを彫ろうって」
「…………」
「約束したんだ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
私は治癒魔法が得意じゃない。
そもそも、この症状を治せる方法が存在するのかどうかさえ、分かっていない。
ここで大丈夫だと言えば、きっと嘘になる。
「……まだ、治し方は分かりません」
私は男性の手を、両手で包んだ。
「でも、調べるのはやめません。できることを、一つずつ探します」
男性はしばらく私を見つめ、それから静かに頷いた。
「……ありがとう」
その言葉に、私はうまく笑えなかった。
天幕の外から、朝を告げる鳥の声が聞こえた。
もう、時間がない。
そう思った。
黒い筋が広がる速度も、影の侵攻も、私たちの都合なんて待ってくれない。
だったら。
分からないことを、全部分かるまで待っているわけにはいかない。
「……ミライ」
『YES、セリス』
「みなさんを集めてください。アルゼイン陛下にも、連絡を」
『了解しました。緊急協議を要請します』
私は男性の手をそっと戻し、立ち上がった。
天幕の入口で、一度だけ振り返る。
小さな木彫りの竜が、朝の光を受けていた。
あの続きを、彫ってほしい。
娘さんとの約束を、守ってほしい。
そのために、今できることは――。
◇
臨時司令所に集まった人たちの顔には、疲労の色が濃かった。
アルディスさんは負傷した身体を休める間もなく、私の呼びかけに応じてくれた。傷の手当ては受けているけれど、まだ万全ではない。
ルカさんは周辺の偵察から戻ったばかり。
ルシャナさんとカナメさんも、避難民の保護を終えて合流してくれた。
そして、周辺の影への対応に当たっていたレスターさん、シルキーさん、ネスラさん。
ネスラさんの猫耳付きフードには、細かな氷の粒が残っていた。肩の上では、翼のある猫のエヌが小さく身体を丸めている。
机の中央には、通信魔術によって二つの映像が浮かんでいた。
一つは、竜人国王アルゼイン陛下。
もう一つは、大神官ドーンさん。
二人とも竜人国の王都にいる。ドーンさんは負傷者の治療に当たりながら、こちらの協議に参加してくれていた。
『セリスよ。緊急の話とは何だ』
アルゼイン陛下の声に、私は頷いた。
「はい。まず、昨日からの観測結果を見てください」
ミライが、記録した波形を空中に展開する。
黒い筋のある患者。
外見上は異常のない兵士。
それぞれの魔力刺激に対する応答が、重ねて表示された。
「この部分です。見た目には症状がなくても、似たような応答の乱れが確認されています」
「……つまり、症状が出ていない者も危険だということか?」
レスターさんが尋ねた。
「その可能性はあります。でも、必ず発症するとは言えません。この反応が何を意味するのか、まだ分かっていないんです」
私は別の記録を表示した。
「それから、周囲の魔力の状態と、身体の応答に関連があるかもしれません」
「……環境側の問題?」
ネスラさんが、すぐに反応した。
「はい。ただ、相関が見られない例もあります。原因が一つとは限りません」
「……なるほど」
ネスラさんは波形をじっと見つめていた。
「身体の異常だけを調べてても、足りないかもしれないってことだね」
「そうなんです!」
思わず声が大きくなる。
「もし魔力そのものに何らかの変化が起きているなら、治癒魔法だけで対処できるかも分かりません。だから、環境の魔力も並行して調べる必要があって――」
「……セリス」
「あっ、はい!」
「説明、続けて」
「……はい」
危ない。
研究の話になると、つい夢中になっちゃう。
私は咳払いをして、話を戻した。
「ただし、これは全部、まだ仮説です。汚染の正体も、影になる条件も、何一つ確定していません」
室内が静かになった。
ルカさんが腕を組む。
「……でも、危険が広がってる可能性はあるんだにゃ?」
「はい」
「影の侵攻だけじゃなく、土地そのものが危険になっていくかもしれない……そういうことね」
ルシャナさんの言葉に、私は頷いた。
「最悪の場合、そうなります」
『……人が生きられる場所そのものが、狭まっていくということか』
アルゼイン陛下が、低く呟いた。
私は唇を噛んだ。
そう。
まだ証明されていない。
でも、もし本当にそうなら。
影を倒しても、土地に留まり続けるだけで危険が増していくかもしれない。
それは、今までの戦い方では対処できない問題だった。
「……それで、セリス」
アルディスさんが口を開いた。
「お前は、どうしたい?」
私は顔を上げた。
その目は、真っ直ぐ私を見ている。
試されているわけじゃない。
きっと、聞いてくれているんだ。
私が何を見て、何を考えて、どんな答えに辿り着いたのか。
だから、私は答えた。
「……逃げましょう」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「この国から、全員で逃げましょう」
『……全員、だと?』
アルゼイン陛下の声が、僅かに揺れた。
「はい」
私は、机の上の地図を指さした。
「今、竜人国には、およそ百二十万人の方が残っています。子どもも、お年寄りも、怪我をしている人も……あの黒い筋が出ている人も」
指先が震えそうになる。
それでも、私は続けた。
「全員です。一人でも多く、汚染の影響が確認されていない場所へ移動してもらいます」
「……百二十万人」
レスターさんが、険しい顔で呟いた。
「輸送手段はどうする。食料は? 負傷者の移動速度も考えなければならない」
「分かっています」
「受け入れ先も必要だ。これほどの人数を、一国だけで引き受けるのは難しい」
「……はい」
次々と挙げられる問題は、どれも正しかった。
避難路を作るだけじゃ足りない。
途中で食料が尽きたら?
魔物や影に襲われたら?
受け入れ先で病人が増えたら?
そもそも、黒い筋が出ている人を、他国は受け入れてくれるだろうか。
考えれば考えるほど、無理な理由が増えていく。
それでも。
「……ここに残れば、安全なんですか?」
私は、誰にともなく尋ねた。
「影が来ます。汚染も広がっているかもしれません。治し方も分からない。なのに、ここに留まって……何を待つんですか?」
返事はなかった。
「私、あの人に約束したんです」
寝台の男性の顔が浮かぶ。
「治せるとは言えませんでした。でも、諦めずに調べるって」
私は、ゆっくりと息を吸った。
「……ここで見捨てたら、その約束を守れません」
自分でも、無茶なことを言っていると思う。
百二十万人。
私一人の力で守れる数じゃない。
どれだけ魔術を研究しても、どれだけ強くなっても、全部を一人でどうにかするなんて無理だ。
でも。
だからこそ。
「……みなさんの力を、貸してください」
私は、深く頭を下げた。
「逃げるために、戦いたいんです」
沈黙が落ちた。
やがて。
「……俺が道を作る」
最初に口を開いたのは、アルディスさんだった。
顔を上げると、彼はいつものように笑っていた。
「進む先に敵がいるなら、俺が斬る。それだけだ」
「アルディスさん……」
「護衛は私の歌が適任ね」
ルシャナさんが、穏やかに微笑む。
「長い旅になるわ。戦う人だけじゃなく、歩き続ける人たちにも力が必要でしょう?」
「戦況分析には敵の配置が必要だにゃ」
ルカさんが地図に手を置いた。
「諜報は任せるにゃ。安全な道も、危険な場所も、全部調べてやるにゃ」
「各国の説得は任せるでござる」
カナメさんが、静かに頷いた。
「魔族国にも、できる限りの受け入れ体勢を整えさせるでござるよ。無論、他国との調整も必要でござるがな」
私は、言葉を失った。
みんなが。
私の無茶な提案を、実現するために動こうとしてくれている。
そのとき、通信の向こうから、低い声が響いた。
『……アルゼインよ』
ドーンさんだった。
王都の救護所にいる彼の背後では、負傷者の手当てが続いている。
『儂は今、ここで多くの命を見ておる。救える者もおる。まだ、救う方法の分からぬ者もおる』
その声は、静かだった。
『だが、分からぬからといって、命を選り分けるつもりはない』
ドーンさんは、真っ直ぐアルゼイン陛下を見た。
『賢王アルゼインよ。大神官ドーンの名において宣言する』
そして、力強く告げた。
『教国は、全ての命を受け入れよう』
『……ドーン』
『無論、百二十万人全てを一度に収容できるとは言わぬ。住まいも食料も、人手も足りぬであろう。だが、門を閉ざすことだけはせぬ』
ドーンさんは、ゆっくりと拳を握った。
『受け入れるために必要なことは、儂が引き受けよう』
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
まだ、何も解決していない。
でも。
さっきまで見えなかった道が、少しずつ形になっていく。
「……となると、問題は殿だな」
レスターさんが、地図の後方を指した。
「これだけの人数が移動するなら、最後尾はどうしても遅くなる。影が追いつけば、避難民は逃げ切れない」
「ふふーん♪」
シルキーさんが、得意げに胸を張った。
「それなら、わたくしの出番なのです!」
「……魔術師がいいと思う」
ネスラさんが、静かに口を開いた。
「敵を全部倒す必要はない。進ませなければいいんでしょ」
彼は地図に指を滑らせる。
「道幅の狭い場所なら、氷で移動を制限できる。拘束して足止めする。突破されたら防壁を張って、次の地点まで下がる」
「なるほど。遅滞戦闘か」
レスターさんが頷いた。
「風で敵の進路を乱せば、氷の拘束も活かせるな」
「はいなのです! そこへ、わたくしの雷を叩き込むのです!」
「……それ、魔力が続く間だけでしょ」
「続かせるのです!」
「……どうやって?」
「気合いなのです!」
「……計画に入れられないよ、それ」
「むむむっ!」
思わず笑いそうになった。
けれど、ネスラさんは真剣だった。
「僕の魔法師団にも、後方支援の準備を指示しておく。全員を一か所に集めるより、交代できる配置を考えたい」
彼は地図から顔を上げた。
「……面倒な仕事になりそう」
そして、小さく続ける。
「でも、誰かがやらないと」
青いペンダントが、朝の光を受けて揺れた。
「……最後の荷車が通るまで、道は塞がせない」
その言葉に、レスターさんが頷いた。
「よし。殿の防衛計画は、我々三人を中心に組み立てよう」
「はいなのです!」
「……了解」
私は、思わず一歩前に出た。
「だったら、私も――」
ぺしっ。
「……いたっ!?」
額を、軽く叩かれた。
目の前には、腰に手を当てたシルキーさん。
「青銀の魔女!」
「は、はい!」
「貴女には、貴女にしかできないことがあるのです!」
「……え?」
シルキーさんは、私の額から手を離した。
「百二十万人を動かすのですよ? 途中で何が起きるか分からないのです。敵が来るかもしれない。道が崩れるかもしれない。怪我人が増えるかもしれないのです!」
「……はい」
「そのとき、一番早く動けて、一番大きな力を出せる人が、後ろに張りついていてどうするのです?」
私は、言葉に詰まった。
「貴女は真ん中にいるのです。みんなの状況を見て、必要なところへ力を届けるのです!」
真ん中。
避難する人たちの、中心。
それは、守られる場所じゃない。
全体を見渡し、判断し、何かが起きたら誰よりも早く動かなければならない場所。
私に、それができるだろうか。
「……でも、私は」
「ま、そこはドグルが居たところだからな」
アルディスさんの声がした。
振り向くと、彼は腕を組んで私を見ていた。
「セリス、お前がやれ」
「……アルディスさん」
「お前がみんなを立たせたんだ。責任もってやり遂げてみせろ」
その言葉は、重かった。
ドグルさん。
六英雄の一人。
竜人国の英雄。
アルディスさんたちと肩を並べ、誰よりも前に立って戦った人。
私は、あの人みたいには戦えない。
槍を振るうことも、敵の大群へ笑いながら突っ込むこともできない。
でも。
今、みんなが私に任せようとしているのは、ドグルさんと同じ戦い方をすることじゃない。
みんなが生きて帰れるように、私にできることをすること。
「……分かりました」
私は、ゆっくりと頷いた。
「やります」
シルキーさんが、にっこり笑った。
「ふふーん♪ それでこそ、青銀の魔女なのです!」
ネスラさんも、小さく頷く。
「……無茶はしないで」
「ネスラさんこそ」
「……僕は、ちゃんと準備するから」
「ふふっ。知ってます」
それが、何だかとても心強かった。
私は、もう一度地図を見た。
進む道。
守る人たち。
受け入れてくれる国。
そして、まだ決まっていないことが、山ほどある。
でも、もう一人じゃない。
私は、通信の向こうのアルゼイン陛下へ向き直った。
「……陛下」
『うむ』
「私たちに、避難計画を進めさせてください」
陛下は、すぐには答えなかった。
その瞳が、私をじっと見つめている。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
『……青銀の魔女、セリス・アルフィーネよ』
「はい」
『そなたは、この国を捨てよと申すか』
胸が、どきりと鳴った。
私は首を振る。
「いいえ」
そして、答えた。
「この国の人たちに、生きていてほしいんです」
陛下の目が、僅かに見開かれた。
「国を取り戻す方法は、これから考えられます。でも、亡くなった人を取り戻す方法は……私には、まだ分かりません」
言葉を選びながら、続ける。
「だから、今は生きてほしい。みんなで、生き延びてほしいんです」
通信の向こうで、陛下が静かに目を閉じた。
長い沈黙だった。
その間、誰も口を挟まなかった。
やがて。
『……ドグルよ』
陛下が、ぽつりと呟いた。
『お前なら、何と申したであろうな』
その声は、先ほどまでの王の声とは少し違っていた。
遠い昔を思い出しているような、静かな声だった。
『あやつは、いつもそうであった。勝てぬ相手にも笑って向かい、誰もが無理だと申す戦場へ、真っ先に飛び込んでいった』
陛下は、ゆっくりと目を開いた。
『……無謀な男よ』
けれど、その口元には微かな笑みがあった。
『だが、あやつが背を向けなんだのは、戦いからではない』
私は、息を呑んだ。
『守るべき命から、決して背を向けなんだのだ』
アルディスさんが、静かに目を伏せた。
ドーンさんも、何も言わなかった。
『……なるほど』
陛下は、私を見た。
『逃げるために戦う、か』
その瞳に、力が戻っていく。
『面白いことを申す娘よ』
そして。
賢王アルゼインは、立ち上がった。
『青銀の魔女、セリス・アルフィーネよ。その進言を受け入れよう』
空気が変わった。
そこにいた全員が、姿勢を正す。
『竜人国王アルゼインの名において命ずる!』
王の声が、司令所に響き渡った。
『全ての民を、生きて友の元へ届けよ!』
私は、思わず背筋を伸ばした。
『我らは国を捨てるのではない! 生き延びるのだ!』
その声には、迷いがなかった。
『そして、いつか必ず――』
王が、拳を握りしめる。
『この国を取り戻す!!』
誰も、声を出せなかった。
アルゼイン陛下は、さらに続けた。
『避難の指揮系統は、直ちに整える。各地の領主、軍、民の代表にも命を下そう。セリスよ、そなたは英雄たちと協力し、移動する民の中心に立て』
「……はい!」
『だが、一つだけ譲れぬことがある』
陛下は、不敵に笑った。
『殿は譲らぬぞ』
「……え?」
『この国を最後に出るのは――』
王は、胸を張った。
『この儂よ!!』
その瞬間。
アルディスさんが、声を上げて笑った。
「はっはっは! 言うじゃねえか、賢王!」
『当然であろう。民を先に送り出さずして、何が王か!』
「いいぜ。だったら最後まで守り抜いてやるよ」
『頼んだぞ、剣聖』
ルシャナさんが微笑み、カナメさんが深く頷く。
ルカさんは、早速地図に新しい経路を書き込み始めていた。
レスターさんは後衛部隊の編成を考え、ネスラさんは必要な配置と交代の条件を整理している。
シルキーさんは、相変わらず得意げだった。
「ふふーん♪ これで決まりなのです!」
私は、そんなみんなを見つめていた。
百二十万人。
途方もない数の命。
進む先には、まだ何が待っているか分からない。
汚染の正体も分からない。
影の侵攻を止められる保証もない。
きっと、これから何度も失敗する。
怖くなることだって、あると思う。
それでも。
私たちは、決めた。
ここで終わりにはしない。
諦めて、立ち止まったりしない。
私は、胸元でそっと拳を握った。
「……ミライ」
『YES、セリス』
「やることが、いっぱいですね」
『YES。避難計画、観測体制の維持、各国との連絡、後衛支援、魔術研究。優先順位の設定を推奨します』
「ふふっ。そうですね」
私は、地図の中央に手を置いた。
「まずは、みんなを生きて届けましょう」
『YES、セリス』
朝日が、天幕の隙間から差し込んだ。
その光を受けて、私の指先に小さな青銀色の魔力が揺れる。
……魔力。
昨日から調べ続けている、あの不思議な位相のずれ。
もし、本当に魔力そのものの情報が変化するのなら。
逆に、こちらから変えることだって――。
「…………」
『セリス?』
「……いえ。何でもありません」
私は慌てて光を消した。
今は避難が最優先。
分かっている。
分かっているんだけど。
……ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ、試してみたい。
『セリス。魔術研究の新規計画を検出しました』
「ま、まだ何もしてませんよ!?」
『YES。現時点では』
「……ミライ、鋭くなりましたね」
『ありがとうございます』
私は小さく笑って、顔を上げた。
司令所の外では、朝の光の中を人々が行き交い始めていた。
誰もが不安を抱えている。
それでも、今日を生きようとしている。
その一人ひとりに、帰りを待つ人がいる。
守りたいものがある。
叶えたい約束がある。
だったら。
その未来を、ここで終わらせたりしない。
私は、仲間たちのいる場所へ歩き出した。
絶望に、命を差し出すつもりはない。
私たちは、生きるために戦う。
青銀の魔女が選んだのは、勝利のための進軍ではなかった。
百二十万人の未来を繋ぐための――
大撤退だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついにセリスが決断しました。
その数、なんと120万人! 竜人国を挙げての大撤退です!
敵を倒すことだけが勝利ではない。生き延びて、いつか帰ることもまた、一つの戦い方なんですよね。
そして、亡きドグルの役割を託されたセリス。
もちろん、周りには頼もしい英雄たちがいます!
……それにしても、こんな大仕事を前にして、もう新しい魔術の研究を考えているあたり、やっぱり我らが魔法オタクですw
さて、120万人の未来を繋ぐ大撤退。その行く末を、ぜひ見守ってください!




