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『目指すは最強! ~魔法オタクの異世界無双~』  作者: 穂乃果
第6幕「絶望情報強度 ― Despair Information Intensity ―」
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第70話「救えたはずの命。救いたい命。諦めてたまるか!!」

亡き友の姿をした敵との激闘を終え、帰還した剣聖アルディス。


しかし、戦場から戻ってきた人々にも、まだ終わっていない戦いがありました。


強大な魔術で敵を倒すことはできても、それだけでは救えないものがある。


今回は、セリスが自分の力と、もう一度向き合うお話です。


第70話「救われたはずの命」、どうぞ。

 竜人国北部、南方中継拠点。


「アルディスさん!?」


 天幕へ入ってきた姿を見て、私は椅子を蹴るように立ち上がった。


 頬に傷がある。肩の服は裂け、左手に巻かれた包帯には、赤い染みが広がっていた。


「おう、セリス。戻ったぜ」


「戻ったぜ、じゃありませんよ! 座ってください!」


「大したことは――」


「その台詞、治癒術師さんに聞いてもらいますからね!」


 近くにいた兵士さんへ声をかけ、椅子を引っ張ってくる。


 アルディスさんは少し驚いた顔をして、それから苦笑した。


「分かった。座るから、そんな顔するな」


 ……どんな顔をしていたんだろう。


 聞き返す余裕はなかった。


 包帯を解こうとして、指が止まる。


 傷に張りついていたら、どうすればいい?


 先に洗う? それとも、そのまま治癒術師さんに見てもらう?


 魔術で大地を吹き飛ばすことはできる。


 なのに、目の前の包帯一つ、ためらわずに外せない。


「……すぐ、来てくれますから」


「ああ。ありがとな」


 アルディスさんは、包帯のない方の手で椅子を引き寄せた。


 いつもどおりの仕草だった。


 それが、少しだけありがたかった。


     ◇


 治癒術師さんが肩の傷へ手をかざす。


 淡い光が広がり、裂けた皮膚が少しずつ繋がっていった。


 私は、その魔力の流れを目で追った。


 傷ついた組織を、どんな順番で戻しているんだろう。


 元の形は、何を基準に決めている?


 途中で間違ったものを繋げない仕組みは――。


「……気になるか?」


 アルディスさんに言われ、顔を上げた。


「はい。すごく」


 いつもなら、そのまま質問していたと思う。


 でも、今日は繋がっていく傷から、目を離せなかった。


「私にも、それができたらいいのにって」


「お前には、お前のできることがあるだろ」


「……それは、分かってます」


 分かっている。


 だけど、今この人の傷を治しているのは、私じゃない。


 治癒術師さんが、私へ布を差し出した。


「こちらをお願いします。腕を支えていてください」


「あ、はい!」


 私は慌てて受け取った。


 今できることが、それなら。


 せめて、ちゃんとやろう。


 治療が進む間に、アルディスさんは北で起きたことを話してくれた。


 ドグルさんの姿をした敵。


 その声を聞き、帰ってきたと喜んだ人々。


 そして、その人たちへ向けられた槍。


「……そんなことまで、するんですか」


 アルディスさんは頷いた。


「顔も声も、よくできてた。槍の扱いもな」


 短い言葉だった。


 それ以上、どう感じたのかは言わなかった。


 私は、支えている腕の傷を見た。


 あの人の姿をした相手に、この傷を負わされた。


 それでもアルディスさんは、避難民を逃がして帰ってきたのだ。


「名前は、アナンケ。《不可避》を担うものだとよ」


「……ミライ。今の話、記録して」


『YES、セリス。アルディス氏の証言として記録します』


 首を落としても、身体を斬り離しても戻った。


 戦ううちに、こちらの動きを覚えていった。


 けれど、最後の一撃でついた傷だけは、塞がらなかったという。


「戻らなかったんですか?」


「ああ。胸は繋がるんだ。だが、その奥が、同じ場所からまた裂けた」


 私は顔を上げた。


 壊しても戻る身体。


 戻そうとしても、戻らなかった傷。


「……再生の速さだけの問題じゃ、ない?」


 頭の中で、いくつかの考えが繋がりかける。


 身体とは別に、形を保つものがあるのかもしれない。


 それが残っているから、何度壊しても元へ戻る。


 もし、そこへ届いたのなら。


「アルディスさん。そのときの感触、もう少し聞かせてもらえますか」


「ああ。ただ、うまく説明できるか分からねえぞ」


「分かるところだけでいいです。押し返された感じとか、刃が通ったときの違いとか」


 私は記録用紙を引き寄せた。


 今すぐ、同じことができるわけじゃない。


 それでも。


 届かないと思っていたところへ、届いた人がいる。


 その事実だけは、書き留めておきたかった。


     ◇


 臨時救護所から呼ばれたのは、その少しあとだった。


「黒い筋が現れた患者さんがいます」


 その言葉を聞いた瞬間、エルドさんの手が頭に浮かんだ。


 指先の向こうに、地面が見えた。


 まだ話していた。


 まだ、笑っていた。


「……セリス?」


 アルディスさんの声で、息を吸い直す。


「行ってきます」


 ミライを掴む。


 今度は。


 そう考えかけて、唇を噛んだ。


 今度こそ助けられるなんて、まだ言えない。


 でも、急ぐことはできる。


     ◇


 寝台に横たわっていたのは、若い竜人の男性だった。


 左腕の肘から手首へ、細い黒い筋が伸びている。


「いつ、気づきましたか?」


「今朝です。最初は、ここだけだったんですが」


 男性が肘の近くを指した。


「痛みは?」


「ないです。ただ、指先が少し冷たくて」


 治癒術師さんの診察では、大きな外傷はない。


 治癒魔法を使っても、黒い筋には変化がなかった。


 私は椅子を寄せ、男性と目を合わせた。


「腕の状態を、魔術で調べさせてもらえますか。痛みや違和感があったら、すぐに教えてください」


「……はい。お願いします」


 腕の周囲へ、小さな魔法陣を展開する。


 ごく弱い魔力を作用させ、その応答を読む。


 万物方程式を使えば、全部が見えるわけじゃない。


 観測できるものを拾い、比べて、変化を探す。


 今は、それしかできない。


「ミライ。右腕の記録と並べて」


『YES、セリス』


 二つの図形が浮かび上がった。


 右腕と左腕。


 骨や筋肉の違いを確かめながら、応答のずれを追っていく。


「……ここ」


 黒い筋のある部分で、反応が乱れていた。


 けれど、そこで終わっていない。


 見た目には何もない場所まで、似た揺らぎが続いている。


「もう一度。同じ条件で」


『観測を継続します』


 結果は、完全には重ならなかった。


 それでも、差の出る場所は似ている。


 三度目も。


「……見えているところだけじゃ、ないんだ」


 胸が、小さく跳ねた。


 見つけたかもしれない。


 黒い筋が現れるより先に、変わっているものを。


「あの」


 男性の声に、顔を上げた。


「何か、分かりましたか?」


 私は、開きかけた口を閉じた。


 測れた。


 でも、それで、この人の腕は治った?


 黒い筋は消えた?


「……見た目では分からない変化が、あるかもしれません」


「それは、治せるんでしょうか」


 答えが、出なかった。


 魔法陣の光が、二人の間に浮かんでいる。


 こんなに細かく見えているのに。


「今は、まだ治し方が分かりません」


 男性の視線が、腕へ落ちた。


「……そうですか」


 私は、ミライを握り直した。


「この記録を残して、変化を追わせてください。治癒術師さんとも相談します」


「はい。お願いします」


 男性は、右手で枕元のものを取った。


 小さな、木彫りの鳥だった。


 羽の大きさが左右で違う。


 片方の目だけ、少し高い位置にある。


「娘が作ったんです」


 私の視線に気づき、男性が笑った。


「鳥なんですけどね。本人は、竜だって言い張ってまして」


「……あ。じゃあ、この後ろのは、尻尾ですか?」


「そうなんです。折ると怒られますから、気をつけないと」


 大事そうに持ち直す。


「妻と娘は、先に南へ行かせました。俺も、追いつくつもりだったんですが」


 その指が、木彫りの背を撫でた。


「待たせちゃってるなあ」


 私は、腕の黒い筋を見た。


 この人は、帰るつもりでいる。


 娘に会って、この小さな竜を返すつもりでいる。


 エルドさんも、そうだった。


 安心していた。


 助かったと、思っていた。


 それなのに。


「……また、来ます」


 私は立ち上がった。


「何か変わったら、すぐに呼んでください。少しのことでも」


 男性は頷いた。


「よろしくお願いします」


 その声を聞きながら、私は魔法陣を消した。


     ◇


 天幕へ戻り、記録を机に広げる。


 紙の端が引っかかり、何枚か床へ落ちた。


「……ああ、もう」


 拾おうとした手が、うまく動かなかった。


 力を入れすぎていたらしい。


 指を開くと、掌にミライを握っていた跡が残っていた。


「セリス」


 ネスラさんが、落ちた紙を拾ってくれた。


「……座って。何が分かった?」


「黒い筋の外にも、似た反応がありました」


 私は椅子へ座り、観測結果を示した。


「見えている変化より、広いかもしれません」


「……うん」


「それから、あの人、家族に会いたいって。帰るつもりで、ちゃんと……」


 そこで、言葉がつかえた。


 ネスラさんは、続きを待ってくれた。


「エルドさんも、安心してたんです」


「……聞いてる」


「だったら、今、怖がってるかどうかだけを見ても、駄目ですよね」


 私は記録の端を押さえた。


「影を倒しても、干渉は残る。人の身体にも、似た反応がある。今すぐ絶望していなくても、変化は進む」


 紙へ線を引く。


 環境。


 身体。


 時間。


「……その場で受けた影響が、あとまで残っていたら?」


 ネスラさんの視線が、紙へ落ちた。


「身体の方に?」


「はい。何度も受けたり、長く留まったりして、少しずつ溜まっていたら」


 私はエルドさんの記録を重ねた。


「助かったと思ったときには、もう、変化が始まっていたのかもしれません」


 口にすると、胸が痛んだ。


 あのとき、私は笑った。


 全員で帰ろうと、言った。


 その前から、何かが進んでいたのなら。


「……どこまで戻れば、間に合ったんでしょうね」


 ネスラさんは、すぐには答えなかった。


 やがて、隣の椅子を引いた。


「それを、これから調べよう」


 私は顔を上げた。


「……今の記録で、確かめられることは?」


 慰める声ではなかった。


 研究をするときの、いつもの問いだった。


 私は、散らばった紙を手元へ集めた。


「同じ道を通った人を、比べたいです」


「症状のある人と、ない人?」


「はい。それから、別の道を通った人。滞在した場所と時間も、分かる範囲で」


「分かった。僕が避難記録を集める」


「あと、繰り返し測りたいです。一度だけじゃ、元からの違いかもしれないから」


「……うん。移動先でも続けられるようにしよう」


 ネスラさんが、手分けする項目を書き出す。


 その横で、私はペンを握った。


 さっきまで、何から書けばいいか分からなかった紙に、一つずつ項目が増えていった。


     ◇


 観測は、思ったようには進まなかった。


 通った道を覚えていない人がいた。


 途中で引き返した人もいた。


 同じ荷車に乗っていても、一人は眠り、一人はずっと護衛に立っていた。


 記録にある出発時刻と、本人の覚えている時刻が違う。


 私は何度も聞き直しかけ、そのたびに口を閉じた。


 この人たちは、研究のためにここへ来たわけじゃない。


 逃げてきたんだ。


「分からないところは、そのままで大丈夫です」


 そう伝え、空欄を残す。


 揃わない条件を、無理に揃ったことにはできない。


 ミライが並べた結果にも、綺麗な線は現れなかった。


「……これ、逆じゃない?」


 長く同じ場所にいた人の方が、反応が小さい。


 短い時間しか通っていない人に、強い揺らぎがある。


『滞在時間のみでは、観測値の差を説明できません』


「分かってる」


 少し強い声になった。


 私は息を止め、それから吐いた。


「……ごめん。今の、ミライに言っても仕方ないね」


『比較条件を追加しますか?』


「うん。場所ごとの干渉の違いと、途中で影に遭ったかどうか。それから、魔力制御の記録が分かる人は、それも」


 ただ、項目を増やせばいいわけじゃない。


 それでも、合わない結果を捨ててしまったら、見たいものしか残らなくなる。


 私は一度書いた結論に、線を引いた。


 ――長く留まるほど、変化が大きい。


 今は、そこまで言えない。


 代わりに、問いを書き直す。


 ――何を、どれだけ受けたのか。


 そのとき、一つの記録で手が止まった。


 黒い筋のない兵士さん。


 体調に変化はなく、本人もすぐ護衛へ戻れると言っていた。


 その腕に、似た応答のずれがある。


「……ミライ。測り直そう」


 二度目。


 三度目。


 場所を変え、魔力の供給を確かめる。


 それでも、同じ傾向が残った。


 黒い筋は、見えない。


 けれど、何も起きていないとは言い切れない。


「……出る前に、見つけられる?」


 声にすると、怖くなった。


 この兵士さんまで、影になるという意味ではない。


 元からの違いかもしれない。


 回復する途中なのかもしれない。


 だから、決めつけない。


 その代わり、見失わない。


「次に測る場所と時間、引き継ぎに入れて。移動は止めなくていいから」


『YES、セリス』


 私は、ようやく紙から顔を上げた。


 少しだけ、先が見えた気がした。


 そのときだった。


「セリス様! 先ほどの患者さんが!」


     ◇


 男性の左手から、木彫りの竜が落ちかけていた。


 右手が、慌ててそれを受け止める。


「ああ……すみません。何だか、うまく握れなくて」


 黒い筋が、手の甲まで広がっていた。


 私は寝台へ駆け寄り、観測術式を展開した。


「ミライ、前回の記録と比較!」


 光の図形が浮かぶ。


 変わっている。


 さっき捉えた、見た目より広い範囲の揺らぎ。


 その一部で、黒い筋が現れ始めていた。


 予想に、合っていた。


 ――合っていたところで、何になる。


 私は奥歯を噛んだ。


 この人の腕は、悪くなっている。


 私が紙を並べている間にも。


「……治癒魔法は」


「処置は続けています。ただ、この変化には……」


 治癒術師さんが、言葉を切った。


 私は頷いた。


 責めているわけじゃない。


 分かっている。


 この人も、できることを続けてくれている。


 なら、私は?


 術式を変える?


 位相を揃える?


 異常な応答だけを打ち消せば――。


 杖を持ち上げかけて、止まった。


 何を打ち消す?


 この人を、この人として保っているものまで崩したら?


 震えるほど魔力を細かく扱えるくせに、どこへ流せばいいのか分からない。


「……セリスさん」


 男性が呼んだ。


「俺、娘に会いたいんです」


「……はい」


「まだ、あいつに……ちゃんと、褒めてやれてなくて」


 右手の中に、小さな竜がいた。


「鳥みたいだって、笑っちゃったから」


 私は、その木彫りを見つめた。


 ふざけた言葉も。


 大きな約束も。


 何一つ、出てこなかった。


「……ご家族のいる場所を、確認してもらいます」


 ようやく言えたのは、それだけだった。


「治療を続けながら、移動できるかも相談します」


「ありがとうございます」


 男性が、ほっとしたように笑った。


 私は笑い返せなかった。


 礼を言われるほどのことを、まだできていない。


 それでも、ここで俯いたら、この人は何を見るんだろう。


 私は寝台のそばへ座り直した。


「腕、もう少し調べさせてください」


 ペンを取る。


 今の時刻を書く。


 指が動かしにくくなったことを書く。


 書いている途中で、文字が歪んだ。


 紙を裏返し、もう一度書いた。


     ◇


 寝台を移したのは、拠点内でも比較的、干渉反応の弱い一角だった。


 そこなら治る、という根拠はない。


 ただ、影を退けたという理由だけで、同じ場所へ留め続けたくなかった。


 移動の負担を治癒術師さんに確かめ、護衛を付け、短い距離を運んだ。


 私は担架の横を歩きながら、何度も観測値を見た。


 下がってほしかった。


 ほんの少しでいいから。


 これでよかったと、言える変化が欲しかった。


『周囲の干渉反応は低下しています』


「身体の方は?」


『明確な改善は、現時点では確認できません』


 私は、表示を見つめた。


「……もう少し、見よう」


 しばらくして測り直す。


 また、測る。


 黒い筋は、消えなかった。


 男性は疲れたのか、木彫りを右手に持ったまま眠り始めた。


 私は、ようやく寝台から離れた。


 衝立の向こうで、足が止まる。


 布を握った。


 声を出すと、向こうへ聞こえる。


 だから、息だけを吐いた。


「……悔しい」


 小さく、漏れた。


 分かったことは増えている。


 記録も、比べ方も、前よりましになっている。


 それなのに。


「治せて、ないじゃん……」


 敵の大群を吹き飛ばした。


 英雄のみんなにも、すごいと笑ってもらった。


 でも、あの人の指一本、元どおりに動かしてあげられない。


 膝に手をつく。


 泣いている時間がもったいないと思ったのに、目を拭く手が止まらなかった。


 その横へ、靴音が近づいた。


 ネスラさんだった。


「……今の記録、僕が引き継ぐ」


「できます」


「うん。でも、字が読めなくなってる」


 差し出された紙を見て、何も言えなくなった。


 数字の上へ、何度も同じ線を重ねていた。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていい」


 ネスラさんは紙を受け取り、私の隣へ立った。


「水、飲んで。それから、次に何をするか決めよう」


「……はい」


 器を受け取る。


 一口飲むと、喉が痛かった。


 自分がずっと喉を詰まらせていたことに、そのとき気づいた。


     ◇


 夜の会議には、まだ出せる答えが少なかった。


 アルディスさん、ネスラさん、レスターさん、それに竜人兵の代表。


 私は、書き直した記録を机へ置いた。


「環境に干渉が残ることは、これまでも観測しています。今日は、その反応と、人の身体に起きている変化を比べました」


 似た特徴がある。


 見える黒い筋より、応答の乱れが広い場合がある。


 症状のない人にも、似た反応が見つかった。


 そして、一人の患者では、先に反応が乱れていた範囲へ、黒い筋が広がった。


「ただし、今の記録だけで、必ず同じことが起きるとは言えません」


 私は、最後の紙を置いた。


「干渉の弱い場所へ移した患者さんにも、すぐの改善はありませんでした」


 言葉にすると、また胸が詰まりそうになった。


 でも、ここは省けない。


 うまくいかなかったことも、判断に必要だ。


「……その場から離れれば、全部元へ戻るわけではないと?」


 レスターさんが尋ねた。


「少なくとも、すぐには戻りませんでした。身体の中へ影響が残っているのか、もう別の変化が始まっているのか。そこは、まだ分かりません」


 私は地図を広げた。


「だから、身体と環境を、別々に見たいんです」


 影に直接触れたか。


 どこを通り、どこで休んだか。


 今いる場所の干渉は、どの程度か。


 それらを、症状の進み方と照らし合わせる。


「……まるで、汚染ですね」


 レスターさんが呟いた。


 私は頷いた。


「はい。今は、その考え方で調べたいです」


 絶望した人が影になる。


 その一言では、エルドさんも、あの男性も説明し切れない。


 怖かった場所から逃げたあとにも、身体には何かが残っている。


 もし、そうなら。


 逃げ切ったという報告だけでは、救護を終えられない。


「観測で反応が出た人は、どう扱いますか」


 竜人兵の代表が尋ねた。


 私は、その人を見た。


「助けるために、経過を見てください」


 少し、声に力が入った。


「この値だけで、影になると決めないでほしいんです。症状のない人にも反応はありました。でも、その人がこれからどうなるかは、まだ分かりません」


「……承知しました」


「急な変化に備えることは必要です。ただ、それと、その人を敵として見ることは分けてください」


 木彫りを握る手が、頭に浮かんだ。


 あの人は、まだ娘に会いたがっている。


 その願いまで、異常の一つにしたくなかった。


 ネスラさんが、引き継ぎ用の用紙を机へ置いた。


「観測のために、避難を止める必要はない。移動先へ記録を渡して、続けよう。僕たちだけで全部を見るのは無理だから」


「お願いします」


 私は頭を下げた。


 次に、避難路の地図を示す。


「道を開いたあと、干渉も測ってください。すべての道を調べ終わるまで待つんじゃなくて、使っている道と、これから休む場所を優先して」


「……敵がいねえことと、休めることは別か」


 アルディスさんが言った。


「はい。分からない場所は、分からないまま伝えてください。討伐済み、という報告で塗り潰さないでほしいんです」


 レスターさんが地図へ手を伸ばした。


「南側は、シルキーと僕で記録を増やします。搬送を止めずに観測できる場所も、用意しましょう」


「ありがとうございます」


「治療班にも、測定の手順を共有してください。君が呼ばれるたび走り回る形では、追いつきません」


「……はい」


 悔しいけれど、そのとおりだった。


 全部、自分で見たい。


 全部、自分で助けたい。


 でも、それで間に合わなくなるなら、渡さなきゃいけない。


 手順も。


 記録も。


 分からないことも。


「私、観測術式を揃えます。使い方も書きます。だから、合わない結果が出たら、それも返してください」


 私は全員を見渡した。


「私の考えが間違っていたら、早く知りたいです。その分、早く考え直せるので」


 アルディスさんが、静かに頷いた。


「分かった」


 包帯の巻かれた手が、地図の端を押さえる。


「道は、俺たちが開く。お前も、行き詰まったら呼べ。一人で全部、抱えるな」


 私は、その手を見た。


 何度斬っても戻る敵へ、届くまで剣を振った手。


「……はい」


 今度は、ちゃんと頷けた。


     ◇


 会議が終わっても、机の上には紙が残っていた。


 私は、その一枚を裏返した。


 万物方程式を書き出す。


 存在密度。


 情報比率場。


 共鳴位相。


 これまで何度も、魔術を成立させるために考えてきた関係。


 でも、今夜、考えたいのは別のことだった。


 人が、人のままでいるためには。


 どこが、どう保たれていなければならない?


「……ミライ。あの人の最初の記録を、もう一度」


『YES、セリス』


 光が浮かぶ。


 私は、異常のある部分へ丸をつけかけた。


 そして、止まる。


 異常なところを消せばいい。


 それでは、足りない。


 消したあとに、この人の腕が残らなければ、意味がない。


「元へ戻すには、何を残せばいいんだろう」


 ミライは、すぐには答えなかった。


 私は、正常に見える右腕の記録を隣へ置いた。


 同じ人でも、左右は同じじゃない。


 別の人の腕とも違う。


 形だけ真似て繋げればいいわけじゃない。


「……難しいなあ」


 思わず漏れた。


 いつもなら、面白いと言っていたと思う。


 今も、知りたい気持ちはある。


 なぜ、こうなるのか。


 どこへ働きかければ、変えられるのか。


 考えることを、やめたくない。


 でも、その先に待っている人がいる。


 解けるまで待っていてくれるとは、限らない人が。


 私は、書きかけの式を消した。


 別の条件で書き直す。


 今度は、途中で矛盾した。


 また、消す。


「……もう一回」


『比較条件を変更します』


 新しい図形が浮かぶ。


 合わない。


 それでも、何が合わないのかは残す。


 あとで誰かが見たとき、同じ場所で足を止めなくて済むように。


 紙の端が、書き込みで黒くなっていった。


     ◇


 救護所へ戻ると、男性は眠っていた。


 枕元には、あの木彫りが置かれている。


 右手で、届く場所に。


 治癒術師さんが、小声で状況を教えてくれた。


 今のところ、急な変化はない。


 よくなったとは、まだ言えない。


 私は頷き、椅子へ座った。


 記録の時刻を確かめ、次の観測を始める。


 腕の黒い筋は、やはり消えていなかった。


 寝台の端へ置いた自分の手を、見つめる。


 もっと早く、気づけていたら。


 もっと前に、回復魔法を調べていたら。


 もっと。


 もっと。


「……今、やろう」


 小さく言った。


 過ぎた時間へ何度手を伸ばしても、目の前の腕には届かない。


 私は新しい紙を開いた。


 次に確かめることを書く。


 治癒術師さんへ聞くこと。


 ネスラさんに頼むこと。


 ミライと組み直す術式。


 一つ書くたび、できていないことが増えていく。


 それでも、空白のままよりはよかった。


 男性が、寝返りを打った。


 私は顔を上げた。


 浅い眠りの中で、その右手が枕元を探っている。


 木彫りを少し寄せると、指が触れた。


 手が、止まった。


 私はしばらく、その小さな竜を見ていた。


 作った子は、きっと待っている。


 帰ってきた父親に、竜だと言い直すために。


 今度こそ、褒めてもらうために。


 喉の奥が、また痛くなった。


 私は袖で目元を拭き、紙へ向き直った。


「ミライ」


『YES、セリス』


「続けよう」


 すぐに治せるとは、言えない。


 間に合うとも、まだ言えない。


 それでも、この人が帰りたいと思っている間に。


 私の方から、終わりにしてたまるものか。


 眠る人を起こさないように。


 私は、もう一度ペンを走らせた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


今回のセリスは、ちょっと泥臭いです。


調べて、考えて、失敗して、悔しくて泣いて。それでも、またペンを取る。


大群を吹き飛ばす魔術を使えても、目の前の一人を救えない。


そんな悔しさを、簡単な奇跡で片づけたくありませんでした。


そして、娘さんが作った小さな木彫りの竜。


あの人が帰りたい理由は、世界を救うような大義ではなく、ただ娘を褒めてあげたいという願いなんですよね。


「続けよう」


まだ答えはありません。


でも、セリスは諦めません。


どうか、彼女の次の一歩も見守っていただけたら嬉しいです。

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