第70話「救えたはずの命。救いたい命。諦めてたまるか!!」
亡き友の姿をした敵との激闘を終え、帰還した剣聖アルディス。
しかし、戦場から戻ってきた人々にも、まだ終わっていない戦いがありました。
強大な魔術で敵を倒すことはできても、それだけでは救えないものがある。
今回は、セリスが自分の力と、もう一度向き合うお話です。
第70話「救われたはずの命」、どうぞ。
竜人国北部、南方中継拠点。
「アルディスさん!?」
天幕へ入ってきた姿を見て、私は椅子を蹴るように立ち上がった。
頬に傷がある。肩の服は裂け、左手に巻かれた包帯には、赤い染みが広がっていた。
「おう、セリス。戻ったぜ」
「戻ったぜ、じゃありませんよ! 座ってください!」
「大したことは――」
「その台詞、治癒術師さんに聞いてもらいますからね!」
近くにいた兵士さんへ声をかけ、椅子を引っ張ってくる。
アルディスさんは少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「分かった。座るから、そんな顔するな」
……どんな顔をしていたんだろう。
聞き返す余裕はなかった。
包帯を解こうとして、指が止まる。
傷に張りついていたら、どうすればいい?
先に洗う? それとも、そのまま治癒術師さんに見てもらう?
魔術で大地を吹き飛ばすことはできる。
なのに、目の前の包帯一つ、ためらわずに外せない。
「……すぐ、来てくれますから」
「ああ。ありがとな」
アルディスさんは、包帯のない方の手で椅子を引き寄せた。
いつもどおりの仕草だった。
それが、少しだけありがたかった。
◇
治癒術師さんが肩の傷へ手をかざす。
淡い光が広がり、裂けた皮膚が少しずつ繋がっていった。
私は、その魔力の流れを目で追った。
傷ついた組織を、どんな順番で戻しているんだろう。
元の形は、何を基準に決めている?
途中で間違ったものを繋げない仕組みは――。
「……気になるか?」
アルディスさんに言われ、顔を上げた。
「はい。すごく」
いつもなら、そのまま質問していたと思う。
でも、今日は繋がっていく傷から、目を離せなかった。
「私にも、それができたらいいのにって」
「お前には、お前のできることがあるだろ」
「……それは、分かってます」
分かっている。
だけど、今この人の傷を治しているのは、私じゃない。
治癒術師さんが、私へ布を差し出した。
「こちらをお願いします。腕を支えていてください」
「あ、はい!」
私は慌てて受け取った。
今できることが、それなら。
せめて、ちゃんとやろう。
治療が進む間に、アルディスさんは北で起きたことを話してくれた。
ドグルさんの姿をした敵。
その声を聞き、帰ってきたと喜んだ人々。
そして、その人たちへ向けられた槍。
「……そんなことまで、するんですか」
アルディスさんは頷いた。
「顔も声も、よくできてた。槍の扱いもな」
短い言葉だった。
それ以上、どう感じたのかは言わなかった。
私は、支えている腕の傷を見た。
あの人の姿をした相手に、この傷を負わされた。
それでもアルディスさんは、避難民を逃がして帰ってきたのだ。
「名前は、アナンケ。《不可避》を担うものだとよ」
「……ミライ。今の話、記録して」
『YES、セリス。アルディス氏の証言として記録します』
首を落としても、身体を斬り離しても戻った。
戦ううちに、こちらの動きを覚えていった。
けれど、最後の一撃でついた傷だけは、塞がらなかったという。
「戻らなかったんですか?」
「ああ。胸は繋がるんだ。だが、その奥が、同じ場所からまた裂けた」
私は顔を上げた。
壊しても戻る身体。
戻そうとしても、戻らなかった傷。
「……再生の速さだけの問題じゃ、ない?」
頭の中で、いくつかの考えが繋がりかける。
身体とは別に、形を保つものがあるのかもしれない。
それが残っているから、何度壊しても元へ戻る。
もし、そこへ届いたのなら。
「アルディスさん。そのときの感触、もう少し聞かせてもらえますか」
「ああ。ただ、うまく説明できるか分からねえぞ」
「分かるところだけでいいです。押し返された感じとか、刃が通ったときの違いとか」
私は記録用紙を引き寄せた。
今すぐ、同じことができるわけじゃない。
それでも。
届かないと思っていたところへ、届いた人がいる。
その事実だけは、書き留めておきたかった。
◇
臨時救護所から呼ばれたのは、その少しあとだった。
「黒い筋が現れた患者さんがいます」
その言葉を聞いた瞬間、エルドさんの手が頭に浮かんだ。
指先の向こうに、地面が見えた。
まだ話していた。
まだ、笑っていた。
「……セリス?」
アルディスさんの声で、息を吸い直す。
「行ってきます」
ミライを掴む。
今度は。
そう考えかけて、唇を噛んだ。
今度こそ助けられるなんて、まだ言えない。
でも、急ぐことはできる。
◇
寝台に横たわっていたのは、若い竜人の男性だった。
左腕の肘から手首へ、細い黒い筋が伸びている。
「いつ、気づきましたか?」
「今朝です。最初は、ここだけだったんですが」
男性が肘の近くを指した。
「痛みは?」
「ないです。ただ、指先が少し冷たくて」
治癒術師さんの診察では、大きな外傷はない。
治癒魔法を使っても、黒い筋には変化がなかった。
私は椅子を寄せ、男性と目を合わせた。
「腕の状態を、魔術で調べさせてもらえますか。痛みや違和感があったら、すぐに教えてください」
「……はい。お願いします」
腕の周囲へ、小さな魔法陣を展開する。
ごく弱い魔力を作用させ、その応答を読む。
万物方程式を使えば、全部が見えるわけじゃない。
観測できるものを拾い、比べて、変化を探す。
今は、それしかできない。
「ミライ。右腕の記録と並べて」
『YES、セリス』
二つの図形が浮かび上がった。
右腕と左腕。
骨や筋肉の違いを確かめながら、応答のずれを追っていく。
「……ここ」
黒い筋のある部分で、反応が乱れていた。
けれど、そこで終わっていない。
見た目には何もない場所まで、似た揺らぎが続いている。
「もう一度。同じ条件で」
『観測を継続します』
結果は、完全には重ならなかった。
それでも、差の出る場所は似ている。
三度目も。
「……見えているところだけじゃ、ないんだ」
胸が、小さく跳ねた。
見つけたかもしれない。
黒い筋が現れるより先に、変わっているものを。
「あの」
男性の声に、顔を上げた。
「何か、分かりましたか?」
私は、開きかけた口を閉じた。
測れた。
でも、それで、この人の腕は治った?
黒い筋は消えた?
「……見た目では分からない変化が、あるかもしれません」
「それは、治せるんでしょうか」
答えが、出なかった。
魔法陣の光が、二人の間に浮かんでいる。
こんなに細かく見えているのに。
「今は、まだ治し方が分かりません」
男性の視線が、腕へ落ちた。
「……そうですか」
私は、ミライを握り直した。
「この記録を残して、変化を追わせてください。治癒術師さんとも相談します」
「はい。お願いします」
男性は、右手で枕元のものを取った。
小さな、木彫りの鳥だった。
羽の大きさが左右で違う。
片方の目だけ、少し高い位置にある。
「娘が作ったんです」
私の視線に気づき、男性が笑った。
「鳥なんですけどね。本人は、竜だって言い張ってまして」
「……あ。じゃあ、この後ろのは、尻尾ですか?」
「そうなんです。折ると怒られますから、気をつけないと」
大事そうに持ち直す。
「妻と娘は、先に南へ行かせました。俺も、追いつくつもりだったんですが」
その指が、木彫りの背を撫でた。
「待たせちゃってるなあ」
私は、腕の黒い筋を見た。
この人は、帰るつもりでいる。
娘に会って、この小さな竜を返すつもりでいる。
エルドさんも、そうだった。
安心していた。
助かったと、思っていた。
それなのに。
「……また、来ます」
私は立ち上がった。
「何か変わったら、すぐに呼んでください。少しのことでも」
男性は頷いた。
「よろしくお願いします」
その声を聞きながら、私は魔法陣を消した。
◇
天幕へ戻り、記録を机に広げる。
紙の端が引っかかり、何枚か床へ落ちた。
「……ああ、もう」
拾おうとした手が、うまく動かなかった。
力を入れすぎていたらしい。
指を開くと、掌にミライを握っていた跡が残っていた。
「セリス」
ネスラさんが、落ちた紙を拾ってくれた。
「……座って。何が分かった?」
「黒い筋の外にも、似た反応がありました」
私は椅子へ座り、観測結果を示した。
「見えている変化より、広いかもしれません」
「……うん」
「それから、あの人、家族に会いたいって。帰るつもりで、ちゃんと……」
そこで、言葉がつかえた。
ネスラさんは、続きを待ってくれた。
「エルドさんも、安心してたんです」
「……聞いてる」
「だったら、今、怖がってるかどうかだけを見ても、駄目ですよね」
私は記録の端を押さえた。
「影を倒しても、干渉は残る。人の身体にも、似た反応がある。今すぐ絶望していなくても、変化は進む」
紙へ線を引く。
環境。
身体。
時間。
「……その場で受けた影響が、あとまで残っていたら?」
ネスラさんの視線が、紙へ落ちた。
「身体の方に?」
「はい。何度も受けたり、長く留まったりして、少しずつ溜まっていたら」
私はエルドさんの記録を重ねた。
「助かったと思ったときには、もう、変化が始まっていたのかもしれません」
口にすると、胸が痛んだ。
あのとき、私は笑った。
全員で帰ろうと、言った。
その前から、何かが進んでいたのなら。
「……どこまで戻れば、間に合ったんでしょうね」
ネスラさんは、すぐには答えなかった。
やがて、隣の椅子を引いた。
「それを、これから調べよう」
私は顔を上げた。
「……今の記録で、確かめられることは?」
慰める声ではなかった。
研究をするときの、いつもの問いだった。
私は、散らばった紙を手元へ集めた。
「同じ道を通った人を、比べたいです」
「症状のある人と、ない人?」
「はい。それから、別の道を通った人。滞在した場所と時間も、分かる範囲で」
「分かった。僕が避難記録を集める」
「あと、繰り返し測りたいです。一度だけじゃ、元からの違いかもしれないから」
「……うん。移動先でも続けられるようにしよう」
ネスラさんが、手分けする項目を書き出す。
その横で、私はペンを握った。
さっきまで、何から書けばいいか分からなかった紙に、一つずつ項目が増えていった。
◇
観測は、思ったようには進まなかった。
通った道を覚えていない人がいた。
途中で引き返した人もいた。
同じ荷車に乗っていても、一人は眠り、一人はずっと護衛に立っていた。
記録にある出発時刻と、本人の覚えている時刻が違う。
私は何度も聞き直しかけ、そのたびに口を閉じた。
この人たちは、研究のためにここへ来たわけじゃない。
逃げてきたんだ。
「分からないところは、そのままで大丈夫です」
そう伝え、空欄を残す。
揃わない条件を、無理に揃ったことにはできない。
ミライが並べた結果にも、綺麗な線は現れなかった。
「……これ、逆じゃない?」
長く同じ場所にいた人の方が、反応が小さい。
短い時間しか通っていない人に、強い揺らぎがある。
『滞在時間のみでは、観測値の差を説明できません』
「分かってる」
少し強い声になった。
私は息を止め、それから吐いた。
「……ごめん。今の、ミライに言っても仕方ないね」
『比較条件を追加しますか?』
「うん。場所ごとの干渉の違いと、途中で影に遭ったかどうか。それから、魔力制御の記録が分かる人は、それも」
ただ、項目を増やせばいいわけじゃない。
それでも、合わない結果を捨ててしまったら、見たいものしか残らなくなる。
私は一度書いた結論に、線を引いた。
――長く留まるほど、変化が大きい。
今は、そこまで言えない。
代わりに、問いを書き直す。
――何を、どれだけ受けたのか。
そのとき、一つの記録で手が止まった。
黒い筋のない兵士さん。
体調に変化はなく、本人もすぐ護衛へ戻れると言っていた。
その腕に、似た応答のずれがある。
「……ミライ。測り直そう」
二度目。
三度目。
場所を変え、魔力の供給を確かめる。
それでも、同じ傾向が残った。
黒い筋は、見えない。
けれど、何も起きていないとは言い切れない。
「……出る前に、見つけられる?」
声にすると、怖くなった。
この兵士さんまで、影になるという意味ではない。
元からの違いかもしれない。
回復する途中なのかもしれない。
だから、決めつけない。
その代わり、見失わない。
「次に測る場所と時間、引き継ぎに入れて。移動は止めなくていいから」
『YES、セリス』
私は、ようやく紙から顔を上げた。
少しだけ、先が見えた気がした。
そのときだった。
「セリス様! 先ほどの患者さんが!」
◇
男性の左手から、木彫りの竜が落ちかけていた。
右手が、慌ててそれを受け止める。
「ああ……すみません。何だか、うまく握れなくて」
黒い筋が、手の甲まで広がっていた。
私は寝台へ駆け寄り、観測術式を展開した。
「ミライ、前回の記録と比較!」
光の図形が浮かぶ。
変わっている。
さっき捉えた、見た目より広い範囲の揺らぎ。
その一部で、黒い筋が現れ始めていた。
予想に、合っていた。
――合っていたところで、何になる。
私は奥歯を噛んだ。
この人の腕は、悪くなっている。
私が紙を並べている間にも。
「……治癒魔法は」
「処置は続けています。ただ、この変化には……」
治癒術師さんが、言葉を切った。
私は頷いた。
責めているわけじゃない。
分かっている。
この人も、できることを続けてくれている。
なら、私は?
術式を変える?
位相を揃える?
異常な応答だけを打ち消せば――。
杖を持ち上げかけて、止まった。
何を打ち消す?
この人を、この人として保っているものまで崩したら?
震えるほど魔力を細かく扱えるくせに、どこへ流せばいいのか分からない。
「……セリスさん」
男性が呼んだ。
「俺、娘に会いたいんです」
「……はい」
「まだ、あいつに……ちゃんと、褒めてやれてなくて」
右手の中に、小さな竜がいた。
「鳥みたいだって、笑っちゃったから」
私は、その木彫りを見つめた。
ふざけた言葉も。
大きな約束も。
何一つ、出てこなかった。
「……ご家族のいる場所を、確認してもらいます」
ようやく言えたのは、それだけだった。
「治療を続けながら、移動できるかも相談します」
「ありがとうございます」
男性が、ほっとしたように笑った。
私は笑い返せなかった。
礼を言われるほどのことを、まだできていない。
それでも、ここで俯いたら、この人は何を見るんだろう。
私は寝台のそばへ座り直した。
「腕、もう少し調べさせてください」
ペンを取る。
今の時刻を書く。
指が動かしにくくなったことを書く。
書いている途中で、文字が歪んだ。
紙を裏返し、もう一度書いた。
◇
寝台を移したのは、拠点内でも比較的、干渉反応の弱い一角だった。
そこなら治る、という根拠はない。
ただ、影を退けたという理由だけで、同じ場所へ留め続けたくなかった。
移動の負担を治癒術師さんに確かめ、護衛を付け、短い距離を運んだ。
私は担架の横を歩きながら、何度も観測値を見た。
下がってほしかった。
ほんの少しでいいから。
これでよかったと、言える変化が欲しかった。
『周囲の干渉反応は低下しています』
「身体の方は?」
『明確な改善は、現時点では確認できません』
私は、表示を見つめた。
「……もう少し、見よう」
しばらくして測り直す。
また、測る。
黒い筋は、消えなかった。
男性は疲れたのか、木彫りを右手に持ったまま眠り始めた。
私は、ようやく寝台から離れた。
衝立の向こうで、足が止まる。
布を握った。
声を出すと、向こうへ聞こえる。
だから、息だけを吐いた。
「……悔しい」
小さく、漏れた。
分かったことは増えている。
記録も、比べ方も、前よりましになっている。
それなのに。
「治せて、ないじゃん……」
敵の大群を吹き飛ばした。
英雄のみんなにも、すごいと笑ってもらった。
でも、あの人の指一本、元どおりに動かしてあげられない。
膝に手をつく。
泣いている時間がもったいないと思ったのに、目を拭く手が止まらなかった。
その横へ、靴音が近づいた。
ネスラさんだった。
「……今の記録、僕が引き継ぐ」
「できます」
「うん。でも、字が読めなくなってる」
差し出された紙を見て、何も言えなくなった。
数字の上へ、何度も同じ線を重ねていた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ネスラさんは紙を受け取り、私の隣へ立った。
「水、飲んで。それから、次に何をするか決めよう」
「……はい」
器を受け取る。
一口飲むと、喉が痛かった。
自分がずっと喉を詰まらせていたことに、そのとき気づいた。
◇
夜の会議には、まだ出せる答えが少なかった。
アルディスさん、ネスラさん、レスターさん、それに竜人兵の代表。
私は、書き直した記録を机へ置いた。
「環境に干渉が残ることは、これまでも観測しています。今日は、その反応と、人の身体に起きている変化を比べました」
似た特徴がある。
見える黒い筋より、応答の乱れが広い場合がある。
症状のない人にも、似た反応が見つかった。
そして、一人の患者では、先に反応が乱れていた範囲へ、黒い筋が広がった。
「ただし、今の記録だけで、必ず同じことが起きるとは言えません」
私は、最後の紙を置いた。
「干渉の弱い場所へ移した患者さんにも、すぐの改善はありませんでした」
言葉にすると、また胸が詰まりそうになった。
でも、ここは省けない。
うまくいかなかったことも、判断に必要だ。
「……その場から離れれば、全部元へ戻るわけではないと?」
レスターさんが尋ねた。
「少なくとも、すぐには戻りませんでした。身体の中へ影響が残っているのか、もう別の変化が始まっているのか。そこは、まだ分かりません」
私は地図を広げた。
「だから、身体と環境を、別々に見たいんです」
影に直接触れたか。
どこを通り、どこで休んだか。
今いる場所の干渉は、どの程度か。
それらを、症状の進み方と照らし合わせる。
「……まるで、汚染ですね」
レスターさんが呟いた。
私は頷いた。
「はい。今は、その考え方で調べたいです」
絶望した人が影になる。
その一言では、エルドさんも、あの男性も説明し切れない。
怖かった場所から逃げたあとにも、身体には何かが残っている。
もし、そうなら。
逃げ切ったという報告だけでは、救護を終えられない。
「観測で反応が出た人は、どう扱いますか」
竜人兵の代表が尋ねた。
私は、その人を見た。
「助けるために、経過を見てください」
少し、声に力が入った。
「この値だけで、影になると決めないでほしいんです。症状のない人にも反応はありました。でも、その人がこれからどうなるかは、まだ分かりません」
「……承知しました」
「急な変化に備えることは必要です。ただ、それと、その人を敵として見ることは分けてください」
木彫りを握る手が、頭に浮かんだ。
あの人は、まだ娘に会いたがっている。
その願いまで、異常の一つにしたくなかった。
ネスラさんが、引き継ぎ用の用紙を机へ置いた。
「観測のために、避難を止める必要はない。移動先へ記録を渡して、続けよう。僕たちだけで全部を見るのは無理だから」
「お願いします」
私は頭を下げた。
次に、避難路の地図を示す。
「道を開いたあと、干渉も測ってください。すべての道を調べ終わるまで待つんじゃなくて、使っている道と、これから休む場所を優先して」
「……敵がいねえことと、休めることは別か」
アルディスさんが言った。
「はい。分からない場所は、分からないまま伝えてください。討伐済み、という報告で塗り潰さないでほしいんです」
レスターさんが地図へ手を伸ばした。
「南側は、シルキーと僕で記録を増やします。搬送を止めずに観測できる場所も、用意しましょう」
「ありがとうございます」
「治療班にも、測定の手順を共有してください。君が呼ばれるたび走り回る形では、追いつきません」
「……はい」
悔しいけれど、そのとおりだった。
全部、自分で見たい。
全部、自分で助けたい。
でも、それで間に合わなくなるなら、渡さなきゃいけない。
手順も。
記録も。
分からないことも。
「私、観測術式を揃えます。使い方も書きます。だから、合わない結果が出たら、それも返してください」
私は全員を見渡した。
「私の考えが間違っていたら、早く知りたいです。その分、早く考え直せるので」
アルディスさんが、静かに頷いた。
「分かった」
包帯の巻かれた手が、地図の端を押さえる。
「道は、俺たちが開く。お前も、行き詰まったら呼べ。一人で全部、抱えるな」
私は、その手を見た。
何度斬っても戻る敵へ、届くまで剣を振った手。
「……はい」
今度は、ちゃんと頷けた。
◇
会議が終わっても、机の上には紙が残っていた。
私は、その一枚を裏返した。
万物方程式を書き出す。
存在密度。
情報比率場。
共鳴位相。
これまで何度も、魔術を成立させるために考えてきた関係。
でも、今夜、考えたいのは別のことだった。
人が、人のままでいるためには。
どこが、どう保たれていなければならない?
「……ミライ。あの人の最初の記録を、もう一度」
『YES、セリス』
光が浮かぶ。
私は、異常のある部分へ丸をつけかけた。
そして、止まる。
異常なところを消せばいい。
それでは、足りない。
消したあとに、この人の腕が残らなければ、意味がない。
「元へ戻すには、何を残せばいいんだろう」
ミライは、すぐには答えなかった。
私は、正常に見える右腕の記録を隣へ置いた。
同じ人でも、左右は同じじゃない。
別の人の腕とも違う。
形だけ真似て繋げればいいわけじゃない。
「……難しいなあ」
思わず漏れた。
いつもなら、面白いと言っていたと思う。
今も、知りたい気持ちはある。
なぜ、こうなるのか。
どこへ働きかければ、変えられるのか。
考えることを、やめたくない。
でも、その先に待っている人がいる。
解けるまで待っていてくれるとは、限らない人が。
私は、書きかけの式を消した。
別の条件で書き直す。
今度は、途中で矛盾した。
また、消す。
「……もう一回」
『比較条件を変更します』
新しい図形が浮かぶ。
合わない。
それでも、何が合わないのかは残す。
あとで誰かが見たとき、同じ場所で足を止めなくて済むように。
紙の端が、書き込みで黒くなっていった。
◇
救護所へ戻ると、男性は眠っていた。
枕元には、あの木彫りが置かれている。
右手で、届く場所に。
治癒術師さんが、小声で状況を教えてくれた。
今のところ、急な変化はない。
よくなったとは、まだ言えない。
私は頷き、椅子へ座った。
記録の時刻を確かめ、次の観測を始める。
腕の黒い筋は、やはり消えていなかった。
寝台の端へ置いた自分の手を、見つめる。
もっと早く、気づけていたら。
もっと前に、回復魔法を調べていたら。
もっと。
もっと。
「……今、やろう」
小さく言った。
過ぎた時間へ何度手を伸ばしても、目の前の腕には届かない。
私は新しい紙を開いた。
次に確かめることを書く。
治癒術師さんへ聞くこと。
ネスラさんに頼むこと。
ミライと組み直す術式。
一つ書くたび、できていないことが増えていく。
それでも、空白のままよりはよかった。
男性が、寝返りを打った。
私は顔を上げた。
浅い眠りの中で、その右手が枕元を探っている。
木彫りを少し寄せると、指が触れた。
手が、止まった。
私はしばらく、その小さな竜を見ていた。
作った子は、きっと待っている。
帰ってきた父親に、竜だと言い直すために。
今度こそ、褒めてもらうために。
喉の奥が、また痛くなった。
私は袖で目元を拭き、紙へ向き直った。
「ミライ」
『YES、セリス』
「続けよう」
すぐに治せるとは、言えない。
間に合うとも、まだ言えない。
それでも、この人が帰りたいと思っている間に。
私の方から、終わりにしてたまるものか。
眠る人を起こさないように。
私は、もう一度ペンを走らせた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回のセリスは、ちょっと泥臭いです。
調べて、考えて、失敗して、悔しくて泣いて。それでも、またペンを取る。
大群を吹き飛ばす魔術を使えても、目の前の一人を救えない。
そんな悔しさを、簡単な奇跡で片づけたくありませんでした。
そして、娘さんが作った小さな木彫りの竜。
あの人が帰りたい理由は、世界を救うような大義ではなく、ただ娘を褒めてあげたいという願いなんですよね。
「続けよう」
まだ答えはありません。
でも、セリスは諦めません。
どうか、彼女の次の一歩も見守っていただけたら嬉しいです。




