第66話「人が、影になる日」
英雄たちの活躍によって、ようやく動き始めた避難の列。
けれど、戦場に残された痕跡は、新たな疑問を投げかけます。
影は、どこから現れたのか。
そして、あの黒い姿の正体は――。
今回は、セリスがこれまでとは違う現実に向き合うお話です。
第66話「人が、影になる日」、どうぞ。
竜人国北部、街道東側の林。
「……こっちにゃ」
ルカは身を低くし、泥に残った足跡を追っていた。
その後ろを、カナメが歩く。
倒れた草の間に、車輪の跡が続いている。折れた枝には、荷車の覆いらしい布が引っ掛かっていた。
「街道から外れて、ここへ入ったんだね」
「追われて逃げ込んだのでござろうか」
「その跡が欲しいんだけど……」
ルカは、踏み荒らされた地面を見渡した。
靴底の跡。
何かを引きずった溝。
その上から、さらに踏み込まれた跡。
幾つも重なっていて、すべてを辿ることはできない。
「追手も同じ道を通ったのかもしれないにゃ。でも、森の奥から来たなら、向こうにも跡があるはずなんだよ」
指した先では、低い枝が茂っていた。
大群が通り抜けたようには見えなかった。
そのとき、ルカの耳が動いた。
「……待って」
カナメも足を止める。
風が葉を揺らす。
その音の合間に、小さな咳が聞こえた。
「人がいる」
ルカは短剣を抜き、木々の間へ滑り込んだ。
◇
「生存者が、見つかったんですか!?」
通信魔道具へ、私は身を乗り出した。
『四人。兵士が一人と、避難してきた人が三人にゃ。怪我をしてる。場所を送るよ』
「すぐ行きます!」
「……セリス、担架も」
ネスラさんは、もう器材箱を閉じていた。
救助した人たちの列は、竜人兵さんたちに守られて南へ進んでいる。
ドーンさんとルシャナさんも、その救護を続けていた。
ネスラさんが近くの兵士さんへ引き継ぎを済ませ、私へ頷く。
「……行こう。道はルカさんに確認してもらう」
「はいっ!」
ミライの地図に、送られてきた位置が浮かんだ。
街道から、それほど遠くない。
あの戦いの間も、そこに人がいたんだ。
私は担架を抱え、林へ駆け出した。
◇
荷車は、木の幹へぶつかるように傾いていた。
片方の車輪が外れ、割れた荷台から衣類や食器がこぼれている。
その陰に、四人が身を寄せていた。
年配の女性。
腕を負傷した男性。
十歳くらいの少年。
そして、右肩を押さえた竜人の兵士さん。
「援軍、ですか」
兵士さんが顔を上げた。
「はい! 街道へ出れば、救護を受けられます。担架も持ってきました!」
その人は、しばらく私を見つめていた。
やがて、張り詰めていた肩がゆっくり下がる。
「……間に合ったんですね」
隣で、少年が袖を引いた。
「エルドさん。もう、行ける?」
「ああ。迎えが来てくれたぞ」
エルドさんが、少年の頭を撫でる。
「お母さんも、きっとお前を探している。まずは、街道へ出よう」
「うん!」
よかった。
まだ、助けられる人がいた。
私は担架を下ろし、膝をついた。
「エルドさんも、肩を見せてください」
「私より、こちらの方を。腕を痛めているんです」
「……そちらは、私が診る」
ネスラさんが負傷した男性へ近づく。
私はエルドさんへ向き直った。
「だから、こっちは私に任せてください!」
留め具を外してもらうと、鎧の下には浅い傷があった。
血は、もう止まっている。
けれど、その周りに。
「……あれ?」
黒い筋が浮かんでいた。
血管のようにも見える。
でも、傷から離れた肘の内側にも、同じものが伸びていた。
「痺れがあるんです。力は入るのですが」
「いつからですか?」
「林へ入って、しばらくしてから……すみません。はっきりとは」
「ミライ、腕の状態を見せて」
『観測を開始します』
青銀色の線が、空中へ浮かぶ。
傷は浅い。
それなのに、黒い筋のある場所だけ、読み取った身体の情報が安定しない。
私は、もう一度角度を変えて確かめた。
……測り間違いじゃない。
「ネスラさん」
「……何かある?」
「傷の深さと、痺れている範囲が合いません」
ネスラさんも表示を覗き込んだ。
それから、通信魔道具を取り出す。
「……救護班へ連絡する。先に運ぼう」
カナメさんの召喚獣が、荷車を支えて道を空けた。
ルカさんは街道へ戻る経路を確かめている。
「担架、通せるにゃ」
「では、こちらの方から運ぶでござる」
救助は進んでいた。
あとは、この人も一緒に連れていけばいい。
「エルドさん。立てそうですか?」
「はい。皆さんが来てくださったので、もう安心です」
エルドさんが、左手を地面についた。
その右腕を、黒い筋が走った。
◇
『観測値が変化しています』
ミライの声と同時に、私は腕へ目を戻した。
さっきより、広い。
「……待ってください」
私はエルドさんを座らせ、右腕へ手をかざした。
まず、傷を塞ぐ。損傷したところへ治癒の魔術を届かせる。
淡い光が皮膚を覆い、傷口が閉じた。
けれど、黒い筋は消えなかった。
「痛みは?」
「肩は、楽になりました。でも……」
エルドさんが指を曲げようとする。
その指先が、遅れて動いた。
ううん。
動きが遅れたんじゃない。
輪郭が、揺れた。
「……ネスラさん!」
ネスラさんがすぐ隣へ膝をつく。
「ミライ。周囲の干渉と比べて!」
『照合します』
私は薄い結界を展開した。
外から何かが入り込んでいるなら、少しでも弱めたい。
結界の表面が、細かく震える。
補正を重ねると揺れは収まった。
でも、腕の変化は止まらなかった。
「……何だ、これ」
エルドさんが自分の手を見ていた。
指先の向こうに、地面が透けている。
「どうして……?」
「今、調べています。腕は動かさないでください」
私の声が、少し高くなった。
「ミライ、結界の前後で変化は?」
『周辺の干渉値は低下。腕の変化速度に、明確な低下は認められません』
外を遮っても、止まらない。
じゃあ、もう身体の中で何かが起きている?
「変わる前の状態と重ねて。どこからずれてるの?」
『比較結果を表示します』
幾つもの線が重なり、次々と離れていく。
傷を治すときのように、元の身体へ戻せばいい。
そう考えたのに、何を基準に戻せばいいのか分からない。
右腕の形も、その内側も、読み取るそばから変わってしまう。
「セリス。何が起きてるにゃ?」
戻ってきたルカさんが、足を止めた。
エルドさんの首筋へ、黒い筋が伸びていた。
「身体の情報が変わっています。でも、変えている術式が見つからなくて……!」
私はミライを握り直した。
「変化を抑える条件は?」
『現時点では確定できません』
そんな。
考えて。
何か、あるはずだ。
魔力を増やせば?
いや、流す先が分からない。
治癒を重ねても、傷はもう閉じている。
この黒いものは、傷じゃない。
「エルドさん!」
少年が駆け寄ろうとした。
ルカさんが、その身体を抱きとめる。
「ここにいて」
「でも、手が! エルドさんの手が!」
エルドさんは少年へ顔を向けた。
その頬も、黒く滲み始めていた。
「……坊主」
私は治癒の光を保ちながら、顔を上げた。
「その人たちと、行くんだぞ」
「エルドさんも来るんでしょ?」
「ああ……」
返事が、途中で途切れた。
エルドさんは自分の手を見た。
指の形が、もう分からなくなっていた。
「……この子を」
私を見る。
「お願いします」
「一緒に行きましょう」
考えるより先に、言葉が出た。
「エルドさんも。一緒に――」
エルドさんが、小さく頷いた。
私に答えてくれたのか。
少年を安心させたかったのか。
その表情が、黒い揺らぎに覆われた。
◇
「……エルドさん?」
治癒の光が、行き場を失った。
人の腕として捉えていたものが、別の輪郭へ変わっていく。
肩が歪み、黒い身体がゆっくり起き上がった。
私は杖を下ろせなかった。
そこに立っていたのは、影だった。
さっき、何度も倒したもの。
街道を埋め尽くしていたもの。
それが、エルドさんのいた場所に立っている。
「……エルドさん」
呼べば、こちらを向いた。
聞こえた?
そう思った瞬間、黒い腕が振り上がった。
「セリス、下がるにゃ!」
ルカさんに肩を引かれた。
目の前を腕が薙ぎ、荷車の板が砕け散る。
少年の悲鳴が響いた。
私は、ようやく杖を動かした。
「《アースウォール》!」
地面から土がせり上がり、私たちと影を隔てる。
すぐに、その向こうで重い音がした。
壁を叩いている。
「……拘束する」
ネスラさんの氷が、壁の下を走った。
脚から腰へ巻きつき、黒い身体を地面へ留める。
影は、それでも腕を振り続けた。
「ミライ……エルドさんは?」
自分でも、何を聞いているのか分からなかった。
「元の状態は、見つかる?」
『変容前の身体構造を検出できません。現在の対象は、既知の影と共通する構造を示しています』
「じゃあ、戻すには?」
『復元に必要な情報と手順を、確定できません』
私は、氷の向こうを見つめた。
名前を呼んでも、返事がない。
少年の声にも、動きを変えない。
さっきまで撫でていた子へ、その腕を伸ばそうとしている。
「……エルドさんは?」
少年が、ルカさんの腕の中から尋ねた。
「どこに行ったの?」
答えられなかった。
目の前で、全部見ていた。
それなのに、何と言えばいいのか分からない。
氷に、亀裂が入った。
「セリス殿」
カナメさんが、私の隣へ立った。
「皆を、街道へ」
「でも……」
口を開いてから、続きが出てこなかった。
まだ試していないことはある。
でも、今、この人を助けられる方法は思いつかない。
もう一度、氷が鳴った。
ネスラさんが杖を握り直す。
拘束を補う光が、地面へ走った。
「……記録は取れてる。セリス、行こう」
私はミライを胸へ引き寄せた。
ルカさんと一緒に、少年を連れて下がる。
足が、ひどく重かった。
背後で召喚陣が開いた。
最後に振り返ると、影はカナメさんへ腕を伸ばしていた。
その前へ、召喚獣が立つ。
私は、少年の視界を遮るように身体を寄せた。
重い音が、一度だけした。
◇
街道へ戻ると、少年の名を呼ぶ声がした。
母親が駆け寄り、膝をついて抱き締める。
少年は、その服を掴んで泣き出した。
私は少し離れた場所で、二人を見ていた。
帰せた。
エルドさんが、帰してやりたいと言っていた子を。
なのに、胸の奥が痛かった。
「……セリス」
ネスラさんが隣へ来た。
「手、冷えてる」
握り締めていた指を、ゆっくり開く。
ミライの柄の跡が、掌についていた。
「私……一緒に帰ろうって、言ったんです」
ネスラさんは黙っていた。
「傷なら、治せると思いました。何かの魔術なら、仕組みを調べれば……」
声が詰まった。
今までだって、何でもできたわけじゃない。
分からないことは、たくさんあった。
でも、調べる時間はあった。
失敗したら、やり直せた。
「何も、間に合わなかった」
ネスラさんが、私の隣へ腰を下ろした。
「……うん」
否定されなかった。
私は俯いたまま、しばらく動けなかった。
遠くでは、ルシャナさんが少年と母親に付き添っている。
ドーンさんは、運び出した二人の治療を始めていた。
エルドさんの分だけ、誰も来ない。
「……ネスラさん」
「何?」
「記録を、見たいです」
顔を上げると、ネスラさんが私を見ていた。
「一緒に見て、もらえますか」
「……もちろん」
◇
ミライが、観測記録を広げた。
最初の右腕。
治癒を使った直後。
結界を張ったあと。
そして、影へ変わるまで。
「まず、確かに見たことからにするのです」
報告を聞いて来たシルキーさんが、隣へ立った。
その声には、いつもの弾むような調子がなかった。
私は頷く。
「エルドさんの身体が、その場で影へ変わりました。外から別の影が入ってきたところは、見ていません」
「……なら、後方に現れた影も」
ネスラさんが地図へ目を向けた。
「全部、前線を抜けてきたとは限らない」
林で見つかった足跡。
砦を通らずに、後方で増えていた影。
私の中で、二つがつながりかけた。
「避難してきた人が、途中で……?」
「その可能性は、調べる必要があるでござる」
カナメさんが答えた。
「ただし、すべての影がそうだと決めるのは早い。まずは、今日ここで起きたことを伝える」
私は頷き、記録へ視線を戻した。
「ミライ。変わり始める前に、異常はあった?」
『観測開始時点で、右腕に異常を記録しています』
つまり、私たちが会う前から始まっていた。
「傷を負ったときからなのかな……」
『観測以前の経過は不明です』
傷を治しても、止まらなかった。
けれど、傷がきっかけだったかどうかまでは分からない。
私は、治癒の前後を並べた。
「皮膚の傷は塞がっています。でも、こっちは変わらず広がってる」
「傷の治療だけでは止まらなかった、ということなのです」
シルキーさんが、別の線を指した。
「この揺れは、見覚えがあるのです」
私も気になっていた。
身体の形が変わる前から、ずっと記録されていた反応。
警備所で、術式を組むときに邪魔をしていたものに似ている。
「ミライ。警備所と、さっきの街道の記録を重ねて」
幾つもの線が並んだ。
完全に同じではない。
でも、揺れ方の一部に共通する特徴があった。
『周辺の干渉と、対象の変容過程に共通する変動を確認しました』
「……やっぱり」
影を倒しても、場所に残る干渉。
その反応が、エルドさんの身体にもあった。
今まで、別々に見ていたものが重なった。
「この干渉が、人を影にするんでしょうか」
言ってから、私は表示を見直した。
でも、順番は?
干渉を受けたから変わったのか。
変わり始めた人から、同じ干渉が出ていたのか。
私たちが観測を始めたときには、両方があった。
「……まだ、そこまでは分からないんですね」
「ええ。関係はありそうなのです。でも、原因と結果を取り違えてはいけないのです」
私は、結界を張った前後を指した。
「周りの干渉は弱められました。でも、身体の変化は止まりませんでした」
「既に身体の中で進んでいたのかもしれないのです」
「もっと早く、外へ連れ出せていたら……」
口にしてから、息が詰まった。
そのときだった。
「そこは、まだ分からない」
ネスラさんが静かに言った。
「間に合った時点があったのか。何をすれば間に合ったのか。これから調べることだよ」
私は、ゆっくり頷いた。
分からないことを、分かったことにしてはいけない。
自分を責めるためでも。
助けられると、信じたいからでも。
「……もう一つ、気になるんです」
エルドさんの声を思い出す。
もう安心です。
この子を、母親のところへ返してやれます。
「あの人、助かったと思っていました。話もできて、笑っていて……それでも、変わってしまった」
「……落ち着いて見えるだけでは、大丈夫とは言えない」
ネスラさんの言葉に、私は頷いた。
怖がっている人だけを診ればいいわけじゃない。
笑えたからといって、身体の異常まで消えたとは限らない。
シルキーさんが、記録用紙を引き寄せた。
「救護班へ伝えるのです。外傷と気分だけで判断せず、身体の異常も継続して確認するように」
「拙者から王都と各部隊へ送る。原因が判明したとは書かぬ。人が影へ変わった事実と、今、注意すべき兆候を先に」
カナメさんが通信担当を呼んだ。
話は進んでいる。
今度、同じことが起きたときのために。
でも、私の目は、最初の観測記録へ戻ってしまった。
まだ、エルドさんが話していた頃の記録へ。
◇
「……私たちが倒した影も」
言いかけて、口を閉じた。
街道を埋め尽くしていた黒い群れ。
《超・ライトニングインパクト》で消し飛ばした、その中にも。
誰かを帰してやりたいと思っていた人が、いたのだろうか。
ミライを握る手が震えた。
「セリス殿」
カナメさんが、こちらを向いた。
「今日、街道を守ったことを悔やんではならぬ。あそこで止めなければ、あの人々は逃げられなかった」
「……はい」
分かっている。
目の前の人を守るために、戦った。
それは、間違いじゃない。
それでも。
「知りたかったです。もっと、早く」
カナメさんは、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「拙者もでござる」
私は顔を上げた。
あの影を、最後に止めた人。
少年と私を、先に下がらせてくれた人。
カナメさんも、街道を行く人々を見ていた。
「だから、次へ伝える」
私は息を吸い、ミライへ向き直った。
「影を倒した場所だけじゃなくて、これから人が通る道も調べよう」
『観測地点を指定してください』
「まずは、次の休憩場所。その次は、救護を受ける場所」
シルキーさんが頷いた。
「持ち運べる観測器材も使うのです。あなた一人では、全部を見られないのですから」
「……はい」
ネスラさんが、私の手元へ水を置いた。
「飲んで。それから、記録をまとめよう」
私は器を受け取った。
少し離れた場所で、少年が母親へ何かを話している。
途切れ途切れの声の中に、エルドさんの名前が聞こえた。
私は、記録の先頭へその名前を書いた。
異常な反応。
観測した対象。
影へ変わった一例。
それだけで、終わらせたくなかった。
この人は、少年を守っていた。
自分の傷より、ほかの人の治療を頼んだ。
最後まで、誰かを帰そうとしていた。
「……ミライ」
『YES、セリス』
「最初から、もう一度」
青銀色の光が、私の前へ広がった。
◇
竜人国北部、さらに北の森。
木々の間を、黒い影が進んでいた。
その一部が、南へ続く道の手前で止まる。
後ろから来た影も、同じ場所で足を止めた。
やがて群れは二つに分かれた。
一方は、街道へ。
もう一方は、木々の間へ。
その奥に、動かないものがあった。
顔も、視線も定かではない。
ただ、南の空で一度だけ弾けた青銀色の光へ、向きを定めていた。
森は、静かだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
前回の英雄たちの大活躍から一転、今回は少し重たいお話になりました。
エルドは、最後まで少年を守ろうとした兵士でした。
だからこそ、セリスには彼を単なる「観測対象」として終わらせてほしくなかったのです。
そして、ネスラの「そこは、まだ分からない」、カナメの「だから、次へ伝える」。
分からないことを、分からないまま受け止め、それでも次の誰かを守るために進む。
これもまた、一つの強さなのだと思います。
さて、北の森に残る謎も気になるところ。
次回もお付き合いいただけたら嬉しいです!




