外伝:六英雄列伝・第一曲「剣聖の旅立ち」 ――九十九倍の少年
今宵、ルシャナが奏でるのは、一人の少年の物語。
今ではレベル852を誇る剣聖アルディスにも、まだ何者でもなかった時代がありました。
レベル1。勝利倍率、九十九倍。
誰もが負けると思ったその試合に、少年は何を懸けて挑んだのか。
外伝『六英雄列伝』第一曲。
どうぞ、竪琴の音色とともにお楽しみください。
酒場の片隅で、竪琴が鳴った。
賑やかだった店内に、澄んだ音色が流れ始める。
金色の長い髪を揺らし、白と若草色の衣装をまとったエルフが、客たちに微笑みかけた。
「皆さん、今宵は少し昔のお話をいたしましょうか♪」
六英雄の一人、ルシャナ。
かつて世界を救った英雄であり、今も各地を旅しながら歌を届ける吟遊詩人だった。
「あるところにね、誰よりも強くなりたいと願った少年がいたの」
「来た!アルディス様のお話だ!!」
客の一人が笑った。
「うふふ♪ そうねえ。でも、その子の最初の勝利を信じた人は、たった二人しかいなかったのよ?」
「二人?」
「ええ。それも、とびきりの物好きが二人♪」
ルシャナが弦を弾く。
傍らに浮かぶ水の精霊が、音色に合わせて小さく舞った。
柔らかな旋律が、酒場を包み込んでいく。
幼き瞳に 映りし刃
絶望を裂いた 銀の光
名も知らぬ剣士の背中
少年の胸に 炎を灯す
いつか追いつく あの人に
いつか届かん その剣に
誰より強く なりたいと
小さな両手に 誓いを宿す
◇
アルディスがその剣士に出会ったのは、まだ幼い頃だった。
目の前に、フォレストウルフが迫っていた。
逃げることもできず、ただ立ち尽くしていた少年の前に、一人の男が現れた。
剣が閃いた。
たった、それだけだった。
少年を脅かしていたものが倒れ、男は何事もなかったように剣を収めた。
アルディスは、その背中を見つめていた。
強い。
あんなに強い人が、この世界にはいるのか。
男は振り返らなかった。
そのまま歩き去っていく。
アルディスは、しばらく動けなかった。
怖かったからではない。
目が離せなかったのだ。
いつか、あんなふうになりたい。
いつか、あの人に追いつきたい。
後になって、その男が《剣鬼》と呼ばれる剣闘士だと知った。
S級冒険者でもある、凄腕の剣士。
アルディスにとって、その名は憧れそのものだった。
だから、十五歳になったとき。
少年は、コロシアムの門を叩いた。
◇
竪琴の音色が変わった。
穏やかだった旋律に、軽快なリズムが加わる。
時は流れて 十五の春
夢を抱いて 門を叩く
革の鎧に 短き剣
名はアルディス 夢追う剣士
鋼の鎧に 歴戦の斧
十字を刻む 闘士が立つ
十五の力に 一の勇気
誰もが少年を 笑い飛ばす
九十九の嘲り 一つの願い
勝利を信じる 者もなく
されど少年 剣を抜き
ただ静かに 敵を見据える
◇
「……おい、冗談だろ?」
観客席から、呆れた声が上がった。
闘技場に姿を現したのは、一人の少年だった。
年齢は十五歳。
レベル1。
装備はレザーアーマーにショートソード。
駆け出しの冒険者ですら、もう少しましな装備を整えるだろう。
「おいおい、ガキじゃねえか!」
「レベル1!? 死にに来たのかよ!」
「相手を見てから出直してこい!」
観客たちが笑っていた。
対戦相手は《十文字斬りのボブ》。
テイムされたホブゴブリンの剣闘士で、レベル15。
ハーフプレートに革の小手、ショートブーツ。手には使い込まれたハンドアックス。
動きやすさを損なわず、要所を守る装備だった。
幾度となく闘技場に立ち、勝利を重ねてきた歴戦の戦士。
そんな相手に、レベル1の少年が挑む。
勝負になるはずがなかった。
「倍率見たか?」
「ボブが1.2倍。ガキが……九十九倍!?」
「ははっ! 賭けになってねえ!」
場内の掲示板には、信じられない数字が並んでいた。
ボブ、1.2倍。
アルディス、99倍。
アルディスは、その数字を一度だけ見た。
「……へえ」
それだけだった。
剣を抜く。
目の前のホブゴブリンを見た。
大きい。
腕も太い。
自分よりずっと重い斧を、片手で軽々と扱っている。
まともに受ければ、剣ごと腕を持っていかれるだろう。
だから、受けない。
アルディスは足の位置を少し変えた。
ボブが斧を構える。
その肩が、わずかに下がった。
――来る。
開始の鐘が鳴った。
◇
酒場で、ルシャナの指が鋭く弦を弾いた。
水の精霊がくるりと舞い、青い光が天井へ弾ける。
鐘が鳴る 斧が走る
大地を薙いだ 必殺の刃
されど少年 空へと舞い
落ちる刃が 血を散らす
◇
最初に動いたのは、アルディスだった。
前へ踏み込む。
ボブが笑った。
「グルルッ!」
斧が低く走る。
足払い。
前へ出た相手の足を刈り、そのまま叩き潰す。ボブが幾度となく使ってきた、得意の初手だった。
だが、アルディスは跳んでいた。
「なっ!?」
観客席から声が上がる。
斧が空を切った。
ボブの身体が前へ流れる。
踏み込みの勢いを止められない。
アルディスは、その隙を逃さなかった。
「はあっ!」
着地と同時に剣を振る。
ショートソードが、ハーフプレートの隙間を捉えた。
血が散る。
「グガアッ!」
ボブがよろめいた。
アルディスは追撃しない。
一歩退き、剣を構え直す。
観客席が静まり返っていた。
「……おい」
「今、何が起きた?」
「ボブが……斬られた?」
ボブは傷口を押さえた。
浅くはない。
だが、戦えないほどではなかった。
むしろ、怒りが勝っていた。
「グオオオオッ!!」
斧を高く掲げる。
観客の一人が叫んだ。
「出るぞ! 十文字斬りだ!!」
◇
ルシャナの竪琴が、激しく鳴った。
十字の刃が 嵐を呼べば
少年はすでに その先に立つ
剣を読ませて 足を奪い
刃を待つ者に 眠りを贈る
◇
ボブの必殺技。
《十文字斬り》。
横薙ぎと縦斬りを組み合わせた、強烈な連撃。
一撃目をかわしても、二撃目が逃げ道を塞ぐ。
それが、この技の恐ろしさだった。
斧が振り下ろされる。
いや。
振り下ろすように見せて、横へ走った。
アルディスは身体を引いた。
刃が胸元を通り過ぎる。
続く縦斬り。
だが、少年はすでに動いていた。
横薙ぎの勢いを利用して身体をひねるボブ。
その軸足。
肩の向き。
斧が戻ってくるまでの、わずかな時間。
すべてが見えていた。
「……そこだ!」
アルディスが踏み込む。
二撃目の軌道から身体を外し、剣を突き出した。
刃がボブの脇腹を裂く。
「グアアアッ!!」
巨体が後ずさった。
観客席から、どよめきが広がる。
「嘘だろ……」
「十文字斬りを、かわした?」
「いや、違う!」
誰かが叫んだ。
「かわしただけじゃねえ! 反撃まで入れやがった!!」
アルディスは息を整えた。
目の前のボブは、まだ倒れない。
レベル15。
体力も、筋力も、耐久力も、自分とは比較にならない。
それでも。
攻撃する前には、必ず動きがある。
肩が動く。
足が動く。
視線が動く。
その一つひとつが、次の一手を教えてくれる。
アルディスは剣を握り直した。
「……次だ」
ボブは、もう笑っていなかった。
目の前の少年を、明らかに警戒していた。
二度も斬られた。
しかも、どちらも自分の攻撃を読まれている。
ならば。
次は、反撃を狙う。
アルディスが剣を構えた。
ボブが腰を落とす。
斧を身体の近くに引きつけ、相手の踏み込みを待つ。
少年が必殺の一撃を放てば、その隙に斧を叩き込む。
そういう構えだった。
アルディスは、じっと見ていた。
ボブの足。
斧の位置。
身体の重心。
「……なるほど」
小さく呟く。
そして、踏み込んだ。
ボブの目が光る。
来た。
斧を振り上げようとした、その瞬間。
アルディスは剣を振らなかった。
低く身を沈め、足を払った。
「グオッ!?」
ボブの巨体が傾く。
完全に予想外の一手だった。
だが、歴戦の戦士はただでは転ばない。
地面を転がりながら斧を構える。
追撃が来る。
今度こそ、必殺の一撃を迎え撃つ。
そう判断した。
しかし。
アルディスは、追ってこなかった。
◇
酒場で、ルシャナの歌声が高く響いた。
斬ると見せかけ 地を払え!
追うと見せかけ 夢を呼べ!
◇
「――《睡眠》」
短い詠唱。
魔法が発動した。
ボブが立ち上がる。
斧を振ろうとする。
だが、腕が上がらない。
「……グ?」
視界が揺れた。
膝が折れる。
巨体が、ゆっくりと地面に沈んだ。
アルディスは歩み寄った。
眠りに落ちたボブの喉元へ、剣先を向ける。
動かない。
もう、反撃は来ない。
アルディスは審判を見た。
「……これで、いいか?」
審判は、しばらく動かなかった。
少年と、眠り込んだホブゴブリンを交互に見ている。
そして。
「しょ……勝者!」
声が裏返った。
「勝者、アルディス!!」
歓声が爆発した。
◇
ルシャナの竪琴が、力強く鳴り響く。
九十九の絶望を 覆して!
十五の戦士を 一の剣が討つ!
響け歓声 轟けその名!
勝者アルディス 剣の申し子!
歌え! 剣聖の名を!
讃えよ! 不敗の剣を!
百の戦い 千の剣戟
されどその始まりは たった一の剣!
酒場の客たちが、次々と立ち上がった。
「うおおおおおっ!!」
「剣聖アルディス!!」
杯が掲げられる。
過去の闘技場で響いた歓声が、今、酒場に蘇っていた。
ルシャナは、嬉しそうに微笑んだ。
けれど、歌はまだ終わらない。
竪琴の音が、静かになった。
◇
アルディスは剣を収めた。
初めての勝利だった。
観客たちは、まだ自分の名を叫んでいる。
だが、少年は振り返らなかった。
自分の剣を見る。
まだ、足りない。
もっと速く。
もっと正確に。
もっと強く。
思い出すのは、幼い日に見た一振りの剣だった。
あの男は、たった一撃で自分を救った。
あの強さに、いつか追いつきたい。
「……まだまだだな」
アルディスは小さく笑った。
そして、歓声に背を向けた。
誰もが少年を見ていた。
だが、少年が見つめていたのは、ここにはいない一人の剣士だった。
◇
観客席の一角。
「……あらあら」
金髪のエルフが楽しそうに笑っていた。
「本当に勝っちゃったわねえ♪」
ルシャナは手元の賭け札を眺めた。
九十九倍。
信じられない数字だった。
「うふふ♪ どうしましょう。こんなに儲かっちゃった」
隣に座っていたカナメが、腕を組んで頷いた。
「見事でござったな」
「あら、カナメちゃん。ずいぶん落ち着いてるのね?」
「拙者とて驚いているでござるよ」
「そうなの?」
「無論。まさか、あそこまで鮮やかに勝つとは」
ルシャナがくすっと笑う。
「でも、カナメちゃんもあの子に賭けたじゃない?」
「うむ」
「どうして?」
カナメは、少年が消えていった通路を見つめた。
少し考えてから、答える。
「……いい目でござった」
「目?」
「うむ。あれは、ただ勝ちたい者の目ではござらん」
ルシャナは首を傾げた。
「じゃあ、どんな目だったのかしら?」
「……何かを追いかけている目でござる」
ルシャナは、少しだけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「まあ……素敵ねえ」
「ルシャナ殿は、なぜ賭けたのでござる?」
「私?」
ルシャナは賭け札をひらひらと振った。
「だって、面白そうだったんですもの♪」
「……それだけでござるか?」
「ええ♪」
カナメは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……ルシャナ殿らしいでござるな」
「うふふ♪」
二人は、もう一度闘技場を見た。
そこには、もう少年の姿はなかった。
「あの子、また勝つかしら?」
「さて。それは分からぬでござる」
「でも、楽しみね」
「……左様でござるな」
◇
酒場に、最後の旋律が流れ始めた。
千の剣を 越えたとて
万の誉れを 受けたとて
少年の瞳に 映るのは
あの日の剣士の その背中
世界が剣聖と 呼ぼうとも
彼の旅路は まだ終わらない
いつか出会わん 憧れに
いつか届かん あの剣に
ああ 少年よ 剣を取れ
ああ 剣聖よ 道を行け
その旅立ちを 知る者は
わずか二人の 物好きだけ
一人は 夢見る少年を見て
一人は その瞳を信じた
そして今宵も 歌い継ぐ
あの日の少年の 物語
その名は――アルディス。
剣聖アルディス。
不敗の剣の、始まりを。
最後の一音が、静かに消えた。
酒場は、しばらく静まり返っていた。
やがて、誰かがぽつりと言った。
「……なあ、ルシャナさん」
「はい?」
「その、もう一人の物好きってのは?」
ルシャナは、くすっと笑った。
「うふふ♪ とっても目のいいお侍さんよ」
「侍?」
「ええ。あの子を見て、こう言ったの」
ルシャナは懐かしそうに目を細めた。
「……いい目でござった、ってね♪」
酒場に笑い声が広がった。
ルシャナは竪琴を抱き、そっと微笑んだ。
あの日、九十九倍の少年に賭けた二人。
その一人は、今もこうして、少年の物語を歌っている。
そしてもう一人もまた、少年とともに、世界の命運を懸けて戦った。
ルシャナは、もう一度だけ弦を弾いた。
「さあ、皆さん♪」
にっこりと笑う。
「今宵は、剣聖の旅立ちに乾杯しましょう!」
「「「かんぱああああい!!!」」」
杯が鳴った。
酒場に、再び歌声が響き始めた。
誰もが剣聖の名を讃えていた。
けれど、その剣聖が今もなお、一人の剣士の背中を追い続けていることを知る者は、ほんのわずかだった。
その剣士の名は、《剣鬼》。
かつて少年を救った、S級冒険者。
アルディスは、まだその人に再会していない。
そして、いつか出会える日を、今も願っている。
剣聖の旅は、まだ終わらない。
九十九倍の少年、アルディス。
その最初の勝利を信じたのは、ルシャナとカナメの二人でした。
一人は「面白そうだったから♪」
もう一人は「いい目でござった」。
……理由はずいぶん違いますが(笑)。
ちなみに、現在のアルディスはレベル852。
でも、彼が追いかけ続けている《剣鬼》には、まだ再会できていません。
世界に剣聖と呼ばれるようになっても、少年の日の憧れは変わらない。
そんなアルディスの原点をお届けしました。
次回からは、再びセリスたちの冒険へ!
さて、あの子はルシャナさんの歌を聴いて、どんな反応をするのでしょうか?(笑)




