第30話「助けたい人が、こんなにいるんです!」
王立魔法研究院の廊下を、何人もの魔法師が駆け抜けていく。
普段は静かな研究院が、まるで別の建物になってしまったみたいだった。
「第三中隊、飛行装備を優先! 予備魔石も全部持っていけ!」
「治癒術師の招集は!?」
「第二騎士団の救護班と合流予定です!」
飛び交う声を聞きながら、私はネスラさんの後ろを小走りで追いかけていた。
「……セリス」
「はい!」
「……今から行く場所は、研究室じゃない」
「……はい」
「……魔物が一万体。災厄級も複数いる。何が起きるか分からない」
ネスラさんは歩く速度を落とさなかった。
「……それでも、行く?」
「行きます」
自分でも驚くくらい、すぐに答えが出た。
アルディスさんが、一人で戦っている。
五時間も。
あの人がどれだけ強いか、私は知っている。剣を振るう速さも、相手の動きを見抜く目も、魔法の使い方も。
でも、五時間。一万体。
……そんなの、強いとか弱いとかいう話じゃない。
「……分かった」
ネスラさんは短く頷いた。
「……じゃあ、僕の指示には従って」
「はい!」
「……勝手に飛び出さない」
「はい!」
「……一人で全部やろうとしない」
「……はい!」
最後の返事だけ、少し遅れた。
ネスラさんが、ちらりとこちらを見る。
「……今、迷った」
「ま、迷ってませんよ!?」
「……そう」
……うう。
こんなときなのに、ちょっとだけいつものネスラさんだった。
そのことが、不思議と嬉しかった。
◇
研究院の裏手にある広い演習場には、見たことのない魔道具が並んでいた。
長さ四メートルほどの、細長い船のような形。底面には青白く光る魔法陣が刻まれ、左右には翼のような安定板が伸びている。
車輪はない。
代わりに、地面からわずかに浮いていた。
「……わあ」
思わず声が出る。
「飛ぶんですか、これ!?」
「……飛ぶ」
「空を!?」
「……空を」
「すごい……!」
こんな状況なのに、胸が高鳴ってしまった。
飛行魔道具!
重力制御? 浮力生成? それとも、魔力による反発場!?
底面の術式を、もっと近くで見たい。
……いや。
今は、それどころじゃない。
私は慌てて首を振った。
「……セリス」
「は、はい!」
「……あとで見せる」
「……本当ですか!?」
「……帰ってきたら」
その言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。
帰ってきたら。
……うん。
そうだよね。
「約束ですよ!」
「……うん」
ネスラさんは飛行魔道具の先頭に立った。
そこへ、魔法師団の制服を着た男性が駆け寄ってくる。
「師団長! 先行部隊、出撃準備完了しました!」
「……編成は?」
「高速飛行艇八隻。戦闘魔法師四十八名、治癒術師八名、操縦要員十六名! 予備魔石も搭載済みです!」
「……地上部隊は?」
「第一騎士団がすでに出発。近衛騎士団は避難路の確保に向かっています!」
「……分かった。各艇、二時間以上の飛行になる。魔石残量を常時監視。帰投分は絶対に使わないで」
「はっ!」
「……現地では、災厄級の討伐より住民の保護を優先。勝手に追撃しない」
「承知しました!」
次々と指示が飛ぶ。
ネスラさんの声は、いつもと同じように静かだった。でも、誰も聞き返さない。誰も迷わない。
……そうか。
ネスラさんは、本当に王国魔法師団長なんだ。
研究室で一緒に氷の魔法を調べていたときとは、少し違って見えた。
「……セリス。こっち」
「はい!」
私はエルとレイを肩に乗せ、飛行艇へ乗り込んだ。
「ぷいっ!」
「ぷるん」
エルは少し興奮しているみたいだった。レイは、いつもより静かに私の肩にくっついている。
……二人とも。
一緒に帰ろうね。
「全艇、浮上!」
魔法師の声が響く。
足元の術式が青く輝いた。
ふわり。
身体が持ち上がる感覚。
次の瞬間、飛行艇は空へと舞い上がった。
◇
王都アストリアが、どんどん小さくなっていく。
城壁。大通り。王宮の尖塔。
私たちが泊まっている『青い月の宿』も、どこかにあるはずだった。
普段なら、きっと夢中になって眺めていたと思う。でも今は、視線が北西の空から離れなかった。
「……ネスラさん」
「……何?」
「アルディスさんのいる場所まで、どれくらいですか?」
「……最短で二時間ちょっと」
「……そんなに」
「……地上なら、五時間以上。森の奥だから、もっとかかるかもしれない」
私は、唇を噛んだ。
今、アルディスさんは五時間戦っている。
私たちが着く頃には、七時間以上。
……七時間。
魔法の実験なら、途中で休憩を取る。食事だってする。失敗したら、手を止めて考え直すこともできる。
でも、戦場では。
「……休めないんですよね」
「……うん」
「……ずっと?」
「……たぶん」
ネスラさんは、前方を見つめたまま答えた。
「……アルディスは、そういう人だから」
私は頷いた。
……知ってる。
きっと、今も剣を振っている。
誰かを守るために。
私は、飛行艇の縁をぎゅっと握った。
◇
二時間と少し。
森の向こうに、煙が見えた。
最初は、雲かと思った。でも、違った。
黒い煙。
それも、一か所じゃない。
「……あれ」
私が指さすと、ネスラさんが立ち上がった。
「……見えてきた」
森の端に、小さな集落があった。その周囲を、黒い点が動いている。
……魔物だ。
狼型。猪型。それから、巨大な蜘蛛。
集落の外れでは、何人もの人が街道へ向かって走っていた。後ろから魔物が迫っている。
「……ネスラさん!」
「……見えてる」
ネスラさんは、腰の通信具を手に取った。
「第一、第二艇は集落の東側へ。第三、第四艇は街道の避難路を確保。第五、第六艇は南側の魔物を足止め。第七、第八艇は救護と上空警戒」
『了解!』
「……災厄級を確認したら単独交戦は禁止。二艇以上で対応して」
『了解!』
飛行艇が、次々と進路を変えた。
ネスラさんは、私を見る。
「……セリス」
「はい!」
「……僕たちは、集落の中央に降りる」
「分かりました!」
飛行艇が急降下する。
風が頬を打った。
眼下で、魔狼が一人の男性に飛びかかろうとしていた。
「……っ!」
私は思わず手を伸ばした。
魔力を収束。
空間に干渉。
魔狼の進行方向へ、圧縮した風を叩き込む。
どんっ!
魔狼が横へ吹き飛び、地面を転がった。
「……セリス!」
「す、すみません! でも、あの人が!」
「……うん。助かった」
ネスラさんは短く頷いた。
「……次は、僕に知らせて」
「はい!」
飛行艇が地面へ降り立った。
◇
「王国魔法師団です! 避難してください!」
魔法師たちが、次々と飛行艇から飛び降りる。
「怪我人はこちらへ!」
「子どもと老人を先に!」
「西側の道は使うな! 魔物がいる!」
叫び声が飛び交う。
ネスラさんは、地面に手をついた。
「《フリーズバインド》」
青白い魔法陣が広がった。
集落へ向かっていた魔物たちの足元が、一斉に凍りつく。
十体。二十体。さらに、その奥まで。
氷が地面を這い、魔物たちの動きを封じていく。
「……今。避難させて」
「はっ!」
魔法師たちが走り出した。
私は、集落の中央へ向かった。
道端には、倒れた荷車。割れた樽。散らばった野菜。
その向こうで、女の子が泣いていた。
「おかあさん! おかあさん!」
「どうしたの!?」
私は駆け寄った。
七歳くらいだろうか。
女の子は、崩れかけた家を指さした。
「おかあさんが! 中にいるの!」
私は家を見た。
屋根の半分が落ちている。太い梁が折れ、壁も傾いていた。
「……分かった。待ってて!」
私は魔力を広げた。
瓦礫の位置。重量。支えになっている梁。崩落の危険がある部分。
頭の中で、一つずつ整理する。
……大丈夫。
持ち上げられる。
私は両手をかざした。
瓦礫が、ゆっくりと浮き上がる。
折れた梁を支え、屋根の残骸を脇へ移動させる。
埃が舞った。
その奥に、人影が見えた。
「……いた!」
私は駆け寄った。
女性が、倒れていた。
年齢は三十歳くらい。胸から下を、大きな梁に挟まれている。
「大丈夫ですか!?」
女性が、うっすらと目を開けた。
「……あの、子……」
「外にいます! 無事です!」
「……よかっ、た……」
私は、梁を見た。
重い。でも、持ち上げられる。
……問題は、その下。
女性の身体が、ひどく傷ついている。
私は慎重に梁を浮かせた。周囲の瓦礫も支えながら、女性を引き出す。
「誰か! 治癒術師さんを!」
声が震えた。
近くにいた魔法師が駆け寄ってくる。
「どうしました!」
「この人を! 早く!」
治癒術師が女性の傍らに膝をついた。
両手から、柔らかな光が溢れる。
「……っ」
その表情が変わった。
「……内臓の損傷が……」
「治せませんか!?」
「……やってみます!」
光が強くなる。
女性の呼吸が、少しだけ落ち着いた。
私は、その手を握った。
「大丈夫です! もうすぐ……!」
言いかけて、止まった。
女性が、私を見ていた。
そして、小さく笑った。
「……あの子……を……」
「……はい」
「……お願い……」
指先から、力が抜けた。
「……え?」
私は、その手を握り直した。
「……あの?」
返事がない。
「……ねえ」
治癒術師が、女性の胸に手を当てた。
しばらくして、静かに首を横に振った。
「……申し訳、ありません」
私は、女性の顔を見つめた。
さっきまで、話していた。
娘さんの無事を聞いて、笑っていた。
なのに。
「……そんな」
手が、冷たくなっていく。
私は、握ったまま動けなかった。
◇
「おかあさん?」
背後から、声がした。
振り返ると、あの女の子が立っていた。
「……おかあさん、ねてるの?」
私は、何も言えなかった。
女の子が、母親のそばへ歩いてくる。
「おかあさん?」
肩に触れる。
「……おきて」
返事はない。
「ねえ、おかあさん」
小さな手が、母親の頬に触れた。
「……おきてよ」
私は、唇を噛んだ。
……どうして。
もっと早く来られたら。
あと少しだけ、早かったら。
……いや。
今、それを考えても、この人は戻ってこない。
そんなこと、分かってる。
でも。
悔しい。
……悔しいよ。
私は、女の子の肩にそっと手を置いた。
「……ごめん、なさい」
声が、うまく出なかった。
「……おかあさん、助けられなくて……」
女の子は、何も言わなかった。ただ、母親の服を握り締めていた。
私は、その隣に座った。
何を言えばいいのか、分からなかった。
大丈夫なんて、言えない。きっと、よくなるとも言えない。
ただ、そこにいた。
やがて、治癒術師が静かに声をかけてきた。
「……この子は、私たちが預かります」
「……お願いします」
私は立ち上がった。
足が、少し震えた。
女の子は、まだ母親の服を握っていた。
……ごめんね。
心の中で、もう一度呟いた。
そのとき。
「南側! 魔物が突破したぞ!」
遠くから、叫び声が響いた。
私は顔を上げた。
集落の向こう。人々が、走っている。その後ろから、魔物が迫っていた。
……まだ、いる。
助けを待っている人が。
私は、頬を拭った。
「……ネスラさん!」
駆け寄ってきたネスラさんが、こちらを見る。
「……セリス」
「南側、行きます!」
「……うん。僕も行く」
私は頷いた。
そして、走り出した。
◇
集落の南側では、魔狼の群れが避難路へ迫っていた。
魔法師たちが防御魔法を展開している。
半透明の結界が、魔狼の突進を受け止めた。
どんっ!
結界が揺れる。
もう一度。
さらに、もう一度。
「くっ……!」
結界を維持している魔法師が、膝をついた。
「魔力が……!」
私は、結界を見た。
直径三十メートルほどの、半球状の防御魔法。
内側には、逃げ遅れた人々がいる。
でも、結界の半分以上は、誰もいない場所を覆っていた。
魔狼が攻撃しているのは、南側の一部分だけ。
なのに、結界全体へ均等に魔力が流れている。
……あれ?
私は、思わず足を止めた。
術式が見える。
魔力の流れが見える。
結界の構造が、頭の中に浮かび上がる。
防御範囲。魔力配分。維持負荷。
……なるほど。
そういう仕組みなんだ。
「セリス!」
ネスラさんの声。
私は顔を上げた。
「……はい!」
「……今は、考えるより先に守って!」
「はい!」
私は両手をかざした。
結界の外側に、新たな防御層を形成する。
魔狼の突進が、青白い光に弾かれた。
続けて、周囲の魔力を収束。
地面から氷の柱を立ち上げ、魔物たちの進路を塞ぐ。
「今です! 逃げてください!」
人々が、次々と避難路へ走り出した。
魔法師たちも、結界を解除して後退する。
私は最後の一人が通り抜けるまで、防御層を維持した。
「……よし!」
全員、通れた。
私は、ようやく息を吐いた。
……でも。
さっきの結界。
あれ、もっと効率よくできるんじゃないかな。
全体を同じ強さで守る必要はない。
攻撃される場所だけ、強くすればいい。
人がいる場所を優先して、守る範囲を変えられたら。
……あ。
私は、目を見開いた。
魔力の流れを検知する術式。
出力を調整する術式。
防御を展開する術式。
……それぞれは、もうある。
だったら。
……組み合わせれば?
「……セリス?」
ネスラさんが、こちらを見た。
「……何か、思いついた?」
「……はい」
私は、遠くの森を見た。
黒い煙が、まだ上がっている。
アルディスさんは、あの向こうにいる。
今も、きっと戦っている。
そして、この集落だけじゃない。
街道にも。ほかの村にも。
まだ、助けを待っている人がいる。
「……ネスラさん」
「……うん」
「結界って、守る場所を変えられますよね?」
「……術者が操作すれば」
「じゃあ、それを……」
私は、さっき見た魔力の流れを思い出した。
「……自動でできたら、どうでしょう?」
ネスラさんが、目を細めた。
「……自動?」
「はい。攻撃されている場所に、必要なだけ魔力を送るんです。守る人が移動したら、結界もそれに合わせて変わるようにして」
「……それは」
ネスラさんは、少し考え込んだ。
「……普通の結界術式じゃ、無理」
「……ですよね」
「……でも」
ネスラさんが、私を見る。
「……この前の魔道具みたいに、術式をつなぐなら……」
「……はい!」
私は、大きく頷いた。
そう。
完成している術式を、組み合わせる。
必要な情報を、次の術式へ渡す。
あの自動調光ランプと、同じ考え方。
でも、扱うものは光じゃない。
人の命だ。
だからこそ。
今、この瞬間。
守れなかった私を。
守りきる私へ、変えてみせる。
「……ネスラさん」
「……何?」
私は、もう一度、森の方を見た。
「助けたい人が、こんなにいるんです」
さっきの女の子の顔が、浮かんだ。
お母さんの手を握っていた、小さな手。
……忘れない。
きっと、ずっと。
「だから、もっと守れる方法を考えたいです」
ネスラさんは、静かに頷いた。
「……うん」
そして、私の隣に立った。
「……考えよう」
遠くで、また魔物の咆哮が響いた。
私たちは、顔を上げた。
まだ、戦いは終わっていない。
アルディスさん。
……待っててください。
今、行きます。
私は、エルとレイを肩に乗せ直し、ネスラさんと一緒に走り出した。
◇
七時間。
アルディス・レヴィンは、剣を握り直した。
……いや。
握り直そうとして、指が思うように動かなかった。
「……っ」
右手を一度開き、もう一度握る。
柄に巻かれた革は、血と汗で湿っていた。
右肩が痛む。
左の脇腹も、呼吸のたびに疼いた。
左脚には、いつの間にか増えた傷があった。
深い傷ではない。
どれも、命に関わるほどではない。
だが、七時間。
七時間もの間、休むことなく剣を振り続けている。
身体強化に回す魔力も、残り少ない。
……まだ動く。
まだ斬れる。
だが、最初の一時間と同じ動きはできない。
「……次」
目の前に現れた魔狼が、地面を蹴った。
アルディスは半歩だけ身体をずらす。
最初の一時間なら、踏み込んで首を落としていた。
だが、今は違う。
跳ぶことはない。
大きく振ることもない。
魔狼の勢いを利用し、刃を喉元へ滑り込ませる。
血が散った。
倒れた魔狼を見届けることなく、次の敵へ視線を移す。
……二体。
いや、三体。
右の木陰に、もう一体いる。
「……見えてるよ」
小さく呟いた。
その直後、三方向から魔物が飛びかかってきた。
アルディスは一体目を受け流し、二体目の足を斬った。
三体目。
身体強化。
ほんの一瞬だけ、魔力を流す。
剣が閃いた。
魔物が倒れる。
「……っ、はあ……」
強化を解除した瞬間、膝がわずかに揺れた。
アルディスは、剣を地面に突き立てる。
……休むな。
いや、違う。
休めるなら休め。
休めないなら、無駄に動くな。
頭の中で、そう言い直した。
森の奥から、また地鳴りが響く。
アルディスは顔を上げた。
木々の向こうに、新たな群れが見える。
「……ったく」
思わず、笑いが漏れた。
「どんだけいるんだよ、お前ら」
返事はない。
ただ、魔物たちが走ってくる。
アルディスは、剣を引き抜いた。
……このまま続けば、いずれ限界が来る。
それは、分かっていた。
残りの魔力。
傷の数。
鈍り始めた指先。
そして、目の前に広がる魔物の群れ。
どれだけ腕が立とうと、人間の身体には限界がある。
アルディスは、ゆっくりと息を吸った。
……俺がここで倒れたら、誰が止める?
森の向こうには、街道がある。
その先には、村がある。
王都がある。
自分が剣を置けば、魔物たちはそのまま進んでいくだろう。
「……だったら」
アルディスは、剣を肩の高さまで持ち上げた。
「倒れるわけにいかねえな」
右肩が痛む。
脚が重い。
魔力も、残り少ない。
それでも。
「……いいぜ」
アルディスは、一歩前へ出た。
「立ち塞がるなら、ぶっ壊すだけだ」
剣を握る手に、力を込める。
その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「俺の後ろにゃ、通さねえよ。」
次の瞬間。
剣聖は、再び地面を蹴った。
誰かが助けに来ることなど、まだ知らないまま。
ただ、守るべきものがあるから。
たった一人の戦いを、続けていた。




