第29話「Despair Density」
森が、静かだった。
アルディス・レヴィンは、足を止めた。
王都アストリアの北西に広がる大森林。その深部まで足を踏み入れて、すでに半日近くが経過している。
普段なら、鳥の鳴き声や小動物の気配が絶えない場所だった。
だが、今日は違う。
風が枝葉を揺らしている。
木々の間から差し込む陽光も、いつもと変わらない。
なのに、生き物の気配だけがない。
「……やっぱり、おかしいな」
アルディスは腰の剣に手を添え、周囲を見渡した。
数日前、セリスたちと王都へ向かう途中にも、似たような違和感を覚えていた。
街道周辺に魔物が少なすぎたのだ。
魔物がいないこと自体は、歓迎すべきことだった。だが、森には森の生態系がある。強い魔物が弱い魔物を追い払い、弱い魔物は別の縄張りを探す。
それが自然な姿だ。
ところが、ここ数日で、その均衡が崩れていた。
冒険者ギルドには、普段なら森の奥にしか現れない魔物の目撃報告が相次いでいる。
一方、森の浅い場所では、逆に魔物の姿が消えていた。
「……何かが、奥で起きてる」
アルディスは地面にしゃがみ込んだ。
柔らかい土に、無数の足跡が残っている。
狼型。
猪型。
大型の爬虫類。
さらに、巨木の根を踏み砕いた巨大な足跡まであった。
種類はばらばら。
だが、進行方向だけは揃っている。
北西から、南東へ。
王都のある方角だ。
「……集団移動か?」
そう呟いた直後だった。
地面が、震えた。
「…………」
アルディスは顔を上げた。
もう一度。
今度は、はっきりと。
遠くから、何かが押し寄せてくる。
アルディスは近くの大木を蹴り、枝から枝へと跳び移った。
森の上部まで登り、北西を見渡す。
そして。
「……おいおい」
思わず、声が漏れた。
森が、動いていた。
いや、違う。
木々の下を、黒い波が押し寄せている。
狼。
猪。
大蜘蛛。
巨大な蟻。
角を持つ鹿。
鱗に覆われた獣。
見覚えのある魔物も、初めて見る魔物もいた。
そのすべてが、同じ方向へ走っている。
互いを襲うこともなく。
縄張りを争うこともなく。
ただ、ひたすら前へ。
「……スタンピード」
アルディスは、静かに呟いた。
魔物の大規模な集団移動。
歴史上、何度も記録されている災害だ。
だが、目の前の光景は、そのどれとも違っていた。
数が、多すぎる。
千。
二千。
いや、そんなものじゃない。
見える範囲だけで、すでに数千。
さらに森の奥から、途切れることなく新たな群れが現れている。
「……一万はいるな」
アルディスは、ゆっくりと息を吐いた。
そのとき、群れの中に異質な影を見つけた。
体長四メートルを超える黒い魔狼。
背中から骨のような突起が伸び、周囲の魔狼を押しのけながら走っている。
「……災厄級か」
レベル百を超え、単独で村を壊滅させかねない魔物。
それが、群れの中に混ざっていた。
しかも、一体ではない。
巨大な甲虫。
六本脚の魔獣。
さらに奥には、異様な魔力を放つ影まで見える。
「……三体、いや、もっといるな」
アルディスは、静かに剣を抜いた。
六英雄の一人。
剣聖アルディス・レヴィン。
邪龍戦争の主功者、王国の剣にして人類の希望。
災厄級が相手でも、負けるつもりはなかった。
だが。
「……こいつは、厄介だな」
一万体。
それも、森の中で横に広がりながら移動している。
一人で相手をするには、あまりにも範囲が広い。
アルディスは、群れの進行方向を見た。
この先には、街道がある。
さらに、その向こうには村があった。
「……仕方ねえ」
剣を肩に担ぐ。
「...ここから先は、通行止めだ。」
次の瞬間、アルディスの姿が消えた。
◇
最初の一撃で、黒い魔狼の首が飛んだ。
巨体が地面に崩れ落ち、周囲の魔物たちが一瞬だけ足を止める。
その隙に、アルディスは次の標的へ向かった。
巨大な甲虫。
硬い外殻を持つ災厄級の魔物が、角から紫色の魔力を放つ。
だが、遅い。
アルディスは身体強化を一瞬だけ高め、甲虫の背後へ回り込んだ。
外殻の継ぎ目を、一閃。
巨体が、左右に崩れる。
「……二体」
アルディスは、息を吐く間もなく地面を蹴った。
六本脚の魔獣が、森を抜けようとしている。
その先には、街道があった。
「行かせるか!」
前脚を斬り払い、傾いた巨体の首を落とす。
三体。
災厄級を、立て続けに三体。
だが。
「……くそっ」
アルディスは舌打ちした。
その間にも、通常の魔物たちが左右へ広がっている。
狼の群れが森を抜けた。
猪型の魔物が別の斜面を駆け下りていく。
大蜘蛛の集団は、木々の間を抜けて南へ向かった。
追えば倒せる。
だが、追っている間に別の災厄級が通過する。
「……数が多すぎる」
アルディスは、剣を握り直した。
敵が強いわけじゃない。
数が多い。
そして、広すぎる。
一人で守れる範囲には、限界がある。
そのときだった。
「た、助けてくれえええ!!」
街道の方角から、悲鳴が響いた。
アルディスは振り返った。
森の端。
荷馬車が、魔狼の群れに襲われている。
御者が馬から落ち、商人らしい男が荷台の陰に身を隠していた。
「……っ!」
アルディスは迷わず駆け出した。
◇
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、剣を振るった。
荷馬車へ飛びかかろうとしていた魔狼が、空中で両断される。
続けて二体。
三体。
四体。
瞬く間に、周囲の魔物が倒れた。
「だ、大丈夫か!?」
荷馬車の陰から、商人らしい男が顔を出した。
「ああ。怪我人は?」
「御者が足を! それから護衛が二人……!」
アルディスは倒れている男たちを見た。
幸い、まだ息はある。
だが、歩ける状態ではなかった。
森の奥からは、地鳴りが響き続けている。
時間がない。
「動ける馬は何頭いる?」
「さ、三頭です!」
「なら、怪我人を乗せろ。荷物は捨てていい」
「し、しかし、積み荷は……!」
「命と荷物、どっちが大事だ!」
商人が息を呑んだ。
「……わ、分かりました!」
アルディスは、街道の南側へ視線を走らせた。
まだ魔物がいる。
だが、ここから王都へ向かう道を切り開くことはできる。
「よく聞け。お前たちに頼みがある」
「……頼み、ですか?」
「王都まで走れ。城門に着いたら、軍の責任者を呼べ」
アルディスは、商人の肩を掴んだ。
「北西大森林でスタンピード発生。規模は推定一万。災厄級が複数混ざっている。そう伝えろ」
「……い、一万!?」
「そうだ」
商人の顔から血の気が引いた。
「そんな……王都は……!」
「だから、お前たちが知らせるんだ」
アルディスは、まっすぐに商人を見た。
「俺はここで止める。お前たちは、知らせを届けろ。」
「……!」
「俺のことは後でいい。街道と村の避難が先だ。王都に着いたら、必ずそう伝えてくれ」
商人は、震える手を握り締めた。
そして、深く頷いた。
「……必ず! 必ず、お伝えします!」
「頼んだ」
アルディスは剣を抜き直した。
「道を開く。俺の後ろを走れ!」
次の瞬間、剣閃が街道を駆け抜けた。
魔物たちが次々と倒れ、王都へ続く道が開ける。
商人たちは、怪我人を乗せた馬を引き、必死に駆け出した。
アルディスは、その背中を見送った。
「……頼むぜ」
そして、再び森へ向き直る。
地鳴りは、まだ止まない。
「こっちは、俺が引き受ける。」
◇
一時間が過ぎた。
アルディスは、すでに数百体の魔物を斬り伏せていた。
森の中には、倒れた魔物の死骸が折り重なっている。
だが、群れの勢いは衰えない。
むしろ、増していた。
「……まだ来るか」
アルディスは、額の汗を拭った。
呼吸は乱れていない。
剣を振るう腕にも、まだ十分な力が残っている。
だが、目を離せない。
一瞬でも災厄級を見失えば、そいつは街道へ向かう。
アルディスは、森の奥から現れた巨大な蛇を見つけた。
胴の太さだけで、人間の背丈ほどある。
口から吐き出された毒霧が、周囲の木々を腐らせていく。
「……またかよ」
アルディスは駆け出した。
毒霧を避け、蛇の頭上へ跳ぶ。
剣が閃いた。
巨大な頭部が、地面へ落ちる。
その直後。
別の方向で、木が倒れた。
アルディスは振り返った。
巨大な猪型の魔獣が、森を抜けようとしている。
「……ちっ!」
アルディスは、地面を蹴った。
◇
三時間が過ぎた。
アルディスの足元には、魔物の死骸が積み重なっていた。
災厄級の討伐数は、すでに二桁に達している。
だが、状況は好転していなかった。
森の奥から現れる魔物は、相変わらず途切れない。
むしろ、後続の群れほど強い個体が増えている。
「……何なんだ、こいつら」
アルディスは、倒した魔物の身体を見た。
通常の森の魔物。
それも、種類はばらばら。
だが、行動だけが異様に揃っている。
互いを襲わない。
獲物を見つけても、ほとんど足を止めない。
ただ、前へ進もうとする。
……いや。
違う。
アルディスは、ふと気づいた。
魔物たちは、前へ進みたいんじゃない。
後ろへ戻りたくないんだ。
「……お前ら」
アルディスは、森の奥を睨んだ。
「何から逃げてる?」
答えはない。
ただ、木々の向こうから、また新たな群れが現れた。
アルディスは、剣を構えた。
……考えるのは、後だ。
今は、止める。
それだけだった。
◇
五時間。
アルディスは、もう何体斬ったのか覚えていなかった。
右肩が痛む。
左の脇腹から流れた血が、服に張りついている。
呼吸を整える。
まだ戦える。
剣も振れる。
だが、最初の一時間と同じ速さで動けるかと問われれば、答えは否だった。
「……っ、はあ」
森の奥から、新たな魔物が現れる。
灰色の魔狼。
その後ろには、巨大な猪。
さらに、木々の間を縫うように走る大蜘蛛の群れ。
アルディスは剣を構えた。
「……来い」
魔狼が跳んだ。
斬る。
猪が突進してくる。
受け流す。
大蜘蛛が糸を吐く。
避ける。
……その瞬間。
左の森から、別の群れが抜けた。
「……くそっ!」
追おうとする。
だが、背後から災厄級の咆哮が響いた。
アルディスは足を止めた。
そちらを放置すれば、街道へ到達する。
追えば、目の前の群れが村へ向かう。
どちらも、見逃せない。
「…………」
アルディスは、歯を食いしばった。
……選べ。
どちらを止める。
どちらを通す。
たった一人で、すべてを守ることなどできない。
そんなことは、最初から分かっていた。
それでも。
「……ふざけんなよ」
アルディスは、剣を握り直した。
「どっちも、通したくねえんだよ。」
再び、地面を蹴った。
◇
王都アストリア。
北門に、一頭の馬が駆け込んできた。
「伝令!! 緊急の伝令だ!!」
馬上の商人が、声を張り上げる。
泥にまみれ、衣服は裂け、顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「北西大森林でスタンピードが発生した!!」
「……スタンピード?」
門兵が駆け寄る。
「規模は一万!! 災厄級も複数いる!!」
「……なっ!?」
「六英雄のアルディス様が、たった一人で食い止めている!!」
門兵の表情が変わった。
「その情報は確かか!?」
「俺たちは、あの方に助けられたんだ!!」
商人は、必死に叫んだ。
「頼む!! 早く王様に知らせてくれ!!」
門兵は一瞬も迷わなかった。
「緊急警報!! 王宮へ至急報告!!」
鐘が鳴る。
北門の警鐘。
続いて、城壁の警鐘。
さらに、王宮へと続く警鐘が響き始めた。
王都の空気が、一変した。
◇
「陛下!! 北西大森林より緊急報告です!!」
王宮の執務室に、伝令が飛び込んできた。
レオニス・アルセリア三世は、書類から顔を上げた。
「申せ」
「大規模スタンピード発生! 推定一万体! 災厄級が複数混在しております!」
「……一万か」
国王の目が鋭くなった。
「報告者は?」
「現場より脱出した商隊です! 六英雄アルディス卿に救出され、直接伝令を託されたとのこと!」
「アルディスは?」
「現在も、単独で交戦中と!」
「発生からの経過時間は?」
「……五時間」
兵士が、震える声で言った。
「アルディス卿は、すでに五時間、一人で戦い続けています!!」
執務室が静まり返る。5時間...それが意味するのは、こちらの援軍もまた、5時間以上かかる距離で、アルディスはたった一人、剣を振るい続けていることを意味する。
国王は立ち上がった。
「軍務卿を呼べ。いや、呼びに行く時間も惜しい。命令を伝えよ」
その声に、迷いはなかった。
「第一騎士団、全軍出陣。北西街道を確保し、周辺集落の住民を救出せよ」
「はっ!」
「近衛騎士団も動かせ。王都の防衛に必要な戦力を残し、残余は避難民の保護と街道の防衛に当たらせよ」
「はっ!」
「魔法師団にはネスラを指揮官として出陣を命じる。災厄級への対応と、広域防御を優先させよ」
「承知しました!」
「冒険者ギルドには、B級以上の冒険者への緊急招集を要請。王国の費用で報酬を保証する。負傷者の救護には治癒術師と薬師も動員せよ」
伝令たちが次々と走り出す。
国王は、壁に掛けられた王国北西部の地図を見た。
森。
街道。
村々。
そして、王都。
「……アルディスならば、持ちこたえよう」
傍らの将校が頷いた。
「はい。六英雄の剣聖です。きっと……」
「だが」
国王は、静かに言葉を遮った。
「あやつが倒れぬことと、民が守られることは別だ。」
将校が、息を呑む。
「英雄一人に、王国の命運を背負わせるな」
国王は地図に手を置いた。
「街道にいる商人も、村に残された老人も、逃げ遅れた子どもも。誰一人、見捨てるな」
そして、顔を上げる。
「英雄も、国民も、もれなく救え! それが王国の軍だ!!」
「はっ!!」
将校が敬礼し、駆け出した。
レオニス王は、窓の向こうに広がる王都を見つめた。
「……アルディス」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
「よくぞ、五時間もつないでくれた。あとは、王国の仕事だ。死ぬな、我らの英雄よ。」
◇
王立魔法研究院。
その一室で、セリス・アルフィーネは、机いっぱいに広げた実験記録を眺めていた。
「……ふふっ」
薬学研究室で見つけた、不思議な鉱石。
魔力をほとんど持たないのに、薬草の反応を助ける性質。
……うん。
やっぱり、面白い。
「ネスラさん! この石、別の薬草でも試してみたいんですけど!」
「……うん。明日なら」
「やったあ!」
私は嬉しくなって、エルとレイを抱き上げた。
「ねえねえ! 次はどんな反応が見られるかな!?」
「ぷいっ!」
「ぷるん」
……ふふふ。
楽しみだなあ!
そのときだった。
研究院の廊下から、慌ただしい足音が響いた。
「ネスラ師団長!!」
扉が勢いよく開く。
飛び込んできたのは、魔法師団の制服を着た兵士だった。
「王宮より、緊急出陣命令です!!」
「……何があったの?」
ネスラさんの声が、少しだけ低くなる。
「北西大森林にて、大規模スタンピードが発生!」
「……規模は?」
「推定、一万体!!」
「…………」
ネスラさんの表情が変わった。
そして、兵士は続けた。
「災厄級も複数確認されています! 現在、アルディス卿が単独で交戦中です!!」
「……アルディスが?」
ネスラさんが、静かに立ち上がった。
私は、思わず顔を上げた。
「……え?」
アルディスさんが?
一人で?
「……五時間」
兵士が、震える声で言った。
「アルディス卿が交戦を開始して、既に5時間が経過しているとの事です!」
研究室が、静まり返った。
私は、手の中の鉱石を見つめた。
さっきまで、あんなに楽しかった研究。
明日も、明後日も。
知らないことを、いっぱい調べたいと思っていた。
でも。
今、この瞬間にも。
アルディスさんが、一人で戦っている?一万の魔物と?たった一人で?
……そんな。
「……ネスラさん」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「……私も、行きます」
ネスラさんが、こちらを見た。
「……セリス」
「アルディスさん、友達ですから」
私は、エルとレイを肩に乗せた。
「友達が困ってるなら、助けに行きたいです。」
ネスラさんは、しばらく私を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
窓の外では、王都の警鐘が鳴り始めていた。
その音は、青空の下に広がる街へ、何度も何度も響き渡っていた。




