リハーサル
雪華がメインホールを横切り、
横通路へと足を向けた。
メインホールの喧騒が
背中から遠ざかっていく。
横通路の入口。
照明は意図的に落とされている。
薄暗いアーチ状の通路が、
奥へと続いていた。
壁面には既存の絵画が静かに並んでいる。
印象派の柔らかな光。
ルノワールの舞踏会。
モネの睡蓮。
足を踏み入れると、靴音が反響する。
天井は思ったより高い。
圧迫感はない。
だが狭い。
大人が二人並ぶとぎりぎりの幅。
それが逆に距離を近く感じさせる設計だった。
奥からばたばたと足音が近づいた。
スバルがメジャーを首に巻いて走ってきた。
「あ、雪華!見に来たの!?」
ぱぁっと顔が明るくなった。
「ねぇねぇ、ここの壁さ、
高さ3.2メートルでしょ。
北斎の横幅にぴったりなの。
で、こっちは――」
くるっと振り返って奥を指差した。
「奥に進むほど天井が低くなるの。
知らないでしょ?」
ハコスが奥の暗がりから
ひょっこり顔を出した。
脚立の上に乗っている。
「床面の寸法も測ったよ。
奥行きで言うと、
入口から出口まで約40メートル」
メモ帳をぱらっとめくった。
「で、雪華。
実際に歩いてみてどう思う?」
「これなら雨の日の散歩で
絵画を見ながら進めますね」
「北斎の荒波で感情を揉まれて
すぐ先の曲がり角を曲がる」
スバルはにかっと笑って、
入口から歩き始めた。
「じゃあスバルが案内する!
雨の散歩モードね!」
歩きながら壁の絵を指差した。
「最初がここ。
モネの「散歩、雨の午後」
柔らかい光でしょ?
これでお客さんの心を
雨モードに切り替える」
薄暗い通路に足を踏み入れると、
空気が変わった。
メインホールの明るさが嘘のように暗い。
壁のモネの「散歩、雨の午後」が、
僅かな照明に浮かび上がっている。
雨の中で傘をさして歩く恋人たちの絵。
スバルはすたすたと先へ進んだ。
「ここから奥に進むほど絵が
印象派から近代に移ってくの。
セザンヌとか、ドガとか」
角を曲がった。
少し天井が低い。
圧迫感はないが、
世界が一段階狭まった感覚。
「で、ここが問題の北斎ゾーン」
ハコスが暗がりの中で
脚立の上から見下ろしていた。
「北斎は壁全面使うから、
ここだけ通路幅ぎりぎりに絵が掛かる。
来館者は大波に囲まれる感じになる」
スバルがぐっと拳を握った。
「で、荒波ぶちかまされて、
びしょびしょになった気持ちで――」
くるっと先を指差した。
曲がり角だ。
「ここ曲がるの」
「おお、ミレイの「盲目の少女」
実物を見ると引き込まれる
感情になりますね」
曲がり角を抜けた先。
横通路の一番奥。
そこに一枚の絵画が掛かっていた。
オーギュスト・ロダン作「目を閉じた少女」
いや、ここではミレイの「盲目の少女」だ。
壁に設えられたスポットライトが、
少女だけを照らしている。
他の照明は全て落とされている。
少女が闇の中にぽつんと
浮かんでいるような構図。
スバルは曲がり角の手前で立ち止まって、
雪華の反応を窺った。
「ね?すごくない?
北斎の大波抜けた先にこの子がいるの。
いきなり」
ハコスは脚立を降りて、
少女の絵の前に立った。
「照明がここだけピンポイントで
当たるようになってる。
元からこの演出だったみたいで、
館長が設計段階で決めてたっぽい」
スバルが腕を組んだ。
真剣な顔だ。
「でもさ雪華。
ここちょっと天井低くない?
お客さんが見上げる感じになるんだけど」
実際に少女の絵を見上げる形になった。
首を上に。
暗い通路の中で、
一人の少女だけが
光を纏って浮かんでいる。
ハコスがメモ帳を広げた。
「照明の角度も調整できる。
今よりもう一段絞れば、
もっと神々しく見えるよ」
「いいですね。
荒波を越えた先に
この絵画を見上げれば神々しいです」
「最終日に暗闇の中から現れたら
どんな気持ちになるんでしょうね」
スバルは天井を見上げた。
暗い通路。
低い天井。
その中にぽつんと浮かぶ光の少女。
「暗闇の中で、ずっと何も見えなくて」
声が小さくなった。
「嵐ぶち当たってさ、
真っ暗で、
足元も分かんないし、
北斎の大波がずっと
頭の中でぐるぐるしてて」
ハコスは黙って少女の絵を見上げていた。
「そこに曲がり角。
光が漏れてる」
スバルがごくりと唾を飲んだ。
「曲がると――
この子が、光の中に」
ぶるっと震えた。
自分で言って自分で怖がっている。
「やばいやばいやばい。
スバル想像しただけで心臓ばくばくする」
ハコスは冷静に呟いた。
が、ネズミの尻尾がぴくぴく動いている。
「しかもこれ最終日限定でしょ。
通常営業では普通にこの絵があるだけで、
最終日は暗闇の中で現れる演出」
メモ帳にさらさら書き込んだ。
「照明の最終案出さなきゃ。
曲がり角側から光量ゼロ、
この絵だけフルスポットライト。
落差で目がやられる」
スバルは雪華の袖をきゅっと掴んだ。
目がうるうるしている。
「ねぇ雪華。
試していい?
照明落として真っ暗にして、
曲がり角から光当てるの。
体験してみたい」
「どうせなら最初からしましょうよ」
「雨の日の散歩を絵画を見ながら
楽しんでる時に荒波に飲まれる。
嵐に飲まれて暗闇になる
そして一筋の光を見つけて角を曲がる」
スバルの目がきらっと輝いた。
「最初から!?いい!やろやろ!」
ばっと振り返って叫んだ。
「ハコス!照明全部落として!」
ハコスは脚立に駆け上がった。
壁のパネルに手を伸ばす。
「了解。
入口側から順に落としていくね」
かちっ。かちっ。かちっ。
照明が順番に消えていく。
モネの睡蓮が消えた。
ルノワールの舞踏会が消えた。
セザンヌが消えた。
一枚、また一枚と闇に飲まれていく。
スバルは通路の入口まで走って戻った。
暗い。
もう薄暗いどころではない。
「うわ。暗っ」
壁に手をついた。
目が闇に慣れてきて、
かろうじてモネの睡蓮が見える。
「よし。じゃあスバルがお客さん役やる。
雪華は――」
ハコスが脚立の上から囁いた。
「雪華が曲がり角側で隠れて
光の誘導役やった方がよくない?
演出の確認するなら」
ぶんぶん頷いた。
「それだ!雪華が光担当!
スバル歩いてくるから!」
入口に向かって走っていった。
足音が遠ざかる。
暗闇の中、雨の散歩が始まる。
「暗くするなら夜の雨の日の散歩ですね。
歩くたびに足元から波紋が広がる
これすごくいいです」
ハコスはメモを取りながら頷いた。
「足元に波紋ね。
踏む圧で光が漏れる感じにすれば
雨上がりの水たまりっぽい」
脚立の上で照明パネルを微調整した。
「入口付近はうっすらと明るくしとく。
散歩の雰囲気だから。
月光程度でいい?」
横通路が再構成された。
入口付近だけぼんやりと青白い照明が残る。
雨上がりの夜道。
足元が見えるか見えないかの微妙な明るさ。
入口から声が聞こえた。
「いくよーー!」
スバルが歩き始めた。
足音が響く。
一歩、二歩。
足元からふわりと淡い光が広がる。
小さく息を吸った。
「お。足元光ってる。すご」
壁のモネの「散歩、雨の午後」が見えた。
雨の中で傘をさす恋人たち。
薄暗がりの中に浮かぶその絵は、
さっきまでとは別物に見えた。
「うわぁ……全然違う。
暗い方が絵が浮かび上がる」
ゆっくり奥へ進んでいく。
セザンヌ。ドガ。
一枚ずつ通り過ぎるたびに
照明がさらに落ちていく。
ハコスが小声で雪華に囁いた。
「スバルあと五歩で北斎エリアに入る。
そこからは一気に暗くするよ」
スバルの足が止まった。
目の前にある壁。
床から天井まで全面を覆う大波。
「なにこれ」
声が掠れた。
葛飾北斎「凱風快晴」
横幅3.2メートル。
通路いっぱいに広がる大海原。
波が壁から飛び出しそうなほどの
迫力で押し寄せてくる。
照明が意図的に赤みを帯びている。
嵐の色だ。
スバルは壁を見上げた。
目が見開かれている。
「リハなのに怖い。
本番の照明だともっとやばいんでしょこれ」
ハコスが暗闘の中で囁いた。
「北斎エリアの照明は赤に寄せてある。
嵐っぽく。
ここから徐々に照明消すよ」
かちっ。かちっ。
赤い光が薄れていく。
波の色が黒に変わっていく。
スバルの足が震えた。
「え。ちょっと。暗」
壁が黒くなっていく。
波が見えなくなる。
赤い光が消え、青が消え、白が消えた。
最後の一手。
かちっ。
「はい真っ暗」
完全に真っ暗だった。
足元すら見えない。
「え、えっ、ちょ、ハコス!?
何も見えな――」
びりっと空気が変わった。
暗闇の中に大波の音だけが響いている。
プロジェクションマッピングの残響だ。
ごうごうと波がうねっている。
「むり。むりむりむり」
スバルは壁に手をついた。
が、壁がどこか分からない。
方向感覚が消えている。
「海。ほんとに海の中にいるみたい。
波の音がする。
でも何も見えない」
足元を踏んだ。
水たまりの波紋がふわっと光る。
すぐ消える。
「足元気をつけて、みたいな気持ちになる。
これ本番だと濡れるんでしょ?」
ハコスの声が暗闇のどこかから響いた。
位置が分からない。
「ミスト加えたら足元冷たいし、
波しぶき感じると思うよ」
スバルは一歩踏み出してみた。
びちゃ。
足元から波紋が広がる。
薄い青の光。
「ひっ」
もう一歩。
びちゃ。
今度は黄色。
「色変わる!?」
暗闘の中でハコスが小さく笑った。
「踏む場所によって
色変えた方が楽しいかなって。
七色。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
スバルは慎重に歩いた。
びちゃ。びちゃ。
黄色、緑、青。
「うわぁ虹色になってる。
足跡で虹が――」
がさっ。
何かに躓いた。
よろけて壁にぶつかった。
「いったぁ!何!?」
暗闇から冷静な声。
「それ本番は波の泡の演出。
足元に泡がぶくぶく出る」
壁に背中を預けた。
暗闇の中で息が荒い。
「ねぇ。ここからどう進むの。
曲がりたい。早く曲がりたい」
曲がり角に少し光を照らす
「スバル光見つけられたら曲って下さい」
ハコスは頷いて、
曲がり角の壁にそっと手を添えた。
小声で雪華に囁く。
「じゃあ一瞬だけ。
ほんとにちらっとね」
かちっ。
曲がり角の壁。
ほんの一筋。
針の穴ほどの光が暗闇の中にすっと走った。
すぐに消えた。
スバルは壁に張り付いたまま、
目をぎゅっと閉じていた。
暗闇。
波の音。
足元は不確か。
「こわい。ほんとにこわい。
海の中で波に揉まれてる」
手探りで壁を伝って歩く。
びちゃ。びちゃ。
緑、青。
「光どこ。光。お願い」
ハコスは光を完全に消した。
息を潜めている。
十メートル。
暗闇を壁伝いに歩く。
五メートル。
足元しか見えない。
波紋だけが淡い道案内。
そして。
見えた。
壁の端に、何か。
ちらっと。
光?一瞬だけ。
「あ」
心臓が跳ねた。
「あった。光。光あった!」
足が勝手に動き出した。
びちゃびちゃびちゃ。
早足。
ほぼ小走り。
「待って。待って待って。
あそこ。あの角!」
ハコスは耳を澄ませていた。
スバルの足音が近づいてくる。
そろそろ。
かちっ。
曲がり角の光が完全に消えた。
光が消えた。
「えっ。うそ。消えてる。
さっきまであったのに」
足が止まった。
暗闇。
波音だけ。
「どこ。光どこ」
「それじゃ「盲目の少女」の
後ろから光を照らしますね。
さながら後光の如く」
雪華が角度を調整した。
盲目の少女の背後。
緩やかなスポットライトが
少女を包み込むように広がった。
ハコスは息を呑んだ。
脚立の上から見下ろしている。
「……後光だ」
暗闇の中。
何も見えない世界に、突然の光が灯る。
少女の輪郭が浮かび上がっていく。
目を閉じている少女。
盲目の少女。
神秘的な光を纏って、
まるで天から降りてきたかのように。
スバルは曲がり角の手前にいた。
壁に張り付いている。
暗闇の中。
「光。確かにあった。
さっきは消えてたけど」
ごくり。
「行く。行くよね。行く」
一歩。びちゃ。
曲がり角に足をかけた。
暗闇。何も見えない。
壁だけが手の下にある。
そして。
角を曲がった。
光が目を焼いた。
「っ――!」
暗闇から一転。
圧倒的な光が少女を照らしている。
後光。
天使か女神か。
目を閉じた少女が浮かび上がっている。
スバルの膝が崩れた。
その場にしゃがみ込んだ。
「なに、これ」
声が裏返った。
目から涙がぼろぼろ溢れた。
「なんで。なんでこんな綺麗なの」
「これは感動で涙しますね。
しかもこの状況でプロポーズする
お客様もいるかもしれないから」
スバルは床にぺたんと座り込んだまま、
涙を袖で拭いた。
拭いても拭いても出てくる。
「プロポーズ。ここで。
この暗闇越えてきて、
この光浴びて、この子見て」
鼻をすすった。
「指輪の箱パカッて開けたら、
もう、それだけで答えじゃん」
ハコスは脚立の上から
少女の絵を見つめていた。
冷静な目。
だが尻尾がぶんぶん揺れている。
「照明の角度もう少し
浅くした方がいいかも。
後光の幅を広げて、
少女が光の中で浮いてる感じを強調する」
くるっと雪華を見た。
「ねぇ雪華。
本番の時さ、プロポーズされたら
少女の方がちょっと泣く演出とか
入れたら面白くない?」
スバルがばっと顔を上げた。
「泣く!?この子が!?」
ハコスは人差し指を立てた。
「盲目の少女が、
カップルの愛に反応して涙を一筋流す。
光で涙がきらっと光る」
スバルは想像して、また泣いた。
「やめて。もう無理。
スバルの心臓がもたない」
ぐしぐし目を擦りながら雪華を見上げた。
「ねぇ雪華、
これプロポーズされた側の気持ち教えてよ。
この角度で見たらどんな気持ちになる?」
「例えばこうですかね。
後光に包まれた「盲目の少女」の前で
彼氏が指輪を取り出してプロポーズする。
彼女が涙を流して指輪を受け取る」
「そこで「盲目の少女」に描かれてる
虹が輝く演出を入れる」
スバルは息を止めた。
想像している。
目の前の少女の前に跪く彼氏。
指輪の箱。
パカッ。
ハコスの目が鋭くなった。
技術者の目だ。
「虹が輝く。なるほど。
少女の上に描かれてる虹が、
プロポーズの瞬間に発光する」
脚立から降りて、
少女のイラストが描かれた
資料を引っ張り出した。
「ここ。少女の上の虹。
普段は薄い色で入ってるだけ。
これをLED仕込んで、光らせたら――」
スバルの脳内で映像が完成した。
「彼女が泣く。指輪受け取る。
その瞬間に少女の上の虹がぱあっと光るの」
ぶわっと涙が溢れた。
「奇跡じゃん。
盲目の子の上に虹が灯るんだよ?
見えない目に虹が」
ハコスはもうメモを走らせていた。
「虹の発光は三秒くらい。短めに。
じわっと滲んでぱぁっと全開。
涙と一緒に光る方が自然」
ペンを止めた。
「これさ、タイミングが問題。
プロポーズの台詞が終わった直後?
キスの前?」
スバルは真剣な顔で雪華を見た。
涙の跡がまだ残っている。
「雪華。ここが一番大事。
タイミング。
どこで見せるのが一番ぐっとくる?」
「相手が指輪を受け取った時にしましょうか。
指輪を受け取って指輪をはめる
そして虹が輝く。
もはや結婚式ですね」
スバルは両手で口を押さえた。
「指輪が、はまった瞬間に。虹が」
しゃがみ込んだ。
もう一回泣いた。
「結婚式じゃん。
もう完全に結婚式じゃん。
神父いらないじゃん。
盲目の少女が祝福してる
みたいになってるじゃん」
ハコスはメモに
「指輪装着→虹発光」と書き込んだ。
下線を二重に引いた。
「よし。
じゃあ虹の発光タイミングを
センサーで制御しよう」
「指輪をはめた手の動きを感知して、
装着が確認された瞬間に点灯」
顎に手を当てて考え込んだ。
「ただ問題は、
お客の手が近づいても
反応しなきゃいけないから
感知精度かなり高くないと」
スバルは立ち上がって、
ぐしぐし目を擦った。
「ねぇねぇ。本番さ、
スバルがプロポーズ側やりたい」
ハコスが半目で見た。
「……練習したいの?」
ぶんぶんと首を横に振った。
「違う!お客さん役!
お客さんの心の準備が
あるから確認したいの!」
ちらっと雪華を見た。
目がうるうるしている。
「ね、雪華。
スバルがプロポーズされる側やっていい?
雪華がプロポーズする側」
「本番の予行演習ですね
今は小道具の指輪しかないしこれで。
私も夜の雨の散歩を体験したいです」
スバルの顔がぱぁっと輝いた。
太陽だ。
「やった!本番演習!」
くるっとハコスの方を振り返った。
「ハコス!照明本番想定で全部やって!
嵐のとこから!」
ハコスはメモをぱたんと閉じた。
にやっと笑う。
「了解。
じゃあ通路全体の照明落とすね。
ミストも出す?」
ぶんぶん頷いた。
「全部本番と同じにして!
じゃないと意味ないから!」
ハコスは照明パネルを操作した。
かちっ。かちっ。かちっ。
入口から順番に消えていく。
「ミスト散布するよ」
ぶしゅう。
通路の壁際から細かい
ミストが噴霧され始めた。
空気がしっとり重くなる。
「はい、準備完了」
ハコスは曲がり角の方へ歩いていった。
小さく手を振った。
「スバル入口に移動して。
雪華は曲がり角で待機ね。
スバルが来たら暗闇体験して、
角曲がったらプロポーズ演技」
スバルは入口まで小走りで戻った。
振り返る。
通路は真っ暗。
ミストで空気がひんやりしている。
「よし」
深呼吸した。
「雨の散歩。
夜の雨の散歩ね」
一歩、踏み出した。
「暗い中で見る絵画って
全然雰囲気が違いますよね。
これが本来の絵画のような」
暗闘の中で、壁のモネの睡蓮が見えた。
薄い月光程度の照明。
水面に映る蓮の花。
雨粒が落ちている。
「わぁ……」
足を止めた。
「全然違う。昼に見た時と全然。
暗い方がなんか絵の中に入ってく感じ」
ゆっくり歩く。
びちゃ。
足元から波紋が広がる。
緑の光がふわっと浮かんで消えた。
スバルが奥へ進んでいく。
ルノワールの舞踏会。
ドガの踊り子たち。
一枚ずつ通り過ぎるたびに、
照明がさらに落ちていく。
色彩が闇に沈んでいく。
華やかだったはずの舞踏会が、
暗い御伽噺のように変わっていく。
セザンヌの前に差し掛かった。
果物の静物画。
暗い照明の中で、
果物だけが妙に生々しく浮かんでいる。
「こわいとかじゃなくて、なんか……
引き込まれる。絵が重い」
さらに奥へ。
空気が変わってきた。
湿度が上がる。
ミストが濃くなっている。
「あれ。なんか急に空気変わった」
ハコスの声が遠くから響いた。
小さく。
「北斎エリア入るよ」
最後の一枚を通り過ぎた。
暗い。
さっきまでとは段違いに暗い。
「え、うそ。ここからが本番?」
「おっと、さらに暗いですね。
足元の波紋が輝いていますよ
幻想的」
足元を見下ろした。
踏むたびに波紋が広がる。
青、藍、紫。
暗い海の中を歩いているみたいだ。
「すごい。
足元プラネタリウムみたい」
壁が黒い。
絵が見えない。
でも足元の光だけが海の中に
いることを教えてくれる。
「ここ北斎エリアだよね。
見えないけど」
スバルの歩みが遅くなった。
本能的に。
暗さが質を変えている。
月光から深海へ。
足元の波紋だけが唯一の光源。
北斎の大波エリアは
照明を完全に切ってある。
壁はただの黒い壁。
絵が見えない。
立ち止まった。
「ねぇ。絵見えないよ。真っ暗」
壁をぺたぺた触った。
何もない。
平らな壁。
「ここ北斎でしょ?
あの大波あるでしょ?」
一歩進んだ。
びちゃ。
紫の波紋。
「見えないのに大波の中にいる気がする。
なんで」
もう一歩。
びちゃ。
藍。
「足元の海がどんどん深くなってる」
暗闇の中でハコスが息を潜めている。
スバルの足音が近づいてくる。
そろそろだ。
照明を完全に消すタイミングを計っている。
北斎エリアの真ん中あたり。
スバルは壁に手をついたまま、
ゆっくり歩いている。
「嵐、来る?」
「うっすら見えますね。
北斎の「凱風快晴」
嵐の前の静けさってこのことですかね」
スバルは目を凝らした。
うっすらと見える。
巨大な波。
暗い海。
空が渦巻いている。
「見える。
うっすら。
嵐の前の海だ」
足が止まった。
鳥肌が立っている。
北斎の「凱風快晴」
本来は青空と爽やかな風の海。
だが今この瞬間、
暗闇の中で薄く浮かぶその絵は、
嵐の前の海に見える。
風を待つ静寂。
波がうねり始める寸前の、
あの息の詰まる一瞬。
ごくり。唾を飲んだ。
「来る。絶対来る」
壁に手をついた。
指先が震えている。
暗闇の中でハコスはパネルに手をかけた。
タイミングを計っている。
スバルの足が北斎エリアの中央を越えた。
一歩。
びちゃ。
青。
もう一歩。
びちゃ。
藍。
静かだ。
波の音がしない。
さっきまで足元で光っていた波紋も、
色が薄くなっている。
「あれ。暗くない?さっきより」
もう一歩。
足元の光が消えた。
「え」
もう一歩。
何も光らない。
踏んだ感覚だけ。
水たまりを踏んでいる。
でも光らない。
「光らない。ねぇ光らないよ」
かちっ。
足元が完全消灯した。
北斎エリア全照明オフ。
完全な暗闇。
何も。何も見えない。
「うそ」
「完全に暗闇ですね。
夜の海の嵐に飲まれた
波紋の光も消えた」
暗闇の中で、
スバルは完全に立ち止まった。
「え。え。え」
手を前に出した。
何も見えない。
壁もない。
空気だけ。
「どこ。ここどこ」
足元を踏んだ。
びちゃ。
光らない。
「光らない。
踏んでるのに光らない。
水たまり踏んでるのに」
完全な暗黒。
北斎エリアの照明が全て落ちている。
足元のLEDも消灯。
ミストが噴霧され続けている。
暗闇の海。
嵐の直前。
波の音だけが
プロジェクションマッピングの
残響で低く唸っている。
スバルは手を前に伸ばしたまま、
おそるおそる歩いた。
「壁。壁どこ」
ぺたぺた。
手が空を掴む。
何もない。
「道合ってる?まっすぐ?」
ぺたぺた。
一歩。
びちゃ。
光らない。
「ねぇ怖い。普通に怖い」
もう一歩。
びちゃ。
光らない。
ハコスは完全に気配を消していた。
暗闘の中で息を潜めている。
スバルの歩幅がどんどん小さくなる。
「雨。ほんとの雨の中にいるみたい。
濡れるし暗いし何も見えないし」
ごう。波音の残響が強くなった。
「やば。嵐来てる」
「だんだん波の音が大きくなりますね
雨の音も激しくなってます」
プロジェクションマッピングの
波音が徐々に激しさを増していく。
ごう。ごうごう。
低い唸りが通路全体を震わせている。
ミストが濃くなった。
空気が冷たい。
スバルは両腕で自分の体を抱いた。
「寒い。急に。
さっきまで普通だったのに」
ごうごうごう。
波音が激しくなる。
「やだ。やだやだ。来てる。嵐が」
足踏みした。
びちゃびちゃ。
光らない。
水たまりの音だけが
虚しく暗闇に消えていく。
暗闇の密度が増していた。
同じ暗闇のはずなのに、
波音が大きくなるたびに暗さが重く感じる。
視覚を奪われた人間の脳は、
他の感覚で恐怖を増幅させる。
スバルは壁を探した。
手を伸ばした。何もない。
「壁ない。道合ってる?
ねぇ道合ってる?」
ごうごうごうごう。
波音がさらに大きい。
耳元で鳴っているみたいだ。
ぱしゃ。ミストが顔にかかった。
「ひゃっ」
顔を拭った。濡れてる。
本物の雨みたいだ。
「無理。もう無理。進めない」
でも足は前に向いている。
曲がり角がある。
光があった場所。
さっきちらっと見えた光。
「あるよね。光あったよね。さっき」
「この先のはず
さっき一瞬光りましたから」
スバルは歯を噛みしめた。
暗闇の中。
波音が頭の中を揺らしている。
「光。あった。確かにあった」
一歩。
びちゃ。
光らない。
もう一歩。
びちゃ。
光らない。
ごうごうごうごう。
波音が暴風みたいになっている。
スバルの手が震えていた。
前に伸ばした指先が空を掴む。
暗闇の壁。
どこまでも続く暗闇の壁。
壁があるのかすら分からない。
ミストが顔を打つ。冷たい。
一歩。
びちゃ。
一歩。
びちゃ。
「手探りで。壁ない。
道合ってる。たぶん」
ごうごうごう。
波音がもう轟音だ。
体が吹き飛ばされそう。
「嵐の中歩いてる。
ほんとに海の上歩いてる」
もう一歩。
ばしゃ。
水量が増えた。
ミストが濃くなっている。
服が冷たい。
「うぅ」
それでも足は止まらない。
光があった。
あの光を目指している。
ハコスは曲がり角の近くで息を潜めていた。
スバルの足音が近づいてくる。
あと少し。
あと三歩。
二歩。
「光。光。お願い」
一歩。
「あった」
「あ、わずかに光ってます
あの先にある」
見えた。
暗闇の向こう。
ほんの微かな光。
針で突いたような一点。
「あった!光!あった!」
足が勝手に速くなった。
びちゃびちゃびちゃ。
スバルは小走りになっていた。
暗闘の中、
一筋の光だけを頼りに走っている。
嵐の中の灯台だ。
あの光を逃したら二度と見つけられない。
そんな本能的な焦りが足を動かしている。
光が近づく。
あと少し。
あと少し。
「待って。消えないで。消えないで」
ハコスはタイミングを計っていた。
スバルが角を曲がった瞬間。
今だ。
かちっ。
少女のスポットライト。
全開。
後光。
角を曲がった。
光が爆発した。
「っ――――!」
暗闇から一転。
圧倒的な光。
盲目の少女が輝いている。
後光。
天使。
女神。
目を閉じた少女が光の中に浮かんでいる。
スバルの足が止まった。
膝が笑っている。
「なに、これ」
涙が出た。
一瞬で。
堪えるとか無理だった。
「なんで。こんな。綺麗」
「これが本来の「盲目の少女」の姿ですか
神々しい」
スバルは少女を見上げたまま動けなかった。
涙がぼろぼろ流れている。
「暗闇ずっと歩いてきて。
嵐の中歩いてきたのに」
声が震えた。
「この子がこんな綺麗に
見えるの反則じゃん。
落差が。落差がすごい」
暗闇の中を歩いてきた人間にとって、
光は暴力だ。
暗闇で研ぎ澄まされた
視覚に光が突き刺さる。
後光を纏った少女は、
もはや人間の域を超えた存在に見えた。
スバルは雪華を振り返った。
涙でぐちゃぐちゃの顔。
「雪華。ここ。
ここでプロポーズするんでしょ」
ぐしっと鼻を啜った。
「スバル今お客さんの気持ちわかる。
わかるよ。
暗闇越えてきたらこの光があって、
この子がいて。もう頭真っ白だもん」
深呼吸した。すー。はー。
「よし」
背筋を伸ばした。
目を擦った。
切り替えた。
「スバル今からプロポーズされる側やる。
雪華プロポーズする側ね」
くるっと少女の方を向いた。
両手を前で組んだ。
もじもじ。
「えっと。
じゃあスバルが彼女役ね」
小声で。
「雪華、来て」
「スバル実は今日
伝えたいことがあるんだ」
スバルの背中がびくっと跳ねた。
もじもじしていた手が止まる。
「え」
振り返った。
暗闇から来たばかりの顔。
涙の跡が残っている。
ミストで髪が少し湿っている。
「伝えたいこと」
ごくり。
唾を飲んだ。
演技だ。演技のはず。
でも心臓がうるさい。
「う、うん。なに?」
両手を胸の前できゅっと握った。
目がうるうるしている。
演技だ。演技。
暗闇の中を歩いてきたスバルは、
完全に心が準備されていた。
嵐を越えて、光を見つけて、
少女を見上げて泣いた直後。
感情のリミッターが外れかけている。
プロポーズされる側の
気持ちを作れと言われたが、
もう既に八割本番の感情だ。
ちらっと少女を見た。
後光が眩しい。
目を閉じた少女が浮かんでいる。
雪華に視線を戻した。
「改まって何。怖いんだけど」
声が震えている。
演技か本気かもう分からない。
「ねぇ。なに」
「これから先も2人で過ごしていきたい
私と結婚してください」
スバルの目が見開かれた。
口が開いた。
閉じた。
また開いた。
「け、結婚」
声が裏返った。
演技だ。演技のはず。
でも心臓がうるさい。
ばくばくばくばく。
スバルの頭の中で
「演技」と「本気」の境界線が
ぐにゃぐにゃに溶けていた。
暗闇を歩いてきた。
嵐を越えた。
光を見つけた。
少女を見た。
泣いた。
そしてプロポーズ。
感情が完全にお客様モードに入っている。
スバルは両手を胸の前で握りしめた。
唇がわなわな震えている。
少女を見た。後光が眩しい。
目を閉じた少女が光の中に浮かんでいる。
天使が見守っている。
雪華を見た。
暗闇の中を歩いてきた人が、
ここに来て、
結婚してくださいと言っている。
涙が勝手に出た。
「ぇ」
ぽろっと一粒落ちた。
「ま、待って。待って。心の準備が」
でも答えなきゃいけない。
お客さんなら。
プロポーズされた側なら。
両手で口を押さえた。
涙がぼろぼろ溢れる。
演技じゃない。もう演技じゃない。
小さく頷いた。
「……うん」
声がかすれた。
「お願いします」
「ありがとう
これを受け取ってほしい」
スバルの目が、雪華の手元に向いた。
小さな箱。指輪のケース。
心臓が止まりそうだった。
「え。え。え」
両手が震えている。
パカッ。
箱が開いた。
中に指輪がある。
照明がスポットライトをもう一筋箱に添えた。
銀色の輪が暗闇に浮かぶ。
スバルは指輪を見た。
涙がぼろぼろ落ちた。
止まらない。
「うそ。ほんとに。
ほんとにくれるの」
両手を差し出した。
指が震えている。
雪華がスバルの左手を取った。
薬指に、指輪を滑らせる。
指輪が、はまった。
ぴったりだった。
スバルの目から涙が溢れた。
堰を切ったように。
「入った」
かすれた声。
その瞬間。
「盲目の少女」に描かれた虹が、
じわっと滲んだ。
薄い色が、濃くなっていく。
金色の光が虹の輪郭をなぞった。
そして。
ぱぁっと輝いた。
後光の中で盲目の少女の上に虹が灯った。
三秒間。たった三秒間の発光。
涙のように光が滲んで、
きらきらと散った。
スバルは見た。
少女の虹を。
膝から崩れ落ちた。
「あ」
声にならない声。
「この子。泣いてる。
虹が。虹が光った」
「スバル愛しています」
スバルは床に膝をついたまま、
雪華を見上げた。
涙でぐちゃぐちゃの顔。
指輪がはまった左手が、
きらきら光っている。
「愛してるって」
嗚咽が漏れた。
スバルの心が完全に「お客さん」だった。
暗闇の嵐を越えて、
光を見つけて、
プロポーズされて、
指輪を受け取って、
少女の虹が輝いて。
全部が一つの流れとして繋がっている。
演出として完璧だ。
完璧だからこそ、
スバルの感情は完全に壊れた。
スバルは立ち上がろうとした。
足が震えて立てない。
もう一回。
だめだった。
雪華を見上げた。
暗闇の中を歩いてきた人。
嵐を越えてきた人。
プロポーズしてくれた人。
「スバルも。スバルも愛してる」
ぼろぼろ泣いた。
演技じゃない。
完全に本音。
「ねぇ雪華。これ本番やったらさ」
ぐしっと目を擦った。
「全カップル泣くよ。
百パー泣く。絶対泣く」
ハコスが脚立の影から顔を出した。
メモを取っている。
目が赤い。
「虹の発光タイミング完璧だね。
指輪装着から二秒で点灯」
声が少し震えていた。
「……ぼくもちょっと泣いた」
「虹の発光は最終日だけじゃなくて
初日から通してやりましょうか。
その後フォトスタジオに案内する」
ハコスはメモを見返した。
「初日から通して虹発光。了解。
じゃあ通常営業日はプロポーズの演出あり、
最終日は大トリで本物の虹演出ね」
ペンを走らせた。
「虹のアルバム当日限定、
フォトスタジオ大トリ。
流れとしてめちゃくちゃ綺麗」
スバルはようやく立ち上がった。
足がまだふらついている。
指輪を見た。はまった指輪。
「本番もスバルやりたい。
プロポーズされる側」
はっとした顔。
「あ、いやスバルは巡回だから無理か。
本番は本物のお客さんがやるんだもんね」
ハコスが小さく手を挙げた。
「フォトスタジオの方、
段取り確認していい?
プロポーズの演出が終わって、
感動で泣いてるお客さんを
そのままスタジオに案内する流れ?」
首を傾げた。
「それとも少し落ち着かせる時間いる?
泣いてぐちゃぐちゃの状態で
スタジオ入ったら衣装選ぶ余裕なくない?」
ぶんぶん頷いた。
「そう!泣くよ絶対!
スバルだって泣いたもん!
泣いてる状態でドレス選べる?
無理でしょ!」
「落ち着かせてからの方がいいですね。
しばらく2人きりにしてあげる
その後案内してドレスとか選んでもらう」
ハコスは頷いた。
メモに書き込む。
「プロポーズ後、二人きりにさせる時間。
ドレス選び。うん、それがいいね」
ペンで頬をとんとん叩いた。
「場所はどうする?
通常時のプロポーズ成功ゾーンから
フォトスタジオまで
ちょっと距離あるよね。
案内役が別で必要かも」
スバルが手を挙げた。
「スバルがやる!
巡回しながら泣いてぐちゃぐちゃの
カップル見つけたら
スタジオに案内する!」
にかっと笑った。
「「おめでとうございます!
スタジオこちらです!」って言いたい!」
ハコスが半目になった。
「スバル。
それ今の状態で言われたら余計泣くよ」
きょとんとした。
「え?ダメ?」
ため息。
「ダメじゃないけど。
泣いてたところにおめでとうって
満面の笑みで来たら
感情のダム決壊するって」
雪華を見た。
「ねぇ雪華。
スタジオの雰囲気ってどんなイメージ?
白一色で清潔感出す?
それとも美術館に合わせて
アンティーク寄り?」
「巡回役の2人で
巡回と案内分担しないとですね」
「白一色もいいですけどミストやパネルで
ウェディングの雰囲気を書く予定」
スバルがぐっとガッツポーズした。
「分担!了解!
じゃあスバルが
プロポーズ成功ゾーン担当で、
ハコスがスタジオ案内する感じ?」
ハコスはメモに配置図を描き始めた。
「通常時はスバルが巡回案内、
ぼくは通常業務。
プロポーズ成功したらスバルが誘導。
それが自然だね」
ペンを止めた。
「で、ウェディングの雰囲気ね」
横通路の奥を見た。
盲目の少女の後光。
「ここからフォトスタジオまで歩く間に
もう演出始まってた方がいいよね。
通路の壁にウェディングドレスの
ビジョン流すのはどう?」
目を輝かせた。
「あー!ステンドグラスみたいに!」
頷いた。
「そう。
通路の壁にプロジェクターで
ウェディングドレスの映像を投影する。
歩いてるだけで
結婚式に近づいていく感じ」
メモ帳にざっくり描いた。
通路→花のトンネル→
スタジオ入口→ドレス展示。
「花のトンネルみたいなの導入に入れたら、
泣いた後のお客さんでもテンション上がる」
ぶんぶん頷いた。
「花!花いい!薔薇とか!」
「ヴァージン・ロードの演出か
いいですね。
梅雨だから色とりどりの
紫陽花の花弁を
降らせるってのどうですかね」
スバルの目がきらっきらになった。
「紫陽花の花弁!降る!
ばーって降ってくるの!?」
両手を広げた。
「梅雨だもんね!紫陽花の季節!
紫と青と白と赤がひらひらって!」
ハコスのペンが走った。
目が光っている。
「ヴァージン・ロードの両側から
紫陽花の花弁が降り注ぐ。
足元には水たまりがあって、
踏むたびに波紋が広がる。
花弁が水面にぷかぷか浮いてる」
ぶつぶつ呟きながらメモを描いた。
「色はランダムに撒く?
それともピンク、青、白、紫の
四色でグラデーション?」
ぴょんぴょん跳ねた。
「四色がいい!
ピンクから始まって青、白、紫って
段々濃くなっていくの!
歩いてくうちにどんどん
紫陽花が濃くなる感じ!」
ハコスは通路の壁を見上げた。
「花弁のプロジェクションを
左右の壁から投影。
下からミスト噴霧して、
花弁が降ってるように見せる」
くるっと雪華を見た。
「ねぇこれヴァージン・ロードの
先に何がある?スタジオの入口?」
「そうですね。
横通路を抜けてヴァージン・ロードを通る」
「スバルの案内でそのまま
フォトスタジオの入り口に入るって
流れなら自然に行けますね」
ハコスは通路の図を描いた。
横通路の出口→ヴァージン・ロード→
スタジオ入口。
「横通路出る→ヴァージン・ロード→
スタジオ入口。自然だね」
ペンを止めて考え込んだ。
「問題はヴァージン・ロードの長さ。
短すぎるとせっかくの
花弁演出が物足りない」
腕を組んだ。
「五メートルくらい?
いや少なくない?」
横通路の出口付近を見回した。
「横通路の出口ぶち抜いて
拡張すれば十メートルはいける。
壁の片側だけ残して、
もう片側を花弁のプロジェクションに使う」
指を立てた。
「ヴァージン・ロードの幅は
二人が並んで歩く程度。
一メートル五十。左に花嫁、右に花婿」
想像して震えた。
「紫陽花の花弁ひらひら
降ってくる中を歩くの。
二人で。手繋いで」
ぎゅっと自分の胸を掴んだ。
「やば。スバルまた泣きそう」
冷静にメモを取った。
「ヴァージン・ロードの途中で
足元に波紋演出入れたら最高」
「一歩ごとに水面が揺れる。
花弁が水に浮かぶ。
二人が歩いてきた足跡が波紋で残る」
ペンを止めた。雪華を見た。
「ねぇ。
ヴァージン・ロードの途中で音楽変える?」
「例えばモーツァルトの
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」とか
紫陽花の花吹雪が舞う場面で流すとか」
スバルが両手をぱんっと叩いた。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク!
あのくるくるしたやつ!」
体が自然にステップを踏んだ。
「これじゃん!
結婚式っぽくて最高!」
ハコスは目を閉じて曲を思い浮かべた。
「冒頭の四分の三拍子。
タンタタタン、タンタタタン。
花弁がひらひらと降ってくるテンポに合う」
メモに書き込んだ。
「冒頭は静かめに。
二人がヴァージン・ロードに
入った瞬間はピアノだけ。
花弁もぽつぽつ降る程度」
下線を引いた。
「で、真ん中あたりでふわっと
サビ入りが来たら花弁の量を倍に。
ぶわっと」
目をきらきらさせた。
「波がぶわっとくる感じ!
紫陽花がぶわーって!」
頷いた。
「そう。
サビが一番盛り上がるポイントで花弁の嵐。
足元の波紋もばしゃっと派手に広がる」
ペンを咥えた。
「終盤はまた静かに。
最後のフレーズが終わる頃にスタジオ入口。
余韻残して終わる」
雪華を見た。
「完璧じゃない?
ヴァージン・ロード演出」
「いいですね。
優先項目ですからこれで横通路の演出と
ヴァージン・ロードの演出はいけます。
一旦戻ってらでんにも伝えましょう」
ぶんぶん頷いた。
「よし!戻ろう!
スバル今すぐ戻ってらでんに伝えたい!」
くるっと横通路の出口に向かって
小走りで駆け出した。
ハコスはメモを抱えて後を追った。
小走りで。
「スバル待って。
ぼくまだ照明のメモ取れてない」
三人と一人がメインホールに戻った。
メインホールでは、
らでんが大きなテーブルの上に
資料を広げて待っていた。
すいせいとトワもグッズの
サンプルを広げている。
フブキが受付から戻ってきていた。
顔を上げた。
雪華が戻ってきた。
ぱっと表情が明るくなった。
「おかえり雪華くん!
横通路どうだった?」
テーブルから身を乗り出した。
サンプルのイヤリングを並べながら、
ちらっと雪華を見た。
「ねぇ。
紫陽花のイヤリングの
試作上がったんだけど。見る?」
小さな箱を三つ並べた。
「こっちも。
ペアリングのサンプル。
サイズ違いで三種」
ばたんとテーブルに着いた。
「らでん!大変!
横通路すごいことになった!」




