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十重奏(デシメット)の止まり木  作者: 海内裏
●第一部:『弱音器(ミュート)を外した彼女たち』

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第一部 第四編:響かない弦と、父の残像

第一部:『弱音器ミュートを外した彼女たち』

第一章:岐阜県恵那市、一人きりの音


私の故郷は、岐阜県恵那市。豊かな自然と静けさに囲まれたその街で、私は育った。

父親はバイオリンの製作職人で、いつも工房に籠もって無口で穏やかに木を削っていた。母親は高名なバイオリニストで、世界中を飛び回って家を空けがちだった。たまに帰ってきたかと思えば、母は些細なきっかけで激しくヒステリックになり、家の中の空気をピリピリと張り詰めさせた。兄弟はいない。そんな歪んだ家庭の中で、私のそばにはいつも、父が作ったバイオリンがあった。けれど、母からも父からも、その楽器の弾き方を教わることは一度もなかった。

中学生になる頃には、私は家の家事全般をひと通りこなせるようになっていた。

仕事に没頭する父と、不在がちな母の代わりに、生きるために覚えた生活の知恵だった。けれど、どれだけ家事が上手くなっても、部屋の片隅にあるバイオリンだけは、どうやって弾けばいいのか分からず、ただ冷たい木箱のままそこに佇んでいた。

高校受験が近づいた冬、両親が離婚した。理由はおだやかだった父親が、よその女性との間に男ばかりの5人の子供を作っていたことだった。裏でそれだけの裏切りを重ねていた男の、あの笑顔を思い出すだけで吐き気がした。私の世界から「男」への信用が完全に消え去った瞬間だった。

高校は、迷わず地元の女子校を選んだ。裏切りの象徴でしかない男なんて、私の人生には一生必要ない。そう思っていた。けれど矛盾していた。あんな男の形見なんて捨ててしまえばよかったのに、なぜか父が作り、私の成長をずっと特等席で見守ってきた、あのバイオリンだけは、どうしても手放せずにそばに置いておきたかった。

高校を卒業し、東京の大学への進学と一人暮らしが決まった春。アメリカを拠点に活動していた母親が、病気に倒れた。

死ぬほどの重病ではない。十分な蓄えがあるからお金の心配も一切なかった。けれど、あの病室のベッドの上で、いつもあんなに攻撃的で、殺しても死なないと思っていた強烈な母親が、見たこともないほど小さく弱々しくなっていた。母は、海外の言葉も通じない病室で、私の手を握り締め、涙を流しながら「アメリカに来て、一緒に住んでほしい」と私に懇願した。

衝撃だった。仕事で成功し、世界中でたくさんの仲間に囲まれているはずの母が、いざ弱ったとき、最後はこうして拒絶し続けた家族にすがるものなのか、と。その母親の姿を見た瞬間、私の胸の奥に、今まで蓋をしていた冷たい風が吹き込んできた。(私には、誰もいない)父親を拒絶し、母親とも距離を置き、男を人生から排除して一人で生きていこうとしていたけれど。もし私がいつかあのベッドの上の母のようになった時、私の手を握ってくれる人は、この世界に一人もいない。私は天涯孤独への猛烈な不安に、初めて襲われた。

恋愛なんて、絶対に無理。男を心の底から愛するなんて、一生できるわけがない。でも──せめて、普通の男友達の一人くらいは作れるようにならないと、私は本当に一人ぼっちになってしまう。そんな怯えを抱えたまま、私は東京での大学生活を始めた。

サークル勧誘の男の子たちの馴れ馴れしい声に怯えながら逃げ込んだのが、先輩が一人しかいない崖っぷちの「弦楽同好会」だった。そこで出会った新入生は、私を含めて5人だけ。美咲、あき、沙織、恵。同じように男性への苦手意識を抱える彼女たちと話し、同好会の先輩から「おとこ教室」の存在を聞いた時、私の心は決まった。

みんなは「恋をしたい」「変わりたい」と言っていたけれど、私は違った。恋愛は絶対に無理。原因から逃れるためにやってきたこの東京で、でも、友達なら。いつか訪れるかもしれない絶対的な孤独から逃れるために、私は4人と一緒に、その教室の扉を叩いた。

通い始めてからのスクールでの座学は、驚くほど順調だった。社長が教える講義は論理的で分かりやすく、私は持ち前の真面目さで内容をどんどん吸収していった。男という生き物の習性を知識として理解していくたび、私の中に「これなら大丈夫かもしれない」という確かな自信と余裕が生まれていった。

しかし、そんな私の油断は、最終日を前にして一気に打ち砕かれることになる。「明日、最終日の特別カリキュラムとして、男性モニターとの対面実践を行います」前日にサプライズ的に決定し、当日の教室で詳しく聞かされたそのカリキュラムに、私は強い不満と戸惑いを覚えた。聞いていない、と心の中で反発したけれど、「まあ、さすがに3分くらいなら、座学の知識でどうにでもなるか」と、どこかで高を括ってもいた。けれど、現実は甘くなかった。

いざ実践の席に着き、「はじめまして」と軽く自己紹介をして顔を上げた瞬間、目の前に座る若い男のまっすぐな視線が私を捉えた。「あ……」その瞬間、頭の奥がカチリと凍りついた。座学で学んだ知識も、さっきまでの余裕も、すべてが吹き飛んだ。向けられた本物の男の視線に耐えきれず、私は弾かれたように目をそらしてしまった。

そこからの三分間は、最悪だった。無言のまま真っ直ぐに向けられる彼の視線、その沈黙。それが私の頭の中で、あの男ばかりの5人の弟を作って裏切った父親の姿と重なり、猛烈なプレッシャーとなって襲いかかってきた。頭の奥が真っ白になり、心臓の音がうるさく破裂しそうだった。限界だった。

三分が経った瞬間、私はガタッと激しく椅子を引いて立ち上がった。私の中にあった抑えきれない不安と恐怖が、その瞬間、まるで私が一番嫌悪していた母親のように、ヒステリックな怒りとなって口から爆発していた。あの時、何も言えないまま逃げ出すしかなかった父親への不満と怒りを、すべて目の前の彼にぶつけるかのように、私は金切り声を上げていた。

「なんなの……!? 何も喋らないで、そうやって穏やかな顔をして裏で何を考えてるか分からない! お父さんもあなたも、男なんてみんな最低よ!!」静かな教室に、私の叫び声が響き渡った。

ハッと我に返ったとき、自分の醜い声が、かつて実家で激しく狂っていた母親の声と完全に重なって、目の前が暗くなった。最悪の空気だった。激しい自己嫌悪と恥ずかしさで今すぐ消えてしまいたかったけれど、一緒に講習を受けている美咲やあきたち4人の手前、一人だけそのまま飛び出すわけにはいかなかった。

私は俯き、震える手でスマートフォンを取り出すと、4人の仲間の手前、惨めさと恥ずかしさに必死に耐えながら、彼と形だけのLINEを交換した。

これで全ての講習が修了した。もう二度と、彼と関わることなんてないはずだった。



第二章:触れない指と、初めての共鳴


自分の部屋に帰り、鍵を閉めた。嵐が去ったあとの部屋は、恐ろしいほど静かだった。

耳の奥で、まだ自分のヒステリックな金切り声がワンワンと響いている。(私は、最低だ。お母さんのようにはなりたくないって思っていたのに、結局同じじゃないか)実家で母が父に向かってヒステリックに怒鳴り散らしていた、

あの軽蔑していた姿と今の自分が完全に重なっていた。それと同時に、あの時何も言えずに逃げ出した父親への怒りを、何の罪もない「彼」にぶつけてしまった理不尽さに、激しい自己嫌悪が押し寄せてくる。

枕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。男友達を作るどころか、初対面の相手をただ感情的に傷つけるだけの化け物だった。

夜が更けても眠れず、私は真っ暗な部屋でスマートフォンの画面を見つめていた。あの修羅場のような空気の中、恥ずかしさに耐えて登録した、彼のLINEアカウント。今頃彼は、私に理不尽に怒鳴られた恐怖と不快感で、私のことを心底嫌っているに違いない。ブロックされていてもおかしくなかった。だけど、どうしてもそのままにしておけなかった。彼に許してほしかったわけじゃない。ただ、自分の醜い感情をぶつけてしまったことだけは、人として謝らけないといけないと思った。

私は布団の中で、激しく震える指を動かし、絞り出すようにメッセージを打ち込んだ。『あんな風に怒鳴って、酷いことを言ってごめんなさい。男性の視線がどうしても怖くて、お父さんの裏切りとか、色んな過去のことが頭の中で混ざってパニックになってしまいました。本当に、申し訳ありませんでした』送信ボタンを押した瞬間、心臓が痛いほど跳ね上がった。

画面の上部、すぐに「既読」の文字がついた。拒絶や怒りの言葉が返ってくるのを覚悟して、私はぎゅっと目を閉じた。けれど、彼から返ってきたのは、私の予想とは全く違う言葉だった。『結衣さん、僕の方こそ本当にごめんなさい。僕が緊張してうまく喋れず、沈黙で威圧するような形になって、結衣さんを怖い目に遭わせてしまいました。実践とはいえ、配慮が足りなくて申し訳なかったです』画面を見つめたまま、私は息を呑んだ。

彼は怒るどころか、むしろ自分の方を謝ってきたのだ。そして、メッセージはこう続いていた。『もし、僕でよければ……。結衣さんがそれだけ深く傷つくことになった過去の話、ここでゆっくり聴かせてもらえませんか? 怒鳴られたって、僕は結衣さんを嫌いになったりしませんから』「……っ」その文字を見た瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、私は朝の部屋で声を上げて泣いた。

あの最悪の三分間の沈黙は、私をバカにしていたんじゃない。取り乱す私を刺激しないように、言葉を発してくれるのを彼はただ静かに待ってくれていたのだ。

それなのに彼は、自分の不器用さを真っ直ぐに謝り、私の傷を本気で心配してくれている。裏で男ばかりの5人の弟を作りながら、何食わぬ顔で穏やかに笑っていた父親とは、全く違う。この人は、自分の非を隠さない。「僕でよければ」というその垢抜けない文字の温もりに、私の頑なな人間不信が、根底からグラグラと揺さぶられていくのを感じた。

それと同時に、胸の奥を激しく揺さぶる、もう一つの大きな気づきが私を襲った。(私はずっと、お父さんにもお母さんにも、バイオリンの弾き方を教えてもらえなかったって、被害者ぶって部屋の片隅に閉じこもっていたけれど……。本当は逆だったんだ)彼に自分の醜い感情をさらけ出し、それを真っ直ぐに受け止めてもらったことで、私の頑なな記憶のフィルターが外れた。

無口でいつも忙しそうだった母親。開かれた世界を飛び回る派手な母の陰で、いつも一人で黙々と木を削っていた父親。私は二人の大人の顔色を窺うあまり、傷つくのが怖くて、自分の方から「バイオリンを教えて」と一言も言わずに、心を閉ざしていたのは私自身だったのだと、初めて気づいた。教わらなかったんじゃない。私が、聞かなかったのだ。もちろん、よその女性との間に男ばかりの5人の弟を作っていた父親を、すぐに許せるわけじゃない。裏切りへの怒りや嫌悪感は、今でも私の胸に消えずに残っている。だけど、あの家での日々を振り返ってみれば、私も父親に対して、あの弾けないバイオリンと同じように「ただ遠くから眺めるだけで、決して心に触れようとしなかった」のではないか。あの無口な背中は、実はヒステリックな母以上に、言葉にできない深い孤独を抱えていたのではないか──。

今になって、私はそんな父親の寂しさに、初めて思いを馳せていた。(もう、逃げるのはやめよう。傷つくのを恐れて、最初から諦めるのは終わりにしよう)お父さんの孤独を半分も理解していなかった自分を認め、私はスマートフォンをきゅっと握り締めた。引け目を感じていたけれど、大好きなバイオリン、環境から逃れるためにやってきたこの東京で、弦楽同好会の仲間たちと真正面から向き合う決意をした。

それからの部室は、私たちのリハビリの場所であり、聖域になった。もし私たちが誰も入らなければ、先輩がたった一人残されるだけで廃部になっていた崖っぷちの同好会。だけど今のそこには、驚くほど熱いエネルギーが満ちていた。

「結衣、そこのフレーズ、バイオリンの弓をもう少し大きく使ってみて!」美咲がチェロの太い音で私を支え、あきが情熱的にバイオリンを響かせる。沙織も恵も、それぞれの楽器を持って必死に私に音を重ねてくれた。幼い頃から弦楽を続けてきた美咲やあきたち4人とは違い、私はこの5人の中でただ一人、バイオリンの演奏経験がなかった。みんなとの練習でどうしても足を引っ張ってしまっている分、せめて何かで貢献したい──。そんな強い焦りを抱えていたある日の放課後、たった一人の同好会の先輩が、一枚の案内チラシを部室に持ってやってきた。「みんなの練習、すごく熱が入ってきたね。もしよかったら、これに応募して初めての発表の場にしてみない?」先輩が机の上に置いたのは、都内にある病院の緩和ケア病棟での、ボランティア演奏会の案内チラシだった。

がん患者の方々など、人生の終末期を迎えた人々の心に寄り添うための小さな演奏会。「恋愛は無理でも、誰かと繋っていたい」と願った私にとって、それはとても意味のある場所に思えた。何より、演奏でみんなに追いつけない私でも、これなら自分の役割が見つけられるかもしれない。「先輩、私、この病院とのやり取りをやらせてください」かつて実家で家事全般を一人で取り仕切っていた生真面目な性格もあって、私は真っ先に手を挙げた。

こうして私がリーダーとなり、病院側と積極的にスケジュールや機材、場所の確認などのやり取りをすべて担当することになった。調整のために、何度もその病院の廊下を訪れた。静まり返った病棟。かすかに漂う消毒液の匂いと、車椅子で行き交う患者さんたちの姿。窓から差し込む静かな光の中で、私は演奏のプレッシャーとは違う、言葉にできない厳粛な空気に包まれていた。

何度もその場所へ足を運び、死と向き合う人々の日常に触れるうち、私の胸の奥に、かつてないほど生々しい感情が突きつけられてきた。(お父さんも、お母さんも……いつか、本当にこの世からいなくなるんだ)それは、恵那の家で一人ぼっちだった頃に漠然と感じていた天涯孤独への不安なんて生ぬるいものじゃなかった。アメリカにいるお母さんも、よそで子供を作ったお父さんも、どんなに憎み、距離を置こうとしても、私の命のルーツである二人の大人が、いつか確実にこの世界から消えて失われてしまう。その絶対的な未来が、目の前の現実として、容赦なく私の心に重くのしかかってきた。

恐怖に足がすくみそうになった時、私の背中を支えてくれたのは、やっぱり同好会の4人の仲間たちだった。「結衣、スケジュール調整ありがとう。あとは私たちに任せて、一緒に最高の音を届けよう」美咲がチェロのケースを開け、あき、沙織、恵がそれぞれの楽器を構えて私に微笑みかける。一人きりで大人の顔色を窺い、誰にも触れようとしなかったあの頃の私は、もういない。お父さんが作った、だけど私と一緒に育ってきたこのバイオリンを、私はもう「眺めるだけの木箱」にはしておかない。

本番の日、私たちは患者さんたちの前で、5つの弦を響かせた。私の不器用なバイオリンの音が、美咲たちの温かいアンサンブルに溶けていく。聴いてくれていたおばあさんが、静かに涙を流して拍手をくれた時、私の胸の奥の冷たい氷が、本当の意味で完全に溶け去っていくのが分かった。演奏が終わり、拍手の中で楽器を収めたとき、私の手はまだ小さく震えていた。けれどそれは、かつてサークル勧誘の男たちに怯えていた時の震えとは違った。自分の不器用さを乗り越え、みんなのアンサンブルに溶け合い、誰かの心に届いたという、確かな熱。

その日の夜、私はおとこ教室の「彼」に、今日起きたすべてのことをLINEで報告した。『足を引っ張ってばかりだったけど、みんなのおかげで、お父さんのバイオリンで初めて誰かを笑顔にできました。あの時、私を置いていかないでくれて、本当にありがとうございました』すぐに既読がつき、彼から返信が来る。『結衣さんが自分の力でその音を響かせられたこと、僕も本当に嬉しいです。これからもそのバイオリンと、素敵な仲間たちを大切にしてくださいね』画面の向こうの彼の文字は、大きな木のように、私のこれからの人生を優しく祝福してくれているようだった。

男なんて必要ない、そう言って心を閉ざしていた私の世界は、彼が開けてくれた窓から差し込んだ光によって、完全に作り変えられた。私はもう、お父さんへの恨みだけに縛られることも、お母さんの老いをただ恐れることもない。

「結衣、本当にお疲れ様! 打ち上げ、何食べる?」部室で楽器を片付けながら、あきがいつもの弾けるような笑顔で聞いてくる。「結衣のスケジュール管理、完璧だったよ。ありがとう」美咲がチェロを抱えながら、優しく微笑んだ。私は自分のバイオリンケースを愛おしく撫でた。

人はいつか一人で旅立つからこそ、今、この場所で、大好きな仲間たちと繋がっているこの瞬間が愛おしい。そう心から思えた。──それから、二年の歳月が流れた。



エピローグ:私自身の音


翌年、たった一人で同好会を守っていた4回生の先輩が卒業した。それからの学生生活、私たちは女性5人だけで崖っぷちの同好会を必死に守り続けてきた。

男性比率が圧倒的に高いこの大学で、私たちの居場所を消さないために、5人で何度も音を合わせ、バトンを繋いできた。

そして、私たちが最高学年である4回生になった、二〇二六年の初夏。私たちの「弦楽同好会」に、最高の奇跡が起きていた。この春、なんと5人もの女子新入生が、私たちの同好会の門を叩いてくれたのだ。3年下にあたる、瑞々しい後輩たち。かつて廃部寸前だった部室は、今や10人の女の子たちの熱気と笑い声で溢れている。「結衣先輩、ここのボーイングはどうすればいいですか?」後輩の女の子から真っ直ぐな瞳で尋ねられ、私は手元にあるバイオリンを構えて見せた。

お父さんが作り、かつては弾き方も分からずに遠くから眺めることしかできなかった、あのバイオリン。今の私の手は、その滑らかな木の質感に何のためらいもなく触れ、後輩たちに自分の音を惜しみなく伝えている。

私はもう、未来の孤独を恐れていない。アメリカにいるお母さんから「少し体調がいいの」と連絡が来た時も、ただ素真に喜ぶことができた。なぜなら私には今、自分の力で美しく鳴らせるようになったこのバイオリンがあり、私を「先輩」と慕ってくれる可愛い後輩たちがいて、何より、あの崖っぷちの時代を一緒に駆け抜けた最高の仲間たちがいるからだ。

「結衣、そろそろ新歓演奏の打ち合わせに行こう!」部室のドアを開けて、チェロのケースを抱えた美咲が優しく顔を覗かせる。隣ではあきが、いつもの弾けるような笑顔で手を振っていた。「うん、今行く」私は自分のバイオリンケースをきゅっと抱きしめ、4人の同期、そして5人の後輩たちに見守られながら、いつものキャンパスの通りへと歩き出した。

通り沿いのガラス張りの綺麗な店舗や、そびえ立つオフィスビル。眩しい初夏の光が、私たちの歩道を白く照らしている。美咲はそっとポケットのスマホに触れ、あきは少し離れたオフィスビルの方をうっとりとした表情で見つめている。5人とも、あの春の日の不器用な女子大生ではない。それぞれのやり方で、今、前を向いて生きている。

「結衣、何見てるの?」美咲とあきが、ふいに私の顔を覗き込んでくる。「ううん、なんでもない。……ねえ、今日の放課後、新入生も一緒にみんなで音を合わせようよ。10人のアンサンブル、絶対に最高の音が鳴ると思うんだ」私が満面の笑顔で言うと、4人は「もちろん!」と声を揃えて笑った。

かつて私の凍りついた世界の扉を開けてくれたきっかけは、画面の向こうの小さな文字だったかもしれない。けれど、その開かれた世界を、10人の賑やかな音楽と確かな温もりで満たしてくれたのは、ここにいる大好きな仲間たちだ。私は初夏の眩しい光の中を、愛おしい仲間たちと共に、力強く踏み出した。

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