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十重奏(デシメット)の止まり木  作者: 海内裏


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第一部 第三編:猫背のヴィオラと、秘められた音

第一部:『弱音器ミュートを外した彼女たち』

第一章:牛タンの国、ざわめきを避ける盾


私の出身は、牛タンの国──宮城県。

実家は地元で愛される精肉店を営んでおり、両親は毎日、威勢のいい声を上げながら包丁を振るっていた。そんな環境で育ったせいか、私はとにかくお肉が大好きだった。美味しいお肉をたくさん食べて健康に育った私は、体力も人一倍あり、小学生まではスポーツで男子に負けたことが一度もなかった。

昔から性格は寡黙で、落ち着いていると言われていた。意味のない無駄口を叩くのは苦手だったけれど、だからこそ、ここぞという時には誰もが納得するような的確な言葉を発する。そんな私を、地元の女友達は「沙織は本当に頼りになる」と慕ってくれたし、私も大好きな彼女たちには、いつも精一杯の温かさで接していた。

音楽との出会いは、小学校の放課後倶楽部だった。初めてバイオリンに触れた時の高揚感は今でも覚えている。けれど、体格の良さに反して私の指先は不器用で、バイオリンの繊細な技術はなかなか身につかなかった。それでも楽器を辞めたくなくて、中学生の部活からはヴィオラへと転向した。主役として目立つバイオリンよりも、中音域でアンサンブルの土台を支えるヴィオラの深く落ち着いた音色が、自分の性格に驚くほどしっくり馴染んだ。ヴィオラは高校でもそのまま弾き続けた。

私の心に、うっすらと暗い影が落ち始めたのは、小学校高学年頃だった。周りの女の子たちよりも早く、自分の体つきに明らかな変化が出始めたのだ。男の子たちと同じように泥まみれで走っていたはずなのに、急に「女性」としての身体が作られていくことに、私は強い戸惑いを覚えた。胸が膨み、身体のラインが丸みを帯びていくのが恥ずかしくて、私はいつしか、その身体を隠すようにいつも猫背で過ごすようになっていた。

中学生の頃には、背も高くなり、体つきはますます女性らしくなっていった。悲しいことに、どれだけ猫背で隠そうとしても、その豊かな身体と、隠しきれない発育の良さは目立ってしまった。校内を歩くだけで、男女問わず、その身体の挙動にじっとりと視線が集まっている気がしてならなかった。特に男の子たちからの、値踏みするような、好奇心と性を含んだ無遠慮な視線が、たまらなく不快で怖かった。

その頃を境に、あんなに大好きだった体育や運動の授業には、一切積極的に取り組めなくなってしまった。目立ちたくない。男の人の視線に晒されたくない。その恐怖が、私をどんどん内向的にさせていった。

大学進学を機に上京した私は、男の人の視線が届かない安全な場所を求めて、女性ばかりの「弦楽同好会」へと駆け込んだ。もし私たちが誰も入らなければ、4回生の先輩がたった一人残されるだけで廃部になってしまうという、崖っぷちの同好会だった。けれどそこには、私の他にも、男の人が苦手だという新入生が4人も集まっていた。美咲、あき、結衣、恵。新入生はこの5人だけ。

私はもちろん、ここでもヴィオラを担当することになった。「沙織のヴィオラ、すごく落ち着く。私たちの音がバラバラにならないのは、沙織が支えてくれてるからだね」美咲がチェロの音を重ねながらそう言ってくれた時、胸の奥がじんわりと温かくなった。

女友達の前でなら、私は猫背にならず、ありのままの自分でいられる。生まれも育ちもバラバラの5人だったけれど、「変わりたい」という共通の痛みを抱える私たちの絆は、すぐに本物になった。

「このまま男の人の視線を恐れて、背中を丸めて生きていくのは嫌だ」全員がそんな焦りを抱えていた時、先輩から教えてもらったのが、女性向けコミュニケーションスクール、通称「おとこ教室」のフレンドリーコースだった。

男の人に媚びるためじゃない。向けられる視線に怯えず、堂々と胸を張って大好きなヴィオラを弾ける自分になるために、私は4人と一緒に、その教室の扉を叩いた。

そして迎えた、講習最終日。一対一で、若い男性のモニターと三分間だけ話すという実践メニュー。

東京で始めた一人暮らし。実家の賑やかさが恋しくて、時折どうしようもない寂しさに襲われることもあったけれど、弦楽同好会で4人の仲間たちと過ごす時間は、私に少しずつ自信と明るさを取り戻させてくれていた。そんな、変わりつつある今の私なら、3分くらいなら男の人の前でも喋れるかもしれない──。そう思って席に着いた私の前に、どこか垢抜けない、不器用そうな青年が座った。

私は身構え、いつものように猫背になって下を向こうとした。けれど、彼が「はじめまして」と声をかけて私を見つめたその瞬間、私の胸に不思議な衝撃が走った。

彼の目は、私を値踏みするような下卑たものではなかった。「彼」の目は、私を性的な対象としての『女性』としてではなく、一人の『人間』として、対等に捉えているように感じられたのだ。その圧倒的な安心感に包まれた瞬間、私の頑なな警戒心がふっと消え去った。いつもなら男の人の前に行くと、向けられる視線が気になり不信感と嫌悪感でいっぱいになってしまうはずの私が、猫背を伸ばし、彼の目を見て、自分の大好きな肉の話や、ヴィオラの話をごく自然に楽しそうに喋っていた。

三分は、あっという間に過ぎてしまった。

席を立つ時、みんなの流れでLINEを交換したけれど、私の心の中にあったのは、あの日までの惨めさや恐怖ではなかった。恋心とか、そういうものでは決してない。ただ、もっと話したかった。

私の身体ではなく、私の内面を真っ直ぐに見てくれたあの人と、もっと言葉を交わしてみたい。そう強く願った私は、その日の夜、自分の部屋のベッドの上で、迷うことなく彼のアカウントへ初めてのメッセージを送っていた。



第二章:戦友との果てなき戦線


彼とのLINEのやり取りは、東京で一人暮らしをする私の寂しさを、驚くほど綺麗に消し去ってくれた。私の体つきを見るのではなく、私の言葉そのものを楽しんでくれる彼との会話は、ただただ心地よかった。

ある夜、メッセージの勢いのまま、私は自分の指が思いがけない言葉を打ち込んでいることに気づいた。『今度, 一緒にご飯に行きませんか』送信ボタンを押した後、私はすぐにお風呂へ向かい、湯船に浸かりながら、自分のしたことに激しい驚きと恥ずさを覚えていた。

男の人を自分から誘うなんて、人生で初めてだった。けれど、それと同時に、胸の奥から湧き上がる何とも言えない興奮が入り混じり、お湯の熱さ以上に身体が火照っていくのを感じた。

ランチデートの場所に私が選んだのは、以前からずっと気になっていた「牛タン食べ放題の店」だった。美咲やあきたちあの4人は少食で、おしゃれなカフェを好む。彼女たちとはなかなか来られないこの場所は、私にとって自分との闘いの場だった。

私は気合いを入れ、胸のラインを隠すためではなく、純粋に戦うために一番動きやすい格好で店へと向かった。店に入り、案内されたテーブル席。網の上に、美しく輝く厚切りの牛タンが運ばれてきた瞬間、私の目が変わった。男の人の視線への嫌悪感も、これまでの劣等感もすべて消え去り、脳内のゴングが鳴り響く。

──闘いの火蓋が切って落とされた。

トングを握り、網の上で肉を躍らせる。

彼は私のその豹変ぶりに引くどころか、目を輝かせて「美味そうですね!」と自らもトングを手にした。私たちはデートという名の戦場にいた。お互いに無駄口は叩かない。ただ目の前の肉に集中し、真っ直ぐに喰らい尽くしていく。

ふと気づくと、私は満足感とともに椅子の背もたれに体を倒していた。

テーブルの上には、私が平らげた山と重なる黒い皿が広がっている。そして驚いたことに、彼の前にも、私と全く同じだけの皿の山がそびえ立っていた。彼は限界を迎えたような顔をしながら、それでも私を見て、やり遂げたというように不敵に笑った。私たちはウーロン茶のグラスを片手に、カチンと音を立てて、二人で勝利の味に酔いしれた。男の人の前で、こんなに胃袋を解放して笑い合えたのは, 人生で初めてだった。

大満足で戦場をあとにした私たちは、近くの楽器屋を少しまわった後、お腹をこなすために身体を動かせるところへ行こうという話になった。街の片隅にあるストリートコート。ボールの弾む音を聞いた瞬間、私の眠っていた血が騒いだ。久しぶりに、一対一の1on1でバスケをする。

最初は男の人と身体が接触することに一瞬の躊躇いがあったけれど、ボールを突いた瞬間、私の身体は完全にあの頃の動きを覚えていた。猫背だった背筋が真っ直ぐに伸びる。高い身長を活かしてインサイドへと切り込み、彼のブロックをかわしてシュートを沈める。彼は本気で悔しがり、本気で私を止めにきた。

そこには、女だからと手加減するような甘えも、いやらしい目線も一切なかった。一人の対等なプレイヤーとして、彼は私とぶつかり合ってくれた。「沙織さん、強すぎます……!」二人で汗だくになりながら、コートの脇で炭酸を飲み干した時、私の心はどこまでも透き通るように晴れ渡っていた。

男の人の身体が怖いんじゃない。私を性的な目で見る視線が嫌だっただけだ。こうして全力でぶつかり合えるなら、男の人だって、最高の「戦友」になれる。別れ際、彼は「次はバスケ、絶対に負けませんから」と笑った。

夕闇が迫る帰り道、私は一人の車内で、静かに次の闘志を心の奥に蓄えていた。

身体のラインを隠すための猫背は、もう要らない。おとこ教室の彼という最高の戦友を得た私は、次なる戦い──弦楽同好会の仲間たちと、このまっすぐ伸びた背筋で、堂々とヴィオラを響かせる次の戦いを見据えていた。



エピローグ:背筋を伸ばした戦線


翌年、たった一人で同好会を守っていた4回生の先輩が卒業した。それからの学生生活、私たちは女性5人だけで崖っぷちの同好会を必死に守り続けてきた。

そして、私たちが最高学年である4回生になった、二〇二六年の初夏。私たちの「弦楽同好会」には、この春、なんと5人もの女子新入生が入ってきてくれた。かつて廃部寸前だった部室は、今や10人の女の子たちの熱気で溢れている。「沙織先輩、ヴィオラの音をもっと響かせるにはどうしたらいいですか?」後輩の女の子から真っ直ぐな瞳で尋ねられ、私は応える。

かつて男の人の視線を恐れて猫背で過ごしていた私は、もうどこにもいない。私はまっすぐに背筋を伸ばし、深く落ち着いたヴィオラの音色を、後輩たちの前で堂々と響かせてみせた。私には、胸を張れる理由があった。今でも私のスマートフォンには、あの「彼」とのメッセージが定期的に届く。『次の牛タン戦線、いつでも受けて立ちます。バスケの自主練も始めました』画面の向こうの彼は相変わらず不器用で、だけどどこまでも誠実な言葉で、私という一人の人間を鼓舞し続けてくれている。

恋心とか、そんな甘酸っぱいものじゃない。私たちは、お互いの限界に挑み、高め合うための最高の「戦友」なのだ。男の人の視線に怯えていた私に、一人の対等な人間としてぶつかり合う楽しさを教えてくれた彼との友情は、今や私の人生の、何にも代えがたい絶対的な盾になっていた。

「沙織、そろそろ新歓演奏の打ち合わせに行こう!」部室のドアを開けて、チェロのケースを抱えた美咲が優しく顔を覗かせる。隣ではあきが弾けるような笑顔で手を振り、結衣も愛おしそうにバイオリンを抱きしめていた。「うん、今行く」私は大切な4人の同期、そして可愛い5人の後輩たちに見守られながら、いつものキャンパスの通りへと歩き出した。

通り沿いのガラス張りの綺麗な店舗の前を通り過ぎる。その中で、トップ講師として堂々とスーツを着こなして輝いている彼の横顔が、一瞬だけ見えた。美咲はそっとポケットのスマホに触れ、あきは少し離れたオフィスビルの方をうっとりとした表情で見つめている。私は歩みを止めず、心の中で彼に向かって、不敵にニィッと笑ってみせた。(今日もいい面構えで戦ってるじゃん。私も負けないよ)「沙織、何見てるの?」美咲とあきが、ふいに私の顔を覗き込んでくる。「ううん、なんでもない。……ねえ、今日の新歓演奏、10人のアンサンブルで最高の音を響かせよう。私のヴィオラで、みんなの土台を完璧に支えるから」私が堂々と胸を張って言うと、4人は「もちろん!」と声を揃えて笑った。

かつて私の凍りついた世界の扉を開け、一人の人間として前を向かせてくれたのは、あの場所にいる最高の戦友だった。引っぱられたその開かれた世界で、共に背筋を伸ばして歩んでくれるのは、ここにいる大好きな仲間たちだ。私は初夏の眩しい光の中を、愛おしい仲間たちと共に、力強く踏み出した。次の戦いへ向けて、私の背筋は、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。

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