第一部 最終編: 消えた音と、贖罪の弦
第一部:『弱音器を外した彼女たち』
第一章:岐阜の片田舎、あの夏休みの終わり
中高の多感な時期を福岡で過ごした私だが、生まれは岐阜県の片田舎だった。
山と川に囲まれたその静かな街で、私は幼い頃、男の子も女の子も関係なく、毎日泥まみれ、真っ黒になるまで一緒になって遊び回るおてんばな子供だった。あの日が来るまでは。
小学5年生の夏休み。照りつける太陽の下、私は5人ほどの友達と一緒に、地元の滝つぼに飛び込んで遊んでいた。初めての場所じゃない。何度もみんなで集まっては飛び込んできた、いつもの、恒例の風景だった。
水から上がった私の目に、一匹の虫が見えた。本当に、ただそれだけだった。「コーキ! 背中に虫がいるよ!」私が大声で叫ぶと、岩の上にいたコーキは「どこどこ?」と言いながら、自分の背中を振り向こうとした。
次の瞬間、コーキの足元が狂い、彼は岩の上から消えた。
──ドボン。いつもより、低く、重く響く水音がした。いくら待っても、コーキは水面に浮かんでこなかった。「コーキ?」「ねえ、冗談でしょ?」みんなで必死に水の中を探した。けれど、滝つぼの底は想像以上に深く、コーキの姿はどこにも見つからなかった。
やがて大人が大勢やってきて、辺りはバタバタと騒がしくなり、私たちは警察の人に促されて一人ずつ家に帰されることになった。迎えに来た両親の車に乗る直前、大人たちの人だかりの隙間から、ブルーシートに覆われた担架が運ばれていくのが見えた。
世界が、一瞬でモノクロに変わった。
誰も、私を責めはしなかった。環境も、学校も、近所の人も。そして、それが何よりも一番辛かった。「恵のせいじゃない」「あれは事故だ」みんなが私を庇うようにそう言った。けれど私は、責めてほしかった。
お葬式で、コーキの両親に胸ぐらを掴まれて「お前のせいでコーキは死んだんだ!」と怒鳴られた方が、どれほど楽だったか分からない。コーキの親御さんは、泣き崩れながら、私に「恵ちゃんにまで、こんな辛い思いをさせてすまないね」と、頭を下げて謝ったのだ。その優しさが、鋭い刃物のようになって私の心をズタズタに切り裂いた。
長い夏休みが終わり、学校が始まると、校長先生が全校集会であの日の事故のことを話したらしい。私は怖くて、学校にはしばらく行くことができなかった。
始業式から2週間ほど経った頃、「これ以上休んだら世間体が悪い」と親がうるさく言うので、私は仕方なく学校へ行くことにした。通学路を歩いていると、脇道から、一人、また一人と私の知っている顔が増えていく。みんなが私を腫れ物に触れるような目で見ている気がして、足がすくんだ。
その時、前を歩いていた、名前も知らない男子生徒のランドセルに、一匹の虫がとまるのが見えた。「あっ……!」声が漏れた瞬間、あの日の光景が、コーキの「どこどこ?」という声が、濁った水音が、一気に頭の中に溢れ出してきた。(私が……私がまた、あの男の子を殺してしまう──!)
「ごめんなさい! ごめんなさい……!」私はその場で頭を抱えて泣き崩れた。パニックを起こした私は、駆け寄ってきた友達に連れられて保健室に運ばれた。それから小学校を卒業するまで、そこが私の教室となった。
中学に上がるタイミングで、私の家族は引っ越すことになった。単身赴任中の父親の新しい赴任先に合わせるという名目だったけれど、きっと私の噂から逃れるためでもあったのだと思う。私と母親、3つ離れた弟は連れられて遠く離れた福岡へ向かった。
新しい土地での暮らしは、息が詰まるものだった。父親はあの日のことをすべて聞いていたのだろう。家の中では、私に対して常に腫れ物に触れるような、不自然な優しさと扱いを続けた。それが私を余計に追い詰めた。
母親は、引っ越しで家事の負担が増えたと言い訳をして、それまで大好きだった茶道や日本踊りの習い事をすべて辞めてしまった。母が暗い顔でため息をつくたびに、私のせいで母の人生を奪ってしまったのだと胸が痛んだ。
さらに、3つ下の弟も新しい環境になかなか馴染めず、友達ができないストレスから、家の中では手がつけられないほど荒れるようになってしまった。(全部、私のせいだ。私がコーキを呼んだから。私が、みんなの人生をめちゃくちゃにしたんだ)罪悪感の塊となった私は、中学校でもほとんどを保健室で過ごした。
自分の部屋で膝を抱え、息を潜めて生きる日々。テレビの画面をぼんやりと眺めることだけが、外界との唯一の繋がりだった。そんなある日、私はアニメの中でコントラバスを弾く、プロ演奏者のキャラクターに出会った。オーケストラの最後列で、他のどんな楽器よりも低く、深く、地響きのように鳴り響く圧倒的な重低音。すべてを包み込んでくれるようなその音色に、私は言葉を失った。
あの滝つぼの底に沈んでいった重い水音すら、優しく包み込んで贖ってくれるような気がした。(この楽器に触れてみたい。この音の中に隠れていたい)そう激しく憧れた私は、腫れ物に触れるような扱いを続けていた父親に、思い切って「サイレントベース」をねだった。私のせいで引っ越しを強いられ、家庭を壊してしまったという負い目があったから、何かをねだるなんて本当は許されないことだったけれど、父は拒むどころか、どこかホッとしたような顔で買い与えてくれた。
高校は誰とも会わなくていい通信制の学校を選んだ。昼間の誰もいない部屋で、私は一人、SNSの演奏動画を見ながら独学で必死に練習を重ねた。ヘッドホンから流れるサイレントベースの重低音だけが、私の犯した罪の記憶を一時だけ忘れさせてくれる聖域だった。部屋に引きこもり、ベースを弾き続ける日々。
だけど、高校の終わりが近づいた時、私の心の中に一つの限界が訪れた。このままこの家にいたら、私は罪悪感に押しつぶされて本当に死んでしまう。「とにかく、この家から出たい」そのためだけに、私は猛勉強をして、地元から遠く離れた東京の私立大学を受験した。合格通知を掴み取り、サイレントベースを抱えて逃げるように上京した。けれど、東京のキャンパスも、私にとっては恐怖の場所だった。
新歓のサークル勧誘。若い男の子たちが笑顔で近づいてくるたびに、私の脳裏にはコーキの寝顔がフラッシュバックして、過呼吸になりそうだった。男の子に関わってはいけない。私が関わったら、また誰かが不幸になる。
男の人のいない安全な場所を探して、私はサークル勧誘の群れをすり抜け、女性ばかりの「弦楽同好会」にたどり着いた。
そこは、新入生が入らなければ先輩が一人きりで廃部になるという、崖っぷちの場所だった。けれど、そこには私の他に、4人の新入生──美咲、あき、結衣、沙織がいた。新入生は、私たち5人だけ。「私……コントラバスなら、少しだけ弾けます」恐る恐る部室のドアを開け、そう切り出した私を、みんなは拍手で迎えてくれた。チェロの美咲、バイオリンのあきと結衣、ヴィオラの沙織。私はもちろん、コントラバスを担当することになった。
「恵ちゃんのコントラバス、すっごくかっこいい! 音に深みが出て、一気に本格的な合奏になるね!」あきがいつもの弾けるような笑顔で褒めてくれた時、私は心の中で、声を上げて泣いていた。みんなはそれぞれの理由で男の人が「苦手」だと言っていたけれど、私だけは違った。私は、自分が怖かった。男の子の命を奪った自分が、こんなに温かい場所にいて、大好きな音楽を楽しんでいいはずがない。
だけど、みんなと過ごすうちに、「変わりたい、過去の呪縛から抜け端したい」という思いが、私の中にも小さく芽生えていった。同好会の先輩から「おとこ教室」の存在を聞いた時、私は4人と一緒に、その教室の扉を叩くことを決めた。
そして迎えた、講習最終日。
一対一で、若い男性のモニターと三分間だけ話すという実践メニュー。私の前に座った「彼」は、どこか垢抜けない、不器用そうな青年だった。だけど、そのどこか素朴で飾らない佇まいが、あきらめきれず失ってしまったコーキにどこか似ていた。
彼の姿を見た瞬間、私の頭の中のブレーキが壊れた。恐怖と罪悪感のあまり頭が真っ白になり、気がつくと私は、目の前の彼に向かって、ボロボロと涙をこぼしながら「ごめんなさい、ごめんなさい……」と、何度も何度も狂ったように謝っていた。
自分でも彼を激しく困らせてしまっていることは十分に分かっていた。だけど、それでもあの日からずっと胸の奥に溜め込んできた謝罪の言葉を、目の前の男の子にぶつけずにはいられなかったのだ。彼は何も言わなかった。取り乱す私を拒絶することもなく、ただ静かに、困ったように眉を下げて私の謝罪を受け止め続けてくれた。
三分が過ぎた瞬間、タイマーの音が鳴り、私は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。周りには美咲やあきたち4人の仲間がいて、初対面の男の子の前で泣き崩れてしまった自分に対する恥ずかしさは確かにあった。けれど、それ以上に私の心を満たしていたのは、かつてないほど強烈な「願い」だった。(コーキに、もっと何かできないか。コーキの……いや、目の前にいる『彼』の笑顔が見たい。あの日、あの滝つぼの夏の日で止まってしまった時間を、もう一度やり直したい──)
そんなすがるような、だけど前を向きたいという思いから、私は彼とLINEを交換した。あの日以来初めて「男の子の笑顔を見たい」と思えた自分に突き動かされるように、私はその夜、彼のアカウントを開いていた。
第二章:仮面のアイドルと、姿見の私
ある夜、私は震える指で彼にメッセージを送った。
あの日、コーキの面影を持つ彼の前で泣き崩れてしまったことへの謝罪と、どうしても彼の笑顔が見たいという、私のわがままな願い。彼は怒るどころか、『僕でよければ、いつでもお話を聞きますよ』と、あの日の沈黙と同じ温かさで私を包み込んでくれた。彼とのやり取りが、東京での私のたった一つの命綱になった。
引きこもりのような生活から抜け出すため、私は必死だった。部屋で通信制高校の頃と同じようにコントラバスの演奏動画を眺めていた時、その合間に流れてくる双子のアイドル動画にふと目が留まった。画面の向こうで弾けるような笑顔を見せる女の子たち。(可愛いとは、こういうことなのかな……)
そんな小さな疑問と憧れを抱いた私は、同じ弦楽同好会の同期で、一番おしゃれで垢抜けているあきに相談してみることにした。「メイク!? 任せてよ、恵ちゃんを世界一可愛くしてあげる!」私の言葉にあきは自分のことのように喜び、さっそくアイドル風のメイクを教えてくれた。
さらに、あきと一緒に服やカバンを見に行くことになった。お店に着くと、私よりもあきの方のテンションが断然高かった。あれこれと服を持ってこられ、まるで着せ替え人形のようになりながら、女の子同士のお出かけってこういうものなのかな、とどこか新鮮な気持ちで納得した。私は、親から新生活用にと多めに預かっていたお金を使い、あきが選んでくれた可愛い服やカバンをいくつか購入した。
あきのおかげで、メイクも一人で完璧にできるようになった頃。私は意を決して、LINEで「彼」をデートに誘い出した。
待ち合わせの駅前。あの日の暗い雰囲気からガラッと変わった私の印象に、彼は驚きを隠さなかった。「すごく雰囲気が変わったね、何があったの?」と驚く彼に、私はただ「東京での新生活だし、おしゃれを楽しんでるだけですよ」とはぐらかすように笑って答えた。
二人で東京の街を歩く。ふとガラス張りのビルに映る二人の姿を見た時、それはまるで輝くアイドルと、それを支えるマネージャーのようだった。なんだか自分が特別な有名人にでもなったかのような高揚感が胸に広がる。
私は隣を歩く彼に向かって、とびきりの笑顔で微笑んだ。(こんなに可愛く着飾った私と一緒なら、彼だって周りの友達に自慢げに誇れるはず)私は、家でのメイク練習の合間にスマートフォンで必死に調べていた映えスポットを次々と周り、彼にたくさんの映え写真を撮ってもらった。SNSで何度も見た、完璧なデートコース。流行りのカフェでカラフルなドリンクを並べ、笑顔をカメラに向ける。
だけど、私の心の奥底には、いつも一人の男の子の影があった。(コーキも、生きていたら、大きくなってこんなデートがしたかったよね……)目の前の彼を喜ばせることは、私の中で、あの日死なせてしまったコーキへの贖罪そのものだった。
夕方、彼と「今日は本当にありがとうございました!」と満面の笑顔で別れた。帰りの電車の中。可愛い服を着た私に送られる周りの視線を背に受けながら、私はどこか満足げな気持ちで、東京の狭いアパートへと帰宅した。
けれど、部屋の鍵を閉めた瞬間、魔法が解けた。慣れないヒールと完璧な笑顔を作り続けたせいで、身体はヘトヘトに疲れ切っていた。着替えて、鏡の前でクレンジングシートを使ってメイクを落とす。渇いた喉を潤そうと、飲み物を飲むためにふっと立ち上がった時、部屋の隅にある姿見が目に留まった。
鏡の中にいたのは、さっきまで東京の街をきらきらと歩いていたアイドルなんかじゃなかった。髪はボサボサで、すっぴんの、目の下にクマを作った、あの岐阜の保健室でうずくまっていた頃と何も変わらない、暗くて惨めな私だった。鏡の中の、自分じゃないような誰か。
(いや、違う。こっちが……本当の私だ)
完璧なデートをして、男の子に笑顔を向けても、私の過去は消えない。私はコーキの代わりに彼を喜ばせようとして、自分自身を偽物の仮面で隠していただけだった。胸を突くような複雑な思いと、どうしようもない疲労感の中で、私は這いずるようにベッドに潜り込み、深い眠りの中に沈んでいった。
──夢を見た。そこは昼間の眩しい街並みで、私は少し大人になったコーキと手を繋ぎ、思い描いていた通りの完璧な映えデートを楽しんでいた。「コーキ、楽しいね」そう言って笑いかけた瞬間、後ろからぐっと、強い力で手首を掴まれた。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、いつもの垢抜けない姿ではなく、まるで男性アイドルのようにきらびやかな衣装を纏った「彼」だった。「離して! 今、私はコーキとデート中なの!」
私は叫んで彼の手を振り払おうとした。けれど、彼は悲しそうな目で私を見つめたまま、どうしても私の手を離そうとしない。その真っ直ぐな視線に耐えきれなくなって、私は自分の胸の奥にずっとあったドロドロとした本音を、彼に向かってぶちまけていた。「離してよ……! どうせ誰も、私のことなんて見てないんだから! 私が可愛くしたって、本当の私を見ている人なんて誰もいないの!」
──ハッと息を呑んで、目が覚めた。気がつくと、私は東京の狭いアパートのベッドの上にいた。 パニックの余韻で心臓がバクバクと鳴っている。夢の中で暴れたせいで、ベッドの上で激しく飛び跳ねた私の身体には、昨日あきと一緒に買ったあの可愛い服が、ぐちゃぐちゃに纏わりついていた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。私はしばらく天井を見つめていた。それから、夢の中の光景を思い出して、口元から「ふっ」と、小さな笑いが漏れた。夢の中の彼は、信じられないくらい眩しい男性アイドルの姿をしていた。けれど、思い返せばその姿は、彼の素朴な良さが全部消えてしまっていて、お世辞にも似合っているとは言えなかったのだ。(全然似合ってない、アイドルの衣装とメイク……)おかしくて、切なくて、涙が出そうだった。そして同時に、すとんと腑に落ちるものがあった。(私も、昨日の街ではあんな感じに見えていたのかな。コーキの幻影を追いかけるために、似合ってもいないアイドルの仮面を無理やり被って、必死に変な笑顔を作って……)
彼は、あの講習の最終日、泣きじゃくる私のすっぴんの顔を見て、それでも怒らずに受け止めてくれた人だ。あきや美咲は、岐阜の保健室にいた暗い私の話を聴いて、それでも「一緒に音楽をやろう」と手を握りくれた仲間たちだ。きらきらしたアイドルの仮面なんて、最初から要らなかったんだ。みんな、本当の私を見てくれている。
私は身体に纏わりついていた服を優しく脱ぎ、姿見の前に立った。そこに映るすっぴんの自分を見て、今度は逃げ出したいとは思わなかった。(もう、コーキの代わりに生きるのはやめよう。私は私のままで、あのみんなと一緒に、大好きな音楽を響かせよう)心からそう思えた私は、スマートフォンを手に取り、彼に宛てて『昨日は本当にありがとうございました。私、自分のままで頑張ってみます』と、短いメッセージを送った。
それからの私は、もう無理なメイクもしないし、背伸びした服を着て街を彷徨うこともしなくなった。動きやすい格好で、同好会の部室へと向かい、自分の身長よりも大きなコントラバスを全力で抱きしめる。結衣がリーダーとなって進めてくれた、病院の緩和ケア病棟でのボランティア演奏。私は5人の中で一番大きな楽器を支えながら、心の底から、ありのままの自分の音を響かせた。
あの滝つぼの重い水音は、今、おばあさんたちの笑顔を包み込む、温かい低音へと生まれ変わっていく。演奏が終わった時、私は誰の身代わりでもない、私自身の本当の笑顔で、美咲たち4人の仲間と一緒に笑い合っていた。
──それから、二〇二六年の初夏を迎えた。
エピローグ:すべてを包む重低音
翌年、たった一人で同好会を守っていた4回生の先輩が卒業した。それからの学生生活、私たちは女性5人だけで、男性比率の圧倒的に高いこの大学の片隅で、大切な居場所を守り続けてきた。
そして、私たちが最高学年である4回生になった、二〇二六年の初夏。私たちの「弦楽同好会」には、この春、5人もの女子新入生が入ってきてくれた。3年下にあたる、まっさらな後輩たち。かつて廃部寸前だった部室は、今や10人の女の子たちの熱気と笑い声で溢れている。
「恵先輩、コントラバスのチューニングを教えてください!」後輩の女の子から真っ直ぐな瞳で尋ねられ、私は笑顔で応える。
今の私は、あきに教えてもらったあの派手なアイドル風のメイクはしていない。
動きやすいシンプルな格好で、自分の背丈よりも大きなコントラバスを堂々と抱きしめている。私はもう、過去の罪悪感に押しつぶされることも、自分のせいで誰かが不幸になるという怯えに引きこもることもない。
福岡にいるお父さんやお母さん、そして弟から「最近みんなでご飯を食べに行ったよ」と楽しそうな写真が届いた時も、胸の奥を痛めることなく、素直に「良かったね」と返せるようになった。私は私のままで、東京で自分の人生をしっかりと鳴らしている。
「恵、そろそろ新歓演奏の打ち合わせに行こう!」部室のドアを開けて、チェロのケースを抱えた美咲が優しく顔を覗かせる。隣ではあきが弾けるような笑顔で手を振り、結衣と沙織も楽器を抱えて待ってくれていた。「うん、今行くね」
私は愛おしい4人の同期、そして5人の可愛い後輩たちに見守られながら、楽器を持っていつものキャンパスの通りへと歩き出した。
通り沿いのガラス張りの綺麗な店舗や、青空にそびえ立つオフィスビル。眩しい初夏の光が、私たちの歩道を白く照らしている。美咲はそっとポケットのスマホに触れ、あきは少し離れたオフィスビルの方をうっとりとした表情で見つめている。5人とも、あの岐阜の保健室や、あの最悪の三分間の講習にいた不器用な女子大生ではない。それぞれのやり方で、今、前を向いて生きている。
「恵、何見てるの?」美咲とあきが、ふいに私の顔を覗き込んでくる。「ううん、なんでもない。……ねえ、今日の新歓演奏、10人のアンサンブルで最高の音を響かせよう。私のコントラバスで、みんなの音を一番底から、優しく丸ごと支えるから」私が満面の笑顔で言うと、4人は「もちろん!」と声を揃えて笑った。
かつて私の凍りついた世界の扉を開け、「男の子の笑顔が見たい」という願いを思い出させてくれたきっかけは、画面の向こうの小さな文字だった。けれど、その開かれた世界で仮面を脱ぎ、私をありのままの姿で10人の賑やかな音楽の中に着地させてくれたのは、ここにいる大好きな仲間たちだ。(コーキ、私、あの日をやり直せたよ。今度は誰も傷つけない、最高の音楽でみんなを笑顔にしてみせるね)心の中でそう静かに呟きながら、私は初夏の眩しい光の中を、愛おしい仲間たちと共に、力強く踏み出した。すべてを優しく包み込む、私の重低音を響かせるために。




