エピローグ 第三章:氷の溶ける音
『エピローグ:ガラス扉の向こう側の世界、あるいは次のノックを待つ夜に』
企業という名の巨大な機構は、個人の感傷をすり潰しながら冷徹に回転していく。転勤先での孤立に怯える社員たちを救うための「人間関係の臨床」──それが私たちの新しい商売、すなわち企業研修だった。
その契約のきっかけを僕にもたらしたのは、ビジネスコースの卒業生である一人の元生徒だった。講習中、アルコール度の低い缶チューハイを挟んで、彼女は僕の「空白」に踏み込もうとしていた。僕が答えに窮して気の利いた冗談ではぐらかしたり、フレンドリーコースでの女性たちの悩みを男の悩みに置き換えて相談したりしていた、あの密室の時間を共に積み重ねてきた生徒だ。僕たちは机を挟んで、お互いの内面にある歪みや形を少しずつ確かめ合っていた。
ある夜、僕たちは教室の檻を離れ、プライベートな夜のデートを重ねていた。お酒を酌み交わすうち、彼女は少し真面目なトーンで、思いがけない話を切り出してきた。「ねえ、あなたのその講習、うちの会社で企業研修としてやってみない?」彼女の勤める会社は全国に支社があり、定期的に転勤があるのだという。その度に、知らない土地で一から人間関係を築き直さなければならないのが、社員たちの大きな悩みだった。あとで知ったが彼女自身も、近く次の転勤が決まっていた。
ビジネスの話が一段落した後、僕たちは場所を変え、少し暗く静かなバーのカウンターに座った。グラスの中で氷が小さく音を立てて溶けていくのを、彼女は静かに見つめていた。いつもは講習の中で課題に挑んでいた「生徒」としての彼女ではない、どこか寂しげな、一人の独立した大人の女性の横顔がそこにあった。何とも言えない孤独の匂いが孕む横顔とは、これほどまでに昏い色気を持つものなのか。僕の思考がその深い陰影に吸い込まれそうになった、まさにその瞬間だった。彼女の手が僕の首筋に回り、引き寄せられるようにして、唇を塞がれた。そこにはかすかなジンの苦味があった。
そこからは、潮が満ちるように自然な、しかし抵抗できない流れだった。会計を済ませ、夜の底を走るようなタクシーの座席で互いの体温を確かめ合いながら、ホテルへと向かう。
その夜、私は人生で初めて「女性」という肉体の迷宮を知った。相手は、僕がずっと講習で向き合ってきた、あの元生徒。何も知らない不器用な僕を、彼女は柔らかな指先と息遣いだけで、静かにリードしてくれた。思うように動けない僕の焦りを察して、彼女が闇の中で小さく苦笑いを浮かべたのを覚えている。その微かな、人間らしい苦笑いが、僕の頑なな緊張を優しく溶かしてくれた。何度も、何度も、夜の深淵に溺れるようにして肌を重ね、気づけば二人は、一つになったまま重い眠りの中に沈んでいた。
しかし、夜が明ければ、現実という光がすべてを白日の下に晒す。あの初めての夜を共にした彼女は、企業研修の事務手続きが終わりプロジェクトが動き出す頃にはもう、この街にはいなかった。彼女は予定通り、東京を出て新しい赴任先へと転勤してしまっていたのだ。
あの夜の後も、彼女が旅立つまでに何度か夜を過ごすことはできた。けれど、お互いに「未来の約束」らしい約束は、ついに何一つ交わすことができないままの、静かな決別だった。それでも、立ち止まっている暇はなかった。
初めての企業研修の日。クライアントの企業へと赴いた。座学を中心に進め、数人の社員に前へ来てもらい、ロールプレイも交えた実践的な講習。終了後、社長から「評判は上々らしいわよ」と告げられた。彼女は遠い街へ行ってしまったけれど、私の手元には、上々な評判を得た企業研修の契約書と、そして何より、一人の女性を本気にさせ、自分を「一人の男」へと変えてくれた、静かで確かな自信だけが残されていた。




