第三部 第三編:リン視点・古都のプライドと、東京の嘘
第三部:『明日の空を見上げた彼女たち』
第一章:フエの風と、折られた翼
ベトナムの古都、フエ。歴史ある美しい建造物と、ゆったりと流れるフォン川に囲まれたその街で、私は何不自由ないお嬢様として育った。
実家はそれなりに裕福で、庭にはいつも南国の花が咲き乱れていた。幼い頃の記憶にあるのは、仕立て屋だった祖母が作ってくれた、純白のシルクのアオザイ。それを身にまとって街を歩くと、誰もが私を振り返った。「リン(Linh)は本当に綺麗だね。将来はきっと特別な女性になるよ」親戚や近所の人たちの言葉は、私の血肉となり、絶対的な自信へと変わっていった。
気が強く、負けず嫌い。欲しいものは泣いてねだるのではなく、自分の美しさと意志で手に入れてきた。十代の後半には、その容姿を活かして地元やハノイでモデルの仕事も始めた。カメラのフラッシュを浴びるたび、世界は私のために回っているとさえ思っていた。「もっと広い世界へ行きたい。私の美しさは、こんな小さな街で収まるものじゃない」二十歳を迎える頃、私は甘い言葉を並べるブローカーの手を借りて、日本へと渡った。古都の誇りと、折れることのない翼を胸に抱いて。
しかし、東京の現実は甘くなかった。一六七センチの身長は、ベトナムでは際立って高くても、日本のモデル業界では決して珍しくない。それ以上に、言葉の壁と文化の違いが私を苦しめた。オーディションすらまともに受けられない日々が続き、私が大切に育ててきたお嬢様としてのプライドは、東京の冷たいアスファルトの上で木っ端微塵に引き裂かれていった。
生きるために、夜通し泥臭く働く日々。気づけば私は二十二歳になっていた。そんな時、駅前の綺麗なビルにある「おとこ教室」というスクールを知った。三十歳ほどの若い女性社長と、一人の日本人男性「彼」の二人だけで運営している、男性心理を学ぶ場所。私は傷ついたプライドを抱え、藁にもすがる思いでその扉を叩いた。
第二章:私の国の言葉、私の街の味
「おとこ教室」で私を担当してくれたの
は「彼」だった。当時の私はまだ日本語が少し苦手で、自分の細かい感情を上手く伝えられずにイライラしていた。
驚いたのは、次のレッスンからだった。彼は自らベトナム語を勉強し、私に寄り添おうとしてくれたのだ。フエの言葉は、ハノイやホーチミンの標準的なベトナム語とは発音も語彙も違う。市販の語学本には載っていない。彼は私とZaloで毎日メッセージをやり取りしながら、「リンの生まれ故郷の言葉」を少しずつ、一生懸命に習得していった。
画面越しに届く彼の拙いフエの言葉に、私の頑なな心が少しずつ解けていくのが分かった。二十三歳になった頃、私は同じアパートでマイたちと暮らすようになり、生活は少し賑やかになった。
けれど、恋愛の悩みは深まるばかりだった。気になった日本人男性とデートをしても、私の気の強さや文化の違いのせいか、いつも上手くいかない。
ある日、私は彼をランチに誘い、ベトナムレストランへ連れて行った。「これ、私の故郷の料理。食べてみて」差し出したのは、米粉の麺料理「ブン・ボ・フエ」。彼は汗をかきながら「美味しい、美味しい」と笑顔で食べてくれた。その頼もしい姿を見ているうちに、私は彼に対して、講師以上の特別な感情を抱き始めていることに気づかない振りをしていた。
第三章:静かなキスと、卒業の夜
また、日本人男性との恋に破れた。
傷心し、ボロボロになった私を、彼はいつものように優しく受け止めてくれた。けれど、傷ついたことで私のお嬢様としてのプライドは暴走した。「自分にはまだ女としての価値がある」と確かめたくて、私は彼に過度なスキンシップを迫った。彼の体に触れ、挑発するように顔を近づける。
しかし、彼は紳士だった。私の悲しい焦りを見透かすように、優しく、けれど一線を越えないように私をいなした。
その紳士的な振る舞いが、逆に私を惨めにさせた。「……なんで? 私じゃダメなの?」堰を切ったように涙があふれ、私はそれまでの不満や、日本での孤独、上手くいかない八つ当たりを彼に畳み掛けた。「もう嫌、みんな嘘つき! 私のことなんて誰も見てくれない!」わめき散らす私の言葉は、突然、熱い感触によって遮られた。
彼は私の口を、静かなキスで塞いだのだ。驚きで目を見開く私を、彼は大きな腕で強く抱きしめた。そして、耳元で優しく囁いた。「リン、おとこ教室を卒業したら、改めて僕から夜のデートに誘わせてほしい。今は、君の先生だから」その言葉通り、講習を無事に修了した夜、私たちは本当のデートをした。彼は私を一人の大人の女性として扱い、私たちはそのまま、静かな朝を迎えた。
エピローグ:朝焼けの告白
カーテンの隙間から、東京の朝の光が差し込んでいた。
隣で眠る彼の寝顔を見つめながら、私は自分の心の中にある、冷徹なまでの真実に気づいていた。彼が目を覚ましたとき、私はまっすぐに彼を見つめ、静かに頭を下げた。
「ごめんなさい。私、本当はあなたのことが好きじゃない」彼は驚くこともなく、ただ静かに私の言葉を待った。私、自信をなくして、どうしても誰かに甘えたかった。ずっと相談に乗ってもらっていた、あの人のことが本当に好きなの。あなたの優しさに甘えて、抱きしめられて……やっと自分の本当の気持ちに気づけた」ひどい女だと罵られても仕方のない告白だった。
しかし、彼は怒ることも、悲しむ表情を見せることもなく、ただ優しく、静かに頷いてくれた。私の心に空いた穴を、彼は自分の身を挺して埋めてくれたのだ。
結局、その時好きだった日本人男性とは上手くいかなかった。けれど、あの痛みを伴う夜を経て、私と彼の関係は、恋人よりも深く、何でも話し合える特別な信頼関係へと変わった。
今、私はマイと一緒に、ガラス張りの綺麗な店舗の前に立っている。ポップアップストアの中で、スーツを着て輝いている彼の姿が見える。「リン、何見てるの?」マイが不思議そうに覗き込んでくる。「ううん、なんでもない」
私は、かつて赤ん坊の時に耳たぶへ深く打ち込まれ、今も私を「完璧な人間」として繋ぎ止めてくれている銀のピアスに、そっと指先で触れた。フエのお嬢様らしい、少しプライドの滲む不敵な、けれど心からの笑顔を浮かべ、彼に向かって小さく手を振った。




