『会い慣れぬ思想』第3話:【神と傲慢】
その部屋には、二つの異なる「正義」が鎮座していた。
妻は清廉な白衣を纏い、胸元の十字架を握り締めて祈りを捧げている。その目は目の前の夫を見ておらず、さらに高い場所にある「天」だけを仰いでいた。
「すべては神の御心のままに。あなたの不実も、この家庭の崩壊も、私が背負うべき試練なのです」
対する夫は、高価なデスクチェアに深く腰掛け、自作の投資グラフを眺めて鼻で笑った。
「神だと? 滑稽だな。この世界を動かしているのは、私の知性と、私が積み上げた数字だけだ。私は私自身の力で、運命さえもコントロール下に置いている。君のような盲信者に、私の価値が分かってたまるか」
神の奴隷と、自称・世界の創造主。二人の間に「人間」の言葉は存在しなかった。
調停員は、ステンドグラスから差し込む光の陰から、音もなく現れた。
今回の「彼」は、司祭のようでもあり、冷徹な執行官のようでもある、純白のスーツを着ていた。
「絶対者への帰依、および自己への過剰な陶酔。お二人の視座はあまりに高く、地上に住む他者の存在を完全に忘却しておられる」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、二つの、王冠を模したような金色のヘッドギアだった。
「お二人の望みは、それぞれの『絶対』が証明されること。当方は、それを物理的な空間として提供いたします。……名付けて、『至高の玉座』でございます」
器具が装着された瞬間、部屋の壁が、床が、天井が、音を立てて崩落し始めた。
しかし、それは破壊ではなく、再構成だった。
「な……光が……。神の御許に、召されるというのですか!」
妻が歓喜に震える。彼女の周囲には、眩いばかりの光の壁が立ち上がり、外界を一切遮断した。
「ふん、ようやく私の才能に見合うステージが用意されたか」
夫もまた、自分を中心に構築される無限の鏡の世界に、満足げに微笑んだ。
調停員は、光の中に消えゆく二人に、最後のアナウンスを行った。
「奥様、そこはあなたの望んだ天国です。あなたの祈り以外、何も聞こえない。あなたの神以外、誰もいない。永遠の賛美の中で、あなたは救われ続けるでしょう。……ただし、あなたの『自己犠牲』を称賛してくれる観客は、もう一人もおりません」
「夫様、そこはあなたの望んだ完璧な王国です。あなたの意志がすべてを支配し、あなたの思考だけが真実となる。……しかし、そこには、あなたに従うべき『無能な大衆』も、あなたを仰ぎ見る『愚かな妻』も存在しません」
妻の周囲は、あまりに純粋な光に満たされ、影を失った。そこでは祈りの言葉さえも反響せず、静寂という名の虚無が彼女を包んだ。彼女の信仰を証明する「他者の罪」が消失した時、彼女のアイデンティティは透明な霧へと変わった。
夫の周囲には、無限の自分の鏡像が映し出された。彼は自分を称え続けたが、返ってくるのは自分自身の声の反響だけだった。称賛を浴びせる他者がいなくなった時、彼の「偉大さ」は比較対象を失い、ただのゼロへと収束した。
調停員は、もはや誰もいない、瓦礫の山となった元・リビングの跡地に立っていた。
「神になろうとした者と、神に従おうとした者。どちらも、自分以外の存在を認めなかった。ならば、自分だけの世界で永遠に過ごすのが、最も公平な調停でございます」
調停員がアタッシュケースを閉じると、そこには、二つの小さな、輝く水晶球だけが残されていた。
一つの球体には、光の中で祈り続ける小さな影が。
もう一つの球体には、鏡の中で威張り続ける小さな影が。
彼はそれをポケットに放り込み、夜の帳へと消えていった。




