『会い慣れぬ思想』最終話:【天然と家畜】
その庭には、明確な境界線があった。
夫の管理する半分は、芝一本の長さまで切り揃えられ、害虫の一匹も許さない、無菌室のような人工庭園だった。対する妻の半分は、雑草が猛り、名もなき花が咲き乱れる、混沌とした藪と化していた。
「見てくれ、この醜い庭を。君の言う『自然』とは、ただの手抜きと無秩序だ。管理されない生命に、何の価値があるというんだ」
夫は清潔なゴム手袋をはめ、防虫剤を撒きながら吐き捨てた。
「あなたの庭こそ、死んだ剥製と同じよ。管理され、去勢され、飼い慣らされた美しさに、何の命が宿るというの? 私はただ、あるがままに生きたいだけ」
妻は泥にまみれた手で、枯れかけた蔓を愛おしそうに撫でた。
規律によって守られたい夫と、野生によって解き放たれたい妻。
二人の思想は、互いを「汚物」と「監獄」として認識し、もはや修復の余地はなかった。
調停員は、生い茂る藪と、冷たいコンクリートの境目に立っていた。
今回の「彼」は、泥に汚れた作業着を着ているようにも、真っ白な白衣を着ているようにも見えた。その手には、巨大な「檻」のような、あるいは「温室」のような模型が握られている。
「生命の在り方における決定的な乖離。一方は『飼育』による安寧を、一方は『野生』による純粋を求めておられる」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、二色の粉末だった。
一つは銀色に光る、無機質な金属粉。もう一つは、腐葉土のような匂いのする、黒い土。
「お二人の望みは、互いの干渉を排し、理想の生態系に没入すること。当方は、それをこの場で、最終的な形態へと進化させます」
調停員が二色の粉を空中に撒くと、庭の空気が一変した。
「夫様、あなたは望み通り、完璧な管理下に置かれます。そこでは、あなたの呼吸、体温、思考さえもが最適化され、一切の不安や不潔から隔離されます。……完璧な『家畜』としての至福でございます」
夫の足元から、銀色の金属繊維が伸び、彼の肉体を包み込んだ。それは、あらゆる外部の刺激を遮断し、栄養を直接流し込み、彼を「生かしておくこと」だけに特化した、究極のゆりかごとなった。夫は苦痛も飢えも知らない、清潔な繭の中へと飲み込まれていった。
「そして奥様、あなたは望み通り、一切の管理を排した世界へ放たれます。そこには、あなたを縛る屋根も、あなたを保護する壁もありません。……完璧な『天然』としての純粋でございます」
妻の周囲の家屋が、壁が、衣類が、砂のように崩れ落ちた。彼女は荒れ狂う嵐と、牙を剥く獣たちが潜む、剥き出しの荒野の真ん中に放り出された。彼女を愛でる者も、彼女に食事を与える者もいない。ただ、弱肉強食という名の、冷酷な「あるがまま」だけがそこにあった。
調停員は、静かになった庭を眺めた。
「家畜は、自由と引き換えに『明日』を保証され、天然は、明日を捨てることで『自由』を得た。どちらも、相手という『不純物』がいなくなったことで、自らの思想の極北に到達されました」
繭の中で、管理され尽くした平穏に退屈し、発狂していく夫。
荒野で、野生の冷酷さに震え、ただ一欠片の「管理されたパン」を求めて力尽きていく妻。
調停員は、空になった庭に背を向けた。
「会い慣れぬ思想。……どちらが幸せか、決めるのは当方の仕事ではありません」
彼が去った後、そこには、銀色の繭が一つと、風に舞う一握の砂だけが残された。
『会い慣れぬ思想』 ――完――




