『役割の終焉』第1話:【理想の父と理想の母】
その家の玄関には、溢れんばかりの幸福がディスプレイされていた。
完璧に手入れされた庭、季節ごとのリース、そしてSNSに毎日投稿される「丁寧な暮らし」と「理想の家族」の記録。
しかし、一歩家の中に入れば、そこには言葉を失った二人の男女が、死んだ魚のような目でスマートフォンを眺めているだけだった。
「今日の投稿、いいねが過去最高よ。これでまた『憧れの母親』としての地位が固まったわ」
「僕の方もさっき、部下から『理想の上司であり理想の父親』だと絶賛されたところだ」
二人は互いの顔を見ることなく、ただ自身の「アカウント」の成長だけを確認し合っていた。中身はとうの昔に摩耗し、空っぽの器だけが家庭という名のセットに立っている。
調停員は、キッチンカウンターの端に座っていた。
今回の彼は、一切の装飾がない無地のスーツを切り出したような、影の薄い男だった。
「お二人の悩みは、役割を演じるコストが、本来の自我を圧迫しすぎていること。……ならば、その『役割』を独立させてしまえばよろしい」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、二つの透明なフィルムだった。
「人格剥離装置でございます」
彼がフィルムを二人の背後に貼り付けると、奇妙なことが起きた。
夫婦の背中から、皮を剥ぐような音を立てて、光り輝く「何か」が剥がれ落ちたのだ。
それは、夫の形をした「理想の父」と、妻の形をした「理想の母」だった。
剥離した二体は、本物よりもずっと鮮やかな色彩を放ち、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「さあ、これで解放されました。あなた方の役割は、これから彼らが完璧に遂行いたします」
光り輝く「理想の父」は、慣れた手つきで子供の宿題を見始め、「理想の母」は鼻歌混じりに最高級のディナーを作り始めた。家の中は、かつてないほどの多幸感に包まれる。
一方、剥がされた後に残った「元の二人」はどうなったか。
彼らは色を失い、輪郭がぼやけ、背景に溶け込むような薄い存在へと変わっていた。
「おい、飯はまだか?」
男が「理想の母」に声をかける。しかし、彼女は彼を無視して、子供に優しくスープを差し出した。
「私よ、私が見えないの?」
女が子供の肩を叩こうとするが、その手は空を切り、子供は「お母さんの料理、最高!」と、光り輝く偽物に向かって笑いかけた。
調停員は、透明になりゆく二人を、無関心に見つめた。
「お忘れですか。世間が、そして家族が愛していたのは、あなた方という『中身』ではなく、その『役割』の方だったのです。役割を切り離した以上、残ったあなた方は、この家庭における『不要なノイズ』でしかありません」
光り輝く理想の夫婦が、玄関のドアを開けた。
「さあ、ゴミを出しに行きましょうか、あなた」
「ああ、そうだね。不法投棄はいけないからね」
彼らは、実体としての重みを失った「元の二人」を、古い家具か何かのようにひょいと持ち上げ、家の外へと放り出した。
夜の路上に放り出された二人が、必死に窓を叩く。
しかし、家の中では「理想の家族」が、完璧なライティングの下で、幸せそうな笑い声を上げ続けていた。通行人の誰も、足元にうずくまる、透明な二人の男女に気づくことはなかった。




