『会い慣れぬ思想』第2話:【男と女】
その家には、言葉よりも鋭い「沈黙」が充満していた。
ダイニングテーブルの端と端。夫は新聞を広げて自身の殻に閉じこもり、妻は手元のカップを凝視して、そこに映る自分以外のすべてを拒絶していた。
「結局、あなたには私の痛みなんて分からないのよ」
妻が零した言葉は、もはや対話を求めてはいなかった。
「分かろうとしているさ。だが、君の論理はいつも感情に支配されている。僕には理解できない」
夫の返答もまた、理解という名の諦めに満ちていた。
男であることの論理。女であることの情理。
二人は同じ屋根の下にいながら、別の重力が働く惑星に住んでいるかのようだった。
調停員は、キッチンの影から滑り出すように現れた。
今回の「彼ら」は、性別を判別させない、中性的で滑らかな顔立ちをしていた。声さえも、高いのか低いのか判然としない。
「生物学的な差異、およびそれに伴う共感能力の欠如。これこそが、あらゆる不和の根源でございますね」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、二つのヘッドセットのような器具だった。それは半透明のゼリー状の物質でできており、脈動するように微かに震えている。
「お二人の悩みは、相手が自分ではないという、あまりに素朴な事実に基づいています。当方は、これを技術的に解消いたします。……完全なる『性差の消去』でございます」
夫婦が戸惑う間もなく、器具は磁石のように二人の頭部へ吸着した。
「な……視界が、混ざる……」
「体が、自分のものじゃないみたい……」
調停員が装置を起動させると、夫の脳に妻のホルモンバランスが、妻の脳に夫の神経伝達物質のパターンが、双方向に、かつ暴力的な速度で流し込まれた。
しかし、それは「理解」という生ぬるいものではなかった。
「お二人を、単一の『個』として同期させました。今、あなたたちは男でも女でもありません。互いの思考、生理現象、過去のトラウマ、肉体的苦痛。すべてが一本のケーブルで繋がった、一つの閉じた回路です」
夫の頭の中に、経験したことのない生理の重苦しさと、言葉にできない不安が押し寄せる。同時に、妻の頭の中には、逃げ場のない社会的責任の重圧と、感情を殺すための冷たい回路が構築される。
「やめて! 苦しい、こんなにドロドロしたものが頭の中に……!」
「黙れ、僕の中に入ってくるな! 君の絶望を、僕の脳で処理しきれない!」
混ざり合う意識の中で、二人はさらに激しく拒絶し合った。相手を知ることは、相手を愛することではなく、相手という「異物」に自分の中を侵食される恐怖に他ならなかった。
調停員は、部屋の中央に立ち、冷たく言い放った。
「おめでとうございます。これで『分からない』という言い訳は通用しません。あなたたちは今、世界で唯一、相手を完璧に理解した存在です。……しかし、いかがですか? 理解の果てにあるのは、救いではなく、共食いの衝動ではありませんか?」
一つに繋がれた二人の男女は、テーブルの上でのたうち回った。
相手の苦痛が自分の苦痛としてフィードバックされ、叫び声は増幅し、無限のループとなって彼らを焼き切っていく。
「さて、調停は完了です。これより、お二人の意識を完全に融合したまま、物質的に一箇所のセルへ隔離いたします。他者の介在しない、完璧な共感の世界へ」
調停員が部屋の明かりを消すと、そこにはもはや「男」も「女」もいなかった。
ただ、互いの差異に耐えきれず、自分自身を呪い続ける、ひと塊の「絶望」があるだけだった。
廊下に出た調停員は、自身の滑らかな顎を撫でながら呟いた。
「……会い慣れぬ思想。やはり、混ざり合うべきではありませんでしたね」




