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『会い慣れぬ思想』第1話:【右と左】

その部屋の空気は、物理的な重さを持っているかのようだった。

 長テーブルを挟んで座る夫婦の間には、離婚届ではなく、数冊の分厚い理論書と、おびただしい数の反対声明文が散らばっている。

 

「君の思想はあまりに過激で、破壊的だ。伝統を重んじない家庭に、子供の未来などあるものか」

 夫は厳格な背広に身を包み、自らの正義を固く信じている。

「伝統という名の抑圧でしょう。あなたの硬直した思考こそが、この家を監獄に変えたのよ」

 妻は冷笑し、夫の守ろうとする秩序を真っ向から否定する。

 

 二人の間に共通の言葉はもう残っていなかった。あるのは、右と左という、決して交わることのないベクトルだけだった。

 

 調停員は、部屋の隅の暗がりに立っていた。

 今回の彼は、どちらの側にも属さないことを象徴するかのような、くすんだ灰色のレインコートを着ていた。

 

「お二人の主張は、どちらも論理的に完成されており、それゆえに共存は不可能です。当方は、思想の自由を最大限に尊重し、完璧な隔離ゾーニングを提案いたします」

 

 調停員がアタッシュケースから取り出したのは、一本の「チョーク」だった。しかし、それは石灰ではなく、未知の鉱物でできているかのように、不気味な鈍い光を放っていた。

 

「この線が、お二人の世界の境界線ボーダーとなります」

 

 調停員は床に膝をつき、夫婦の座る椅子の真ん中に、一本の線を引いた。

 チョークが床を擦る音は、まるで世界のひび割れる音のように、部屋中に響き渡った。

 

 線が引かれた瞬間、異変が起きた。

 夫から見て「左側」にあるすべての風景が、陽炎のように歪み、色彩を失った。妻から見て「右側」にある夫の姿もまた、厚い霧の向こう側へと追いやられた。

 

「な……何だ、これは。彼女の声が聞こえない」

 夫が叫んだ。しかし、彼の声は右側の壁に跳ね返り、自分自身の耳にだけ届く。

「あなた、どこにいるの? 姿が見えないわ!」

 妻が手を伸ばすが、指先は境界線の上で透明な壁に突き当たり、それ以上先へは進めない。

 

 調停員は立ち上がり、静かに説明を続けた。

「この線より右側は、夫様の望む『純粋なる伝統と秩序の領域』です。ここには、あなたの信じる価値観を脅かす他者は一人も存在しません。そして左側は、奥様の望む『束縛なき変革と自由の領域』。あなたの思想を否定する声は、二度と届きません」

 

 調停員は、部屋の入り口にチョークでさらに線を書き加えた。

 

「完璧な思想とは、他者の介在を許さない孤独な円環です。お二人は今、ご自身の理想郷の中に、完全に、そして公平に閉じ込められました。……おめでとうございます。これで、あなたの正しさを汚す者は誰もいません」

 

 境界線の右側では、夫が自らの正論を虚空に向かって演説し続けている。

 境界線の左側では、妻が自由の凱歌を、誰もいない静寂の中で叫び続けている。

 

 調停員は灰色のコートの襟を立て、部屋を出た。

 ドアを閉める直前、彼は手帳に一言だけ書き添えた。

 

『調停結果:完全なる正義の達成。なお、観測不能につき終了。』

 

 廊下に出た彼の足音は、右でも左でもない、ただ中央の無音へと消えていった。

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