短編:【昇降】
そのマンションのロビーには、二つの派閥が睨み合っていた。
五十階に住む夫と、かつてその妻であり、離婚後は十階のユニットに移ることを主張する女。そして、彼らに同調する高層階と低層階の住民たちだ。
「格差だよ。僕と同じエレベーターに乗るなんて図々しい。君は下層階に相応しい、鈍くさい各駅停車がお似合いだ」
夫が冷笑すると、妻も負けじと言い返す。
「見栄を張るのもいい加減にして。あなたがその高い場所から見下ろしているのは、ただの虚栄心という名の煙よ」
調停員は、エレベーターホールの影から音もなく現れた。
今回の彼は、金ボタンのついたポーターのような制服を着ていたが、その顔はやはり、蝋人形のように無機質だった。
「お困りのようですね。高度による意識の乖離、および動線の不一致。当方が、完璧な垂直分割をお手伝いしましょう」
調停員は銀色のアタッシュケースから、金色の「行先ボタン」が一つだけついた奇妙なリモコンを取り出した。
「このマンションのエレベーターを、お二人の『プライド』と『現実』に即して、再定義いたしました」
調停員がボタンを押すと、ホールの中央にある特等席のエレベーターの扉が静かに開いた。
「さあ、お二人ともお乗りください。これこそが、一切の混雑も、一切の妥協もない、究極の個別輸送システムです」
夫婦は訝しみながらも、豪華な内装の籠へと乗り込んだ。
扉が閉まると同時に、かつてないほどの滑らかな加速が始まった。
「ほう、速いじゃないか。やはり僕に相応しいのはこの速度だ」
夫が満足げに言った。しかし、籠は五十階を過ぎても止まらない。
「おい、どこまで行くんだ? 屋上も過ぎたぞ!」
妻も、足元の床が奇妙に透けていくのに気づき、悲鳴を上げた。
「見て、下の階が……十階がどんどん遠ざかっていくわ!」
調停員の声が、スピーカーから淡々と響いた。
「夫様、あなたは誰よりも高く、誰にも邪魔されない場所を望まれました。ですから、この籠の停止階は『無限』に設定してあります。あなたは永遠に上昇し続け、誰よりも高い場所へ到達するでしょう」
「ふざけるな! 降ろせ! どこまで行くつもりだ!」
「そして奥様。あなたは夫を見上げ、その傲慢さを告発し続ける人生を選ばれました。この籠の床は、あなたの望み通り、常に『下層』を監視できるよう透過設定にしてあります。しかし、残念ながら下りるボタンは搭載しておりません」
エレベーターは、大気圏を突き抜け、星々の輝く静寂の世界へと加速していく。
「高度が上がるにつれ、お二人の間の空気は希薄になり、やがて音も届かなくなるでしょう。これこそが、物理的、精神的、そして社会的な、完璧なる階層の分断です」
地上では、調停員がエレベーターの表示板を見上げていた。
そこには、階数を示す数字の代わりに、横倒しになった「∞(無限大)」の記号が、静かに点滅していた。
「次のお客様は……地下にお住まいの方でしたかな」
調停員は一度も振り返ることなく、夜の街へと消えていった。




