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『平穏の歪み』第7話:【石油(ナフサ)の静脈】

その対立は、世界の「喉元」であるホルムズ海峡で火を噴いた。


「我が国の主権と尊厳を脅かす悪魔には、この海峡を渡る一滴の油さえも与えない」

 イランの指導者は、強固な信仰と反米の理念を掲げ、海峡を完全に封鎖した。彼らにとっての平穏とは、外圧に屈せず、聖なる革命の地を守り抜くことだった。


「国際社会のフリーダム(航行の自由)を脅かす暴挙は断じて許さない。圧倒的な正義の力で、秩序を回復する」

 アメリカの指導者は、空母打撃群を展開し、正義の鉄槌を下すべく引き金を引いた。彼らにとっての平穏とは、自らが頂点に立つ世界の自由貿易システムを維持することだった。


二つの巨大な正義がペルシャ湾で衝突した瞬間、世界の「静脈」がドクンと音を立てて止まった。


その影響は、戦場から遠く離れた日本の、ある普通の家庭に直撃した。

 主婦のミサトは、スーパーの棚の前で途方に暮れていた。

「……ない。お肉も、野菜も、ラップも……何もない」


中東の石油供給が止まったことで、原油から精製される「ナフサ(粗製ガソリン)」が完全に枯渇したのだ。ナフサはプラスチック、合成繊維、医療器具、果ては食品の包装材に至るまで、現代社会のあらゆる「形」を作る基礎素材だった。

 プラスチック容器が作れないため、納品される乳製品や惣菜はゼロ。レジ袋はおろか、商品を包むフィルムさえない。


調停員は、スーパーの空っぽになったプラスチックケースの棚の影から、静かに現れた。

 今回の「彼」は、全身がドロドロとした黒い原油でできたスーツを着ていたが、その指先は、形を保てずに溶け落ちる透明なプラスチックのようになっていた。


「国家の面子、およびサプライチェーンの崩壊。……おいたわしいですね。大国たちが火花を散らすとき、その火を被るのは、日常という『薄いプラスチックの膜』に守られていた、あなた方の生活なのです」


調停員が、空のケースの床に触れた。

 すると、ミサトの目の前の世界から、急速に「色」と「形」が失われ始めた。


「システム接続。名付けて『ナフサの渇き』。遠く離れた二国の正義の温度を、そのままあなた方の日常の『物質の崩壊』として同期させます」


街は一瞬でパニックに陥った。

 医療現場では、ナフサ不足で使い捨ての注射器や点滴チューブ、人工呼吸器のプラスチック部品が底を突き、医師たちが悲鳴を上げている。物流では、タイヤの合成ゴムが作れず、トラックが次々と立ち往生していく。

 ミサトが家に帰ると、愛用していた家電のプラスチックボディが、まるで熱を帯びたようにドロドロと溶け出し、ただの基盤の山へと変わっていた。


「どうして……私たちは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな普通に暮らすことさえ許されないの!?」

 ミサトは、形を失っていくリビングの床で泣き崩れた。


調停員は、窓の外の、機能停止していく都市を見下ろして微笑んだ。


「イランの正義も、アメリカの正義も、あなた方の『便利な生活』という犠牲の上にしか成り立たないのです。彼らが一歩も引かないのは、自らの正しさに酔いしれているから。……そしてその代償として、世界は100年前の『石と木の世界』へと巻き戻されていくのです」


ペルシャ湾では、今日も激しい砲撃の音が響いている。

 イランは信念を貫き、アメリカは秩序を守るために戦い続けている。どちらも完璧に、自らの「正義」の中で平穏だった。


しかし、その正義の弾丸が飛び交うたびに、遠く離れた世界中の街から、1つのボトルが、1つの医療器具が、1つの日常の便利さが、音もなく溶けて消えていく。


調停員が去った後、人々はプラスチックという「魔法の素材」を失った、冷たく不便な世界で、ただ中東の空を睨みつけることしかできなかった。大国たちの言う「世界の平和」の裏で、自分たちの「平穏な暮らし」が、二度と再生されないプラスチックのゴミのように使い捨てられたことを、誰もが痛感していた。

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