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『平穏の歪み』最終話:【才能の残照】

その街の夜は、二つの異なる孤独で満たされていた。


二十六歳のハルトは、薄暗いアパートの床に座り込み、書き殴ったノートを見つめていた。彼は「いつか世界を驚かせる表現者になる」という夢を追い続けていた。しかし、現実は残酷だった。彼の作るものには誰の目も留まらず、ただ時間だけが砂のように過ぎていく。

「僕には、まだ見つかっていないだけの才能があるはずなんだ。こんなところで、普通の人間として終わりたくない……!」

 彼にとっての平穏とは、いつか「特別な何者か」として認められる未来の夢の中にしかなかった。


同じアパートの隣の部屋では、同い年のサラリーマン、カズキが、コンビニの弁当を静かに口に運んでいた。彼は幼い頃に自分の限界を知り、夢を見ることをとうに辞めた「才能のない一般人」だった。

「明日もまた朝から仕事か。まあ、普通に暮らせていれば、それでいいや」

 カズキにとっての平穏とは、劇的なドラマなどない、ただ平坦で確実な「今日」の繰り返しだった。


調停員は、二人の部屋を隔てる、たった一枚の薄い壁の「隙間」から、音もなく現れた。

 今回の「彼」は、色彩をすべて失ったかのような、透明なガラスのシルクハットとコートを身に纏っていた。その手には、一本の「天秤」が握られている。


「傲慢なまでの理想、および卑屈なまでの現実。……お互いに、隣の部屋の人間がどのような地獄を生きているかを知らない。当シリーズの締めくくりとして、最も純粋な『等価交換』を執行いたしましょう」


調停員が天秤を傾けると、ハルトの部屋の「夢」の光と、カズキの部屋の「現実」の影が、壁を透過して混ざり合った。


「最終調停:『夢の完全同期』。夢見る者の渇望と、一般人の安寧。その境界線を消失させます」


次の瞬間、隣り合う二人に決定的な変容が訪れた。


ハルトの脳内に、突然、圧倒的な「本物の才能」が流れ込んできた。言葉が、イメージが、旋律が、宇宙の爆発のように彼の五感を満たす。

「書ける……! 作れる! これだ、これが僕の求めていた『本物』の輝きだ!」

 ハルトは狂喜し、ペンを走らせた。しかし、彼がその最高傑作を完成させた瞬間、彼の身体から「生きるための気力」が急速に失われていくのに気づいた。


「ハルト様。あなたが手に入れたその『本物の才能』は、お隣のカズキ様が一生をかけて味わうはずだった『ささやかな日常の幸福リソース』をすべて前借りして燃焼させているのです。輝けば輝くほど、あなたの現実の命は削られます」

 調停員の声が、ハルトの脳内に冷たく響く。しかし、ハルトは血を吐きながらも笑った。「構わない……! 凡人として生きるくらいなら、僕は一瞬の星になって死んでやる!」


一方、隣の部屋のカズキは、突然、胸を掻きむしるような「激しい焦燥感」に襲われていた。

 これまで満足していたはずの、温かい弁当、静かな夜、安定した仕事。そのすべてが、耐えがたい「退屈な泥」のように感じられ、狂いそうになる。

「嫌だ……! 僕はこんな、誰の記憶にも残らない歯車として死にたくない! 何か、何か特別なものを遺さなきゃいけないんだ!」


カズキの心は、ハルトから逆流してきた「夢を見るという呪い」に完全に侵食されていた。だが、彼にはそれを形にする「才能」がひとかけらもない。ただ「何者かにならなければならない」という狂気的な焦りだけが、彼の平穏だった脳をズタズタに引き裂いていく。


夜が明ける頃、天秤の針は中央で止まった。


ハルトの部屋には、世界を揺るがすほどの美しい傑作の原稿と、それを遺して完全に燃え尽き、二度と動かなくなった青年がいた。彼は特別になれた。しかし、その代償として、それを噛み締めるはずの「未来の人生」をすべて失った。


カズキの部屋には、何もない壁に向かって、血の出るような爪で「僕は天才だ」と無意味な文字を書き殴り続ける、完全に正気を失った男の姿があった。彼は生きている。しかし、二度とあの「普通の幸せ」に満ちた平穏な朝を迎えることはできない。


調停員は、静まり返ったアパートの廊下に立ち、空中に「全巻精算」の文字を浮かび上がらせた。


「夢を見ることは美しく、現実を生きることは尊い。しかし、そのバランスが歪んだ時、人はどちらを向いても地獄を見るのです。……これにて、すべての感情の等価交換を終了いたします。お二人とも、お幸せに」


朝日が街を照らしたとき、二人の若者の「歪んだ平穏」は、誰に知られることもなく、静かに完成していた。

 世界は今日も、数え切れない夢と、それ以上に無数の凡庸な現実を飲み込みながら、何事もなかったかのように動き続けている。

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