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『平穏の歪み』第3話:【画角の犠牲者】

その男、カズオの人生は、退屈なほどに平穏だった。

 毎日同じ時間に起き、同じ道を歩いて通勤し、真面目に仕事をこなす。目立つこともなければ、誰かに迷惑をかけることもない。彼はその「透明な日常」を愛していた。


あの日も、いつも通り駅前のベンチで、妻が作ってくれた弁当を食べていた。ただ、ほんの少しだけ、疲労からうつむき加減で、箸の進みが遅かった。ただ、それだけだった。


その時、彼の前を、自撮り棒を持った若い女が通り過ぎた。

「みんなお疲れ様〜! 今日も最高のロケ中! ……って、見て。都会の片隅に、哀愁漂うおじさん発見。リアルな『現代社会の縮図』って感じじゃない?」


女はインフルエンサーだった。彼女にとって、カズオは自分の「エモい動画」を引き立てるための、ただの背景(フリー素材)に過ぎなかった。動画は瞬く間に拡散され、数百万回再生された。


調停員は、カズオがいつも通り歩いていた、静かな遊歩道の街灯の影から現れた。

 今回の「彼」は、テレビカメラのレンズのような、無機質な巨大な単眼を顔の中央に持っていた。手には、動画の編集ソフトを模した、鋭利なカッターを握っている。


「意図しない記号化、および大衆による消費。……おいたわしいですね。ネットの海に放流された『切り取り(クリップ)』は、もはや現実のあなたを追い越してしまいました」


調停員がカッターを空間に突き立てると、カズオの周囲の景色が、スマートフォンの画面と同じ「縦長の画角(9:16)」に強制的に切り取られた。


「フォーカス・ロック。これより、あなたの人生を、あの動画の中の『哀愁漂うおじさん』という役割に完全同期いたします」


「な、なんだこれは……! 視界が狭い、外側が見えない!」

 カズオが叫ぶが、彼の声は届かない。


翌日から、カズオの平穏は完全に消滅した。

 彼が会社に行こうとすると、見知らぬ若者たちがスマートフォンを向けてくる。

「あ、リアル縮図おじさんだ! 画面より哀愁あるわー!」

 彼らはカズオを人間として見ていない。ただの「バズった聖地」として、消費しに集まってきているのだ。


カズオがどれだけ「やめてくれ、私は普通に暮らしたいだけだ」と訴えても、視聴者たちには「おじさんがキレた! メンタル崩壊動画キタ!」と、新たなコンテンツとして再生産されるだけだった。

 会社は「ネットで騒がれる人間は困る」と彼を解雇し、近所の目線に耐えかねた家族も、彼を置いて家を出て行った。


調停員は、あの駅前のベンチで、本当にすべてを失い、完全に魂の抜けた姿で座り込むカズオを見下ろした。


「おめでとうございます。あなたの『ただの日常』は、今や世界中で愛される完璧なアートワークとなりました。誰もあなたの本名や人生には興味がありません。彼らが求めているのは、永遠に哀愁を漂わせ続ける、記号としてのあなたです」


カズオは、涙を流すことさえできなかった。なぜなら、彼が涙を流した瞬間、目の前のインフルエンサーが「最高のリアクション、いただきました!」と、嬉々としてシャッターを切るからだ。


切り取られた縦長の視界の中で、カズオは今日も、ただの「背景」として生きることを強要されている。

 世界がどれだけ彼を消費しても、彼の乾いた心には、一銭の価値も、一欠片の平穏も戻ることはなかった。

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