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『平穏の歪み』第2話:【開示の肉片】

その男、タクヤは、薄暗い自室でスマートフォンを高速でタップしていた。

 画面に映るのは、最近不祥事を起こした有名人のアカウント。タクヤはそこに、痛烈な人格否定の言葉を書き連ねていく。

『社会のゴミ』『生きてる価値なし』『早く消えろ』

「ふぅ……すっきりした」

 投稿ボタンを押した瞬間、彼の胸には奇妙な「平穏」が訪れる。実生活では冴えない自分が、正義の審判を下しているかのような全能感。匿名という強固な防壁の裏側から、彼は毎晩、他人の人生を切り刻むことで自らの精神のバランスを保っていた。


一方、画面の向こう側では、一通の「発信者情報開示請求」の書類が淡々と処理されていた。


調停員は、タクヤのスマートフォンの画面の、青白い光の乱反射の中から現れた。

 今回の「彼」は、裁判所の執行官のような冷厳な黒い法衣を纏い、手には一枚の真っ白な羊皮紙を持っていた。


「匿名による安全圏からの断罪、および法による執拗な追跡。……言葉の刃が、文字のままで終わると思ったら大間違いでございます」


調停員が取り出したのは、一本の「銀色の針」だった。

「因果開示のリアル・トレース。これより、あなたの書き込みと、相手の『開示請求権』を物理的に接続いたします」


調停員が針をスマートフォンの画面に突き立てると、液晶から一本の黒い糸が伸び、タクヤの胸元へ深く突き刺さった。

「うわっ!? なんだこれ、抜けない……!」


「精算開始です。タクヤ様、あなたがこれまで投稿してきた『批判(石)』の数々。その責任の重さを、開示請求のプロセスに従って引き受けていただきます」


次の瞬間、タクヤのスマートフォンに通知が届いた。プロバイダからの、発信者情報開示に関する意見照会書だ。

 その瞬間、タクヤの部屋の壁が、ミシミシと音を立てて内側へ向かって閉まり始めた。


「な、なんだ!? 部屋が狭くなっている!」

「相手があなたの『住所・氏名』を特定しようと手続きを進めるたびに、あなたの物理的な存在領域セーフティゾーンは収縮します。匿名性が剥がれるとは、この世界における防壁を失うということなのです」


タクヤはパニックになり、過去の批判投稿を必死に消去しようとした。しかし、すでに魚拓スクリーショントを取られ、法的な手続きは止まらない。

 数日後、裁判所で「開示決定」が下されたその瞬間、タクヤの部屋の壁は彼の身体を圧迫するほどに縮まり、ついには彼の皮膚そのものが、ペリペリと音を立てて裏返しになり始めた。


「ギャアアア! 痛い! 身体が剥がれる!」


「特定完了です。あなたの氏名、住所、そしてその醜い悪意の全貌が、相手の弁護士のデスクの上に『開示』されました。それに伴い、あなたの肉体もまた、外の世界へ完全に露出いたします」


調停員は、四肢を押し潰され、皮膚を失って生々しい肉塊となったタクヤを見下ろした。

 今や、彼がスマートフォンの画面をスクロールするたびに、その指先から血が滲み、ネット上のあらゆる悪意が、彼の剥き出しの神経をダイレクトに突き刺していく。


「おめでとうございます。これであなたと世界を隔てる『匿名の壁』は完全に消失しました。あなたが他人に投げつけた言葉の刃は、これからはすべて、あなた自身の肉体を削る実体となって戻ってきます」


調停員が去った後、狭い部屋の床には、ただの「開示された情報」として、息を絶え絶えにしながらスマートフォンを握り続ける男の姿があった。

 彼がどれだけ「助けて」と書き込んでも、それはネットの海に漂う、ただの「削除対象のゴミ」として処理されるだけだった。

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