『平穏の歪み』第1話:【無菌室の系譜】
その家には、いさかいの影すらなかった。
リビングでは、二人の美しい子供たちが熱心に宿題をしており、夫のケンジと妻のユキは、お互いに淹れたてのコーヒーを差し出しながら、今日あった出来事を穏やかに語り合っている。
「いつも感謝しているよ、ユキ。君が僕の妻でいてくれて、本当に良かった」
「私もよ、ケンジさん。私たちは本当に、理想的な夫婦ね」
二人の間に、男女としての生々しい接触は、もう何年もなかった。しかしそれゆえに、嫉妬も、独占欲も、肉体の衰えに対する落胆も存在しない。彼らは「家族」という完璧なシステムを運営する、最高の共同経営者だった。
子供たちの優れた才能も、容姿の美しさも、すべてはユキが「外部の優秀なサンプル」から計画的に仕入れてきた成果(托卵)であり、ケンジもまた、それを「我が家の経営効率を高めるための最良の選択」として、完全に容認していた。
調停員は、美しく整頓されたクローゼットの、ハンガーの隙間から現れた。
今回の「彼」は、高級ホテルのコンシェルジュのような、隙のない礼服を着ていた。その指先には、一本の「純白のタクト」が握られている。
「肉体の排除、および純粋な機能美。……素晴らしい。動物的な本能をすべて削ぎ落とし、純粋な『平穏』だけで構築された見事な箱庭でございますね」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、ガラスでできた美しい「血統書」だった。
「無菌家族の証明書。お二人の構築したこの完璧な平穏を、何者にも脅かされないよう、永久に保存いたします」
調停員がタクトを振ると、ガラスの血統書に子供たちの名前と、ユキ、そして「顔も知らないドナーたち」のコードが黄金の文字で刻まれた。そこには、ケンジの名はどこにもない。しかし、ケンジはそれを見て、満足そうに微笑んだ。
「これでいい。僕の不完全な遺伝子が混ざるより、この方がずっと我が家は豊かになれる。愛に、血の繋がりなど不要だ」
しかし、システムが「完璧」になりすぎた時、人間としての境界線が崩壊を始める。
翌朝、ケンジが目を覚ますと、自分の手足が、プラスチックのような硬質な光沢を放っていることに気づいた。驚いてユキを見ると、彼女の肌もまた、陶器のように滑らかで、一切の体温を感じさせないものに変わっていた。
「ケンジさん、おはようございます。今日も完璧な一日を始めましょう」
彼女の声は美しいが、そこには抑揚も、感情の揺らぎもなかった。
子供たちも同様だった。彼らは朝食の席につき、寸分の狂いもないマナーで食事を口に運ぶ。その姿は、精巧に作られた自動人形そのものだった。
「調停員……! これはどういうことだ。みんな、まるで……」
調停員は、ダイニングの特等席に座り、お茶を濁しながら告げた。
「お望み通り、この家から『生々しさ』を完全に排除いたしました。セックスレスから始まったあなた方の脱・動物化は、この証明書によって完成したのです。血の繋がりも、肉体の欲求も、感情の爆発もない。あなた方は今、永遠に劣化しない『幸福な模型』となられたのです」
ケンジは、妻の手を握ろうとした。しかし、触れ合った指先からは、カチリ、とプラスチック同士が噛み合う乾いた音しか聞こえなかった。
そこには、嫉妬もなければ、もちろん愛愛しさもない。ただ、設定された「円満」というプログラムだけが、静かに作動し続けている。
「さあ、微笑んで。お二人で作った、最高にスマートな家庭ではありませんか」
調停員が去った後も、その家では、世界で最も美しい、しかし誰の心臓も鼓動していない「完璧な日常」が、永遠に繰り返されていた。




