『黄金週間の断層』最終話:【重力の月曜日】
5月6日、午後9時。
都内のあるマンションの一室で、会社員のタカシは、テレビから流れる明日の予報を、まるで世界の終わりを告げる宣託のように眺めていた。
「……明日が、来る。行きたくない。あの満員電車も、終わりのない会議も、自分を殺して笑う時間も。このまま時が止まればいいのに」
彼の胃のあたりには、鉛を飲み込んだような重苦しい感覚があった。連休中に得たわずかな解放感が、明日からの反動となって、彼を底なしの沼へと引きずり込もうとしている。
調停員は、タカシの枕元、脱ぎ捨てられたスーツの影から、滲み出すように現れた。
今回の「彼」は、古びた出勤簿を小脇に抱え、灰色のネクタイを締めた、どこか疲弊したサラリーマンのような姿をしていた。
「連休の負債、および現実への拒絶反応。……おいたわしいですね。あなたが今感じているその『憂鬱』は、実は莫大なエネルギーを秘めているのです」
調停員が取り出したのは、一本の「黒いクリップ」だった。
「憂鬱の蓄力器。これをお使いください。明日への不安をすべて吸い出し、あなたの身体を『無重力』の状態まで軽くいたします」
タカシは縋るようにクリップを受け取り、ネクタイに挟んだ。
すると、どうだろう。先ほどまで彼を押し潰していた重圧が、一瞬で消え去ったのだ。心は羽のように軽く、明日会社へ行くことさえ、散歩にでも行くような気軽なものに感じられた。
「すごい……! 全然怖くない。これなら、明日からまた戦える!」
タカシは歓喜し、久しぶりに深い眠りについた。
翌朝、5月7日。
タカシは軽やかな足取りで家を出た。しかし、駅に着いた瞬間、彼は異変に気づいた。
駅のホームにいる人々が、全員、文字通り「地面にめり込んでいる」のだ。
ある者は腰まで、ある者は首までアスファルトに埋まり、泥の中に沈むようにして、這うように改札へ向かっている。人々の口からは「重い」「苦しい」「行きたくない」という呻きが漏れ、その負の感情が、物理的な質量となって街全体を押し潰していた。
「なんだ、これは……! みんな、どうしたんだ!?」
調停員は、改札の屋根の上で、巨大な黒い塊を弄んでいた。
「あなたが捨てた『憂鬱』は、消えたわけではありません。それは社会というシステムに再分配されたのです。……あなたが軽やかに歩くための一歩は、誰か十人の足を、さらに深く泥に沈める重りとなったのです」
タカシが軽快に階段を駆け上がるたびに、隣を歩く老人の背骨がミシミシと音を立てて曲がり、ベビーカーを押す母親がその場に膝をついた。
彼は「自分だけが軽くなった代償」として、周囲の人々の希望を吸い取り、その絶望を倍増させる「社会の寄生虫」へと変貌していたのだ。
オフィスに着くと、そこはさらに悲惨な光景だった。
同僚たちはキーボードを打つことさえできず、モニターの前に倒れ伏している。唯一、タカシだけが眩しい笑顔で「おはようございます!」と声をかける。その明るさが、同僚たちにとっては、暗闇の中で焚かれるマグネシウム弾のような、暴力的な苦痛となって襲いかかった。
「タカシ、頼む……その『前向きさ』をやめてくれ。死ぬほど重いんだ……」
上司が床に這いつくばりながら、血を吐くような声で言った。
調停員は、タカシの耳元で囁いた。
「おめでとうございます。あなたは、世界で唯一、GW明けの憂鬱から解放された存在です。……ただし、あなたが幸せであればあるほど、世界はあなたの重みで崩壊していきます。さあ、今日も全力で、誰かの日常を押し潰して差し上げましょう」
タカシは、自分のネクタイに輝く黒いクリップを見つめた。
彼は笑おうとしたが、その頬は引き攣り、瞳からは涙が溢れた。自分の軽快な一歩が、誰かの絶望の上に成り立っていることを知ってしまった今、その「軽さ」は、どんな重力よりも残酷な地獄となっていた。
窓の外では、5月の眩しい太陽の下、重力に負けた街が、静かに、しかし確実に泥の中へと沈み続けていた。




