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短編:【鏡】

その部屋には、窓が一つもなかった。

 あるのは、壁の一面を覆い尽くす巨大な鏡と、その前に座らされた一組の夫婦だけだ。

 

 今回の調停員は、初老の紳士だった。彼は二人に、ごく事務的な説明を行った。

「お互い、相手の非を数え上げれば切りがないご様子。そこで、こちらの『認識同調鏡』の前で、最後のお話し合いをしていただきます」

 

 夫が鏡に向かって怒鳴った。

「話すことなどない! こいつの無神経さ、家事のずさんさ、すべてが耐えられないんだ。顔を見るだけで反吐が出る!」

 

 その瞬間、夫は「ぐふっ」と短い声を漏らし、自分の腹を押さえてうずくまった。

 鏡の中の自分から、目に見えない衝撃波が放たれたかのようだった。

 

 妻が勝ち誇ったように笑う。

「ざまあみろ。あなたのその傲慢さが、そのまま返ってきたのよ。だいたい、あなたこそ稼ぎが少ないくせに――」

 パチン、と乾いた音が響き、妻の頬が赤く腫れ上がった。自分の放った言葉の鋭さが、鏡を介して自らの顔を打ったのだ。

 

「……さて」

 調停員は、二人の様子を背後で確認すると、音もなく部屋を出た。

 

 彼は隣の部屋へと移動した。そこは薄暗い観測室になっていた。

 壁はマジックミラーになっており、先ほどまで彼がいた部屋を、完全に「外側」から見下ろすことができる。

 

 観測室には、もう一人、依頼人が座っていた。

 それは、この夫婦の間に生まれた、成人したばかりの息子だった。

 

「……ひどいものですね」

 調停員が静かに声をかける。

 マジックミラーの向こうでは、夫婦が血走った目で、なおも互いを罵り合っていた。言葉を発するたびに、夫の肋骨が折れるような音がし、妻の髪が引き抜かれたかのように舞う。自責のダメージでボロボロになりながらも、彼らは相手への呪詛を止められない。

 

「ええ。でも、これでいいんです」

 息子は、無表情に鏡の向こうの地獄絵図を見つめていた。

「僕は子供の頃からずっと、あの部屋の真ん中で、あの言葉のつぶてを浴び続けてきた。今、ようやくあのお喋りな口たちが、自分自身を壊し始めている……。見ていて、とても清々しい」

 

 調停員は手帳にペンを走らせる。

「本件の調停依頼主、長男。目的、精神的苦痛の等価返還。……順調ですね」

 

 マジックミラーの向こう側で、夫が最後の一喝を投じようと口を開いた。

 しかし、それが発せられた瞬間、何が起きたのか。

 

 パリン、と。

 鏡が割れたのではない。

 鏡の前の空間そのものが、耐えきれなくなったかのように、粉々に砕け散った。

 

 静寂が訪れる。

 調停員は観測室の明かりを消し、立ち上がった。

 

「調停終了です。さて、お次の方は?」

 

 マジックミラーの向こうには、もはや肉体であったのか、言葉の残骸であったのか判別できない「何か」が、静かに転がっているだけだった。

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