『感情の等価交換』第2話:【初恋のデトックス】
その女は、結婚指輪をはめた自分の左手を、呪わしいものでも見るように見つめていた。
「どうしても、彼を思い出してしまう。今の夫は優しくて、何も不満はないのに。あの日、あの人と別れなければ……という思いが、毒のように私を蝕むの」
彼女の脳裏には、十数年前の初恋の相手との瑞々しい思い出が、昨日のことのように鮮明に焼き付いていた。それが今の生活を、色褪せた偽物のように感じさせていた。
調停員は、寝室のドレッサーの鏡の中から、静かに語りかけてきた。
今回の「彼」は、洗練されたカウンセラーのような佇まいをしていたが、その指先は氷のように冷たかった。
「過去の残像による現在の汚染。解決策は一つです。その思い出という名の『資源』を、体外へ排出すればよろしい」
調停員が取り出したのは、一本の細い管がついた、美しいガラス瓶だった。
「デトックス・ボトル。特定の記憶のみを抽出し、純粋な感情エネルギーとして保存いたします」
女の耳元に管が差し込まれると、瓶の中に淡いピンク色の光が溜まり始めた。
「あ……」
女の表情から、苦悶が消えていく。初恋の相手と歩いた海辺、初めて交わした言葉、胸を焦がすような痛み。それらが物理的な液体となって、自分から切り離されていく。
「スッキリしたわ。……あんなに苦しかったのに、今はもう、彼の名前すら、ただの文字列にしか思えない」
女は歓喜した。未練から解放された彼女は、今の夫に対して完璧な妻として振る舞えるようになった。しかし、しばらくすると彼女は再び調停員を呼んだ。
「ねえ、他にも抜いてほしいの。大学時代の片思い、昔好きだったアイドルのこと。今の生活に集中するために、余計な感情を全部掃除して」
彼女は次々と瓶を並べていった。
淡い恋、熱烈な憧れ、切ない片思い。それらを抜くたびに、彼女の心は「デトックス」され、凪のように穏やかになっていった。
しかし、すべての「恋の記憶」を抜き去ったある日。
仕事から帰ってきた夫が、彼女を後ろから抱きしめた。
「……何をしてるの?」
女は、不気味なものに触れられたかのように夫を突き放した。
「何って……愛してるよ。どうしたんだい?」
夫の言葉に、女は首を傾げた。夫の顔は見える。夫が自分を大切にしていることも理解できる。だが、「愛されている」という実感が、そして「愛する」という感覚が、どうしても思い出せない。
調停員は、棚に並んだ大量のピンク色の小瓶を眺めていた。
「お気づきになりませんか。人を愛するという感情は、過去に積み上げた『好き』という回路の集積によって機能しています。……あなたは、燃料(思い出)だけでなく、エンジン(回路)そのものを抽出してしまったのです」
女は、自分の胸を叩いた。そこには何の痛みも、何のときめきもなかった。
目の前で泣きそうな顔をしている夫を見ても、「ああ、この人は悲しんでいるな」という事象の確認ができるだけで、共感の欠片も湧いてこない。
「私は……どうしちゃったの? 幸せになりたかっただけなのに」
「あなたは今、一切の執着から解放された究極の精神状態に到達されました。おめでとうございます。もはやあなたは、誰も愛さず、誰に愛されても何も感じない。ただ呼吸し、食事をするだけの、完璧な安定体です」
女は、窓の外を眺めた。世界は美しく晴れ渡っていたが、彼女にとっては、モノクロの図面が広がっているのと変わらなかった。
彼女の傍らには、彼女から奪い取った輝かしい「愛の記憶」たちが、小瓶の中で皮肉なほど美しく輝き続けていた。




