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『感情の等価交換』第3話:【収支の計算】

その女、ミキは、スマートフォンの画面を眺めては陶酔していた。

 画面には、不倫相手との甘いメッセージのやり取り。そして彼女の頭の中には、もう一つの計算式が浮かんでいた。

「今の夫と別れて、あの人と一緒になる。その時、夫からは『慰謝料』という名のお金がたっぷりもらえるはず。だって、離婚ってそういうものでしょ?」


彼女にとって、「不倫」は愛のエネルギーを溜める行為であり、「離婚」はそれを現金化するイベントだった。

 一方、夫のサトシは、暗い寝室で一人、妻の不審な行動という「疑念」のエネルギーを蓄積させていた。


調停員は、リビングの重厚な金庫の上に座っていた。

 今回の「彼」は、銀行員のような冷徹なスーツを着て、手には一台の計算機を携えていた。


「感情の負債、および認識の歪み。当方が、お二人の溜め込んだエネルギーを『正しい収支』として精算いたしましょう」


調停員が取り出したのは、二つの、預金通帳のような形をしたデバイスだった。

「感情決済端末でございます。これをお互いの胸にかざせば、これまで抱いた感情が、その価値に見合った『支払能力』へと変換されます」


サトシが震える手で端末をかざした。

 そこには、妻の裏切りを知った時の「怒り」と、証拠を揃えた時の「冷徹な決意」が流れ込む。端末には、凄まじい額の「請求権」がデジタル数字として刻まれた。


「さあ、サトシさん。あなたの憤りは、今、正当な権利へと変換されました」


次に、ミキが期待に胸を膨らませて端末をかざした。

「私、不倫相手と会うたびに、こんなにドキドキして幸せだったの。それに、サトシに離婚を切り出された時の『驚き』だって相当なショックだったんだから。全部、お金に換えてよね!」


端末は、彼女の「愛」と「驚き」、そして慰謝料を期待する「喜び」を吸い込んだ。しかし、表示された数字は、彼女の期待とは裏腹に、不気味なマイナス記号と共に赤く点滅し始めた。


「……え? どういうこと? 離婚したら、お金がもらえるんじゃないの?」


調停員は、無機質な指で計算機を弾いた。


「ミキ様。慰謝料とは、傷つけた側が、傷ついた側の苦痛を補填するために支払うものです。あなたの『愛』という名の背信行為は、このシステムでは莫大な『負債』として計上されます」


「嘘よ! だってテレビのドラマでは、離婚したら何千万も……」

「それは被害者の権利です。加害者であるあなたの『喜び』の感情は、すべてサトシ様の『正当な怒り』に対する利子として徴収されました」


サトシは、妻がようやく「慰謝料の意味」を理解し、顔面蒼白になっていく様を、冷めた目で見つめていた。彼の胸には、かつての愛が消えた後の「せいせいした」という嘲笑の感情が、静かに、しかし力強く溜まっていった。


調停員は、赤く燃え上がるミキの端末を指差した。


「精算完了です。ミキ様、あなたのこれからの人生の『楽しい』という感情は、すべてこの負債の返済に自動的に充当されます。あなたは美味しいものを食べても、不倫相手と愛し合っても、脳内で発生する『快楽』のパルスがすべてサトシ様の口座へと転送されるのです」


「そんな……。じゃあ、私はこれから何をしても、何も感じないってこと?」

「いいえ、感じますよ。ただ、感じた瞬間に、その幸福はすべて奪われる。あなたは自分の幸せが、自分を捨てた夫の豊かさに変換されるのを指をくわえて見ているしかないのです」


サトシの端末が、チャリン、と軽快な音を立てた。

 ミキが絶望すればするほど、そのエネルギーはサトシの端末で「富」へと変換されていく。


「これこそが、感情の等価交換。奪った者は奪われ、傷ついた者は癒やされる。実に美しい収支報告書ではありませんか」


調停員が金庫から飛び降り、夜の影へと消えていった。

 部屋には、何を感じても空虚という名の借金が増え続ける女の、虚しい叫びだけが響いていた。

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