『感情の等価交換』第1話:【怒りの発電所】
その家のリビングには、常に怒号が響いていた。
「何度言えばわかるんだ! 脱いだ靴下をそのままにするなと言っただろう!」
夫は些細なことで顔を真っ赤にし、テーブルを叩く。妻は無表情にそれを聞き流しながら、家計簿をつけていた。
「……また怒ってる。そのエネルギー、何かに使えればいいのに」
調停員は、ブレーカーボックスのすぐ隣に立っていた。
今回の「彼」は、電力会社の作業員のような作業服を着ていたが、そのヘルメットの下の瞳には、一切の熱が宿っていなかった。
「無駄に捨てられている感情エネルギー。実にもったいない。当方が、それを有効活用するシステムを構築いたしましょう」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、心電図のパッドのような端子がついた、奇妙な変圧器だった。
「感情変換型自家発電機でございます」
夫の胸元に端子が装着された瞬間、部屋のLED照明がかつてないほど明るく輝いた。
「な……何だこれは」
「素晴らしい。ご主人の怒りの電圧は非常に高い。これなら家中すべての電力を賄えますよ」
それからの生活は一変した。
夫が怒れば怒るほど、エアコンは快適に動き、電子レンジは素早く温まり、妻のスマートフォンの充電は一瞬で完了した。妻は当初、夫の怒りに怯えていたが、次第に「怒り」を「インフラ」として見るようになった。
「あなた、今日は天気が悪いから乾燥機を使いたいわ。もっと強く怒ってくれない?」
「……なんだと? 俺の怒りを何だと思ってるんだ!」
「そう、その調子よ! ほら、洗濯機が回り始めたわ」
妻は、わざと夫の嫌いな料理を出したり、大事にしている本を隠したりして、効率的に「発電」を促すようになった。夫は発電機としての役割を果たすため、四六時中、血管が切れそうなほどに怒り狂い、家の中は常に眩いばかりの光と快適な室温に保たれた。
しかし、限界は突然訪れた。
ある朝、妻が夫の顔を叩いて罵倒しても、夫は何も反応しなかった。
夫の瞳からは光が消え、顔色も灰色のようになり、ただ椅子に座って一点を見つめている。心臓の端子は冷たく、部屋の明かりはチカチカと点滅して消えた。
「ちょっと、どうしたの? 早く怒りなさいよ。お風呂が沸かせないじゃない」
妻が揺さぶっても、夫は「……ああ、もう、どうでもいいよ……」と力なく呟くだけだった。怒るための感情をすべて電力として絞り出され、彼の心は完全に焼き切れてしまったのだ。
調停員が、暗くなった部屋に現れた。
「出力ゼロ。感情の枯渇による機能停止です。これ以上の発電は見込めませんね」
妻は、真っ暗になった豪華な家電製品と、動かなくなった夫を見比べ、忌々しそうに舌打ちをした。
「役立たず。電気も作れないなら、ただの粗大ゴミじゃない。……ねえ、これ、引き取ってもらえないかしら。場所を取るだけだわ」
調停員は、無機質な手つきで夫の胸から端子を外した。
「承知いたしました。資源ゴミとしての回収を手配しましょう。……もっとも、再利用できるほどの心は、もう一欠片も残っておりませんが」
翌朝、ゴミ集積所には、中身の抜けた抜け殻のような男が一人、他の不燃ゴミと一緒に捨てられていた。
家の中では、妻が新しい「悲しみで動く蓄電池」のパンフレットを熱心に眺めていた。




