『役割の終焉』第5話:【記号の氾濫】
その男は、山岳地帯でも耐えうる最高峰の防寒着を纏い、都会の喧騒を歩いていた。
かつてそのブランドのロゴは、極地を知る者だけが通じ合う「本物の証」だった。しかし、ふと周囲を見渡せば、隣の女子高生も、買い物帰りの主婦も、駅前のサラリーマンも、全く同じロゴを背負っている。
「……これじゃあ、制服じゃないか」
男は苦々しく呟いた。機能美に惚れ込み、その「特別さ」を愛していたはずなのに、誰もが着始めた瞬間、それは「個性を埋没させる記号」という正反対の役割に変わってしまった。
調停員は、ショーウィンドーの反射の中に立っていた。
今回の「彼」は、流行の先端を行くような華やかな服装をしていたが、その目は流行に飽き果てた虚無の色をしていた。
「希少性による優越、および大衆化による価値の希釈。……おいたわしいですね。あなたが愛した『特別』を取り戻して差し上げましょう」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、一本の「透過スプレー」だった。
「これをお使いください。これを吹き付けたものは、それを『理解できない者』の目には映らなくなります。真の価値を知る者だけの、究極の独占でございます」
男は喜んで、自分の愛用するウェアにスプレーを吹きかけた。
すると、街ゆく人々が着ている同じブランドの服が、男の目から次々と消えていった。
「ああ、これだ! やっと静かになった。僕だけが、この本物を着ているんだ」
しかし、異変はすぐに起きた。
男がレストランに入ろうとすると、店員が彼を突き飛ばした。
「……え?」
店員の目には、男の着ている服は「存在しないもの」として映っている。つまり、店員の視点では、男は「全裸」で街を歩いている狂人にしか見えないのだ。
「待て! 僕は服を着ているんだ! 最高級の、本物の……!」
男が叫ぶが、警察官が駆け寄り、彼を取り押さえる。誰も男の誇り高きロゴを見てはくれない。
調停員は、パトカーに押し込まれる男を眺めながら、静かに呟いた。
「役割とは、他者との共有(共犯関係)によって成立するものです。誰にも理解されない『特別』は、この世界では『無』と同じでございます」
男は独房の中で、誰にも見えない最高級の防寒着に包まれながら、凍えるような孤独に震え続けた。




