第十七話:北野の坂道、あるいは未完の上書き
葛城のアトリエを後にし、夕闇が迫る北野の坂道を下っている最中だった。
本来なら、葛城を取り逃がした悔しさやら、霧の王の最後についてやらを話し合うべきタイミングなんだが、俺の腕の重量がそれを許さない。
「……なぁ、道満。いつまでしがみついとんねん。歩きにくいんやけど」
道満は俺の左腕に両手でしがみついたまま、トロンとした上目遣いで俺を見上げていた。茹で上がったサーバーみたいに顔は赤いまま、その瞳には完全に知性がログアウトした「熱」が宿っている。
「……足りひん。……晴明、全然足りひんよ……」
「はぁ? 何がやねん」
「……まだ、葛城の感触が残ってる気がするんやもん。……もう一回……。もう一回だけ、上書きして……?」
九字切りの指先で俺のシャツの裾をギュッと掴み、道満が甘えるような声を漏らす。あの勝気な「道満」はどこへ行った。完全に恋愛プログラムの暴走状態だ。
その光景を横で歩いていた博雅が、悟りを開いた高僧のような顔で天を仰いだ。
「……あー。……あの親父にして、この子あり、か。血筋ってのは、呪いよりも恐ろしいもんやなあ」
「おい博雅、変な納得の仕方すんな。……お前からも何か言うてくれよ」
助けを求めた俺に、博雅は慈愛に満ちた(あるいは心底呆れ果てた)眼差しを向けて、一歩引いた。
「悪い、晴明。俺はもうキャパオーバーや。麗子総理も待っとるし、俺は先に店に戻って報告を済ませとくわ。……その『デバッグ作業』、納得いくまでやってくれ」
「おい、待て博雅! 見捨てんじゃねーよ!」
博雅は「お幸せにな」とでも言いたげな背中で、足早に坂を下っていった。
残されたのは、街灯が灯り始めた北野の路地裏。俺と、俺に密着して離れない、熱を帯びた幼馴染の二人だけだ。
ふと、道満が立ち止まった。
俺が視線を上げると、そこには不自然なほど煌々と輝くネオン看板。
北野の歴史的な街並みに突如として現れた、場違いなラブホテルの入り口だった。
「……晴明、あそこ……。あそこなら、誰にも邪魔されんと……ゆっくり、上書きできるな……?」
道満の潤んだ瞳が、俺とホテルを交互に見つめる。
なぁ、あんたならどう思う?
葛城のバグを直したと思ったら、今度は幼馴染の「ログイン・エロス」を、この状況でシャットダウンしなきゃいけないなんて。
「……やりたかないねー、ホンマによー。……でも、このまま店に連れて帰ったら、母ちゃんに何言われるか分かったもんじゃないし」
俺は五芒星のジッポを弄りながら、目の前の「最悪の二択」を前に、左手の指輪がかつてないほど激しい警告を鳴らしているのを感じていた。
「……なぁ、道満。本気で言うてんのか? あそこ、ただのサーバー室とちゃうぞ」
俺が投げやりに問いかけると、道満は俺の腕をさらに強く抱きしめ、熱い吐息を漏らした。
「……わかっとるよ。でも、うちの『最初』をあんな奴に上書きされたままなんて、末代までの恥や。……晴明のパッチで、隅々まで消去してほしいんや……」
潤んだ瞳に、もういつもの勝気な呪術師の面影はない。完全に「女」の顔でログインを求めてくる。
左手の中指、お揃いの銀の指輪が、二人の高鳴る鼓動に同期して熱を帯び、脈動している。神父の祈りも、両親の「愛のノイズ」も、今この瞬間は、二人の背中を押す悪魔のコードにしか聞こえない。
「……あー、クソッ。やりたかないねー、ホンマによー……」
俺はそう悪態をつきながらも、指先で五芒星のジッポを弾き、火を灯さずにポッケにねじ込んだ。警告を鳴らし続ける右手を、道満の細い腰に回して引き寄せる。
「……一回じゃ済まへんぞ。お前の全データを、俺の色で塗り潰してやんよ」
「……なんか……。……慣れててムカつく……」
ネオンの毒々しい色彩が、坂道に落ちた二人の影を飲み込んでいく。
この先に待ち受けているのは、西洋の王でも日本の呪術でもない、もっと生身で、もっと濃密な「相互書き換え」のログだ。
なぁ、あんたならどう思う?
夕方の北野で、幼馴染にせがまれてラブホにチェックインするトラブルシューターなんて。
「……この後、親と総理に会う時の顔、どうすりゃええねん……」
俺たちは、吸血鬼騒動の余韻を置き去りにして、異質な扉の向こうへと足を踏み入れた。




