第十五話:キャンバスの牢獄
北野の急な坂道を上りきった先に、そのアトリエはあった。
観光客が賑わうエリアから僅かに外れた、蔦の絡まる古い洋館。本来なら異人館街の歴史的な風景の一部だが、俺の右手の指先は、建物の輪郭がノイズのように歪んで見えるほどの「違和感」を検知していた。
「……ここやな。入り口からして、日本の術式を拒絶する嫌なパッチが当たっとるわ」
道満が左手の銀輪を構え、不快そうに顔を歪める。俺たちは重い鉄製のドアを押し開け、中へと踏み込んだ。
広大なアトリエ内は、異様な静寂と、鼻を突くような「古い血」の匂いに包まれている。
その時、俺のスマホに保憲からの秘匿ログ(プライベートメッセージ)が割り込んできた。
『安倍くん。有世が港の棺の残留思念を完全に再構築した。驚くべき結果だよ。……あの棺は、最初から「空」だったんだ。あれはただの固定された転送ゲート(ポータル)に過ぎない。本体である「霧の王」は、神父さんが受け取りに来るよりずっと前に、そのアトリエへ直接ログイン済みだ。港で暴れていたのは、ゲートにこびり付いた残滓データが暴走しただけのデコイだよ。……気をつけたまえ、君たちの目の前にいるのは「本物」だ』
「……はぁ。やりたかないねー、本当に。あいつ、最初から安全圏で高みの見物してたってわけだ」
保憲の通信を切ると同時に、アトリエの奥から博雅の短い悲鳴のような声が上がった。
「……おい。あそこを見ろ。なんやねん、これ……」
博雅が指差した先。そこには、見るに堪えない「画材の調達」が行われていた。
漆黒の正装に身を包んだ、この世のものとは思えないほど美しい男——本物の『霧の王』が、あろうことか純銀の杭で床に四肢を縫い付けられ、無残に転がっていた。西洋の始祖たる王が、日本の美術商の手によって、文字通り「標本」にされている。
「――おや。思ったより早い到着ですね。加茂家のお坊っちゃんに、正解のログを教えられましたか?」
キャンバスの陰から現れた葛城は、血に濡れたナイフを弄びながら、冷徹な微笑を浮かべた。
こいつはただの美術商じゃない。外来の怪異を「素材」として解体し、日本の霊的土壌に強制移植するマッド・デバッガーだ。
「葛城……お前、西洋の王を、ただの画材扱いにしてんのか?」
博雅の怒りに、葛城はくすくすと笑った。
「西洋の王? 誇り高き始祖? ……そんなものは、この国の色彩に染め上げれば、ただの良質な絵具に過ぎませんよ」
葛城はそう言うと、手にした筆を、床で喘ぐ『霧の王』の心臓へと深く突き刺した。
始祖の王が絶叫する間もなく、その存在が鮮血のインクとなって葛城のキャンバスへ、そして彼自身の体内へと吸い込まれていく。
「……っ、吸血鬼の権限を、丸ごと上書き(オーバーライト)したやと……!」
道満が戦慄する中、葛城の肌が不気味な白銀色に染まり、背後から霧のような「海外パッチ」の翼が広がった。
人間のOSに、吸血鬼の始祖という最悪のプラグイン。目の前にいるのは、もう俺たちの知る「人間」でも「妖怪」でもない。
なぁ、あんたならどう思う?
IWGPのトラブルシューター宜しく、俺は神戸の掃除屋だ。
吸血鬼を倒しに来たつもりが、そいつを食ってさらにバグを煮詰めたような「化け物」とやり合わなきゃならないなんて。
「……やりたかないねー、ホンマによー。……葛城、お前のその『最高傑作』、今すぐゴミ箱へシュートしてやるんだわ」
俺の左手の銀輪が、吸血鬼の力を奪った葛城の殺意に反応し、かつてないほど鋭利な白銀のパルスを刻み始めた。




